第103話 永遠を願うなら
キッチンには
香ばしい焼きたてのパンの香りが漂っている。
木製の大きなテーブルには
サラダの色鮮やかな野菜が盛られ
湯気を立てるスープが並んでいる。
その中央には
ふっくらと焼き上がったオムレツが皿に盛られ
トマトソースが鮮やかな彩りを添えている。
グラスには冷えたフレッシュジュースが注がれ
朝の爽やかさを引き立てていた。
時也は藍色の着物を襷で纏めた姿のまま
仕上がりを確認している。
丁寧にカップに注がれた香り高いコーヒーが
キッチンのカウンターに並べられた。
その時、裏庭から聞こえるレイチェルの笑い声と
ソーレンのやや息切れした声が耳に届く。
「ふふ。良い朝ですね⋯⋯」
時也は微笑みながら
キッチン側の窓を少しだけ開け
裏庭の二人に声を掛けた。
「お二人とも、朝食の用意ができましたよ!」
その声に、レイチェルが振り返り
元気よく手を挙げた。
「はーい!ありがとう、時也さん!」
ソーレンも肩を回しながら息を整え
苦笑いを浮かべた。
「おう、サンキュ。腹減ってたんだよ」
二人は軽く汗を拭き、玄関に向かって走り出す。
その様子を見て
時也は微笑を浮かべて窓を閉めた。
(ソーレンさん
またレイチェルさんに引っ張られて⋯⋯
まぁ、微笑ましい光景ですね)
時也は食卓のセッティングを確認し
ちょうど焼きあがったトーストを籠に入れて
テーブルへ運ぶ。
その時、背後で小さな足音が聞こえた。
振り返ると
寝間着姿のアリアが
ゆっくりとキッチンに入ってきた。
寝惚け眼で、長い金髪を軽く手櫛で整えながら
無言のまま時也の方に歩み寄る。
「おはようございます、アリアさん」
そう言って、時也はアリアの髪を優しく撫でた。
アリアは目を細め、微かに頷きながら
彼の胸元に額を寄せる。
(⋯⋯まだ眠いんですね)
時也は微笑んで
アリアの背中をそっと抱きしめた。
(⋯⋯騒がしいな)
アリアの小さな心の声が響くと
時也は軽く笑った。
「ええ。
ソーレンさんとレイチェルさんが
朝から特訓していましたから」
アリアは僅かに眉を寄せ
呆れたように息をつく。
(⋯⋯特訓──か)
「はい。
でも、こうしてみんなが元気なのは
嬉しいことですね」
時也はそう言って
アリアの額に軽く口づけを落とした。
間もなく、玄関の扉が開き
ソーレンとレイチェルが
勢いよくキッチンに飛び込んできた。
「時也さん!めっちゃ、いい匂いするー!」
「お前、汗だくだぞ。ちゃんと拭けよ」
ソーレンがレイチェルを咎めると
彼女は慌ててタオルを取りに行こうとする。
時也は二人の様子を見て
用意しておいたタオルを渡した。
「はい、どうぞ。
汗をかいたままでは風邪を引きますよ」
「ありがとー!」
ソーレンも受け取りながら
時也に軽く手を挙げた。
「お、助かる」
アリアは解るか解らないか程に微笑みながら
そのやりとりを見守っている。
ソーレンがふとアリアに気付き
やや気まずそうに頭を搔いた。
「⋯⋯悪い、朝から煩かったか?」
アリアは無言で首を振り
時也が代わりに言葉を添えた。
「大丈夫ですよ。
アリアさんも
元気な声を聞けて嬉しいとおっしゃっています」
アリアが小さく頷くと
ソーレンも安心したように肩を下ろした。
時也は最後に
テーブルの上に焼き立てのパンを並べ
全員が席につくのを確認した。
「それでは、いただきましょうか」
アリアが顔の前で手を合わせ、僅かに礼をする。
ソーレンとレイチェルも声を揃えて
元気に「いただきます!」と手を合わせた。
時也と青龍が食事前に手を合わせる動きが
いつの間にか全員に浸透していた。
穏やかな朝──
喫茶桜には、幸せの笑い声が響いていた。
時也は、そんな日常を守り続けたいと願いながら
テーブルの中央に置かれた
オムレツを切り分けていた。
アリアはその様子を静かに見つめ
金色の髪がゆったりと揺れている。
深紅の瞳は相変わらず無表情だが
少しだけ柔らかさが漂っていた。
ソーレンとレイチェルは向かい側に座り
がっつりと朝食を頬張っている。
特にレイチェルは特訓の後でお腹が空いたのか
次々と食べ物を口に運んでいる。
その隣で
ソーレンがゆったりとコーヒーを啜りながら
やや呆れた表情を見せていた。
「ね!ソーレン!
この後、ちょっと買い物に行きたいの!
付き合ってくれない?」
レイチェルが無邪気にソーレンに声を掛けると
彼は一瞬、眉を顰めて返す。
「⋯⋯あ?
もしかして、その為に
こんなこっ早くから特訓したのかよ?」
レイチェルはニコッと笑って
悪戯っぽく目を細めた。
「ふふ。バレた?」
ソーレンは軽く溜め息をつきながら
パンを齧る。
「ったく、最初から言えよ。
まぁ、どうせ付き合わされるんだろ?」
朝食を取りながら
楽しそうに話す二人の様子に
時也は思わず微笑みながらパンを口に運ぶ。
その時、ふと青龍が静かに口を開いた。
「⋯⋯ふむ。
久しぶりに不肖の弟子を鍛えようかと
思ったのですがね⋯⋯」
鋭い山吹色の瞳が、チラリとソーレンを睨む。
その視線にソーレンは少し顔を引き攣らせ
戸惑ったようにレイチェルを見る。
「レイチェルぅ~。
出掛けんの、楽しみだな!」
ソーレンが、わざとらしく声を張り上げると
レイチェルがくすくす笑った。
「わ、ソーレン⋯⋯露骨に嫌がってる!」
青龍は「ふん」と鼻を鳴らして
パンを少しだけ齧った。
「貴様は元より、鍛錬が足りぬのだ」
ソーレンは何とかその話題を流そうと
手元のスープを慌てて啜る。
レイチェルはその様子を面白がりながら
「大丈夫、大丈夫」と軽く背中を叩いた。
そんなやり取りを、時也は優しく見守っていた。
(⋯⋯良い時間、だな)
不意に、アリアの心の声が響く。
その言葉に、時也は柔らかな笑みを浮かべながら
隣に座るアリアの背にそっと手を添えた。
「──はい。アリアさん」
アリアは一瞬だけ時也を見つめ
すぐに深紅の瞳を伏せた。
無言のまま、彼女の白磁の肌が
僅かに紅潮しているのが分かる。
その微かな変化すらも
時也にとっては愛おしくてたまらない。
アリアが少しだけパンを齧り
繊細な唇に柔らかな曲線が宿る。
その瞬間を見逃すまいと
時也はそっと視線を向け続けていた。
(不死鳥さえ解決すれば⋯⋯
こんな穏やかな時が当たり前に増え
アリアさんも感情を押し殺さずに──
共に笑えるのだろうか⋯⋯)
ソーレンとレイチェルの間にもいずれ子が産まれ
その成長を見守りながら、共に歳を重ねる。
いつかその子が成長し、親になり──
自分達には、年輪のように皺が刻まれていき
そして、いつか──看取られながら逝く。
(今度こそ⋯⋯
貴女の願い、僕が叶えてみせます)
時也はそっとアリアの髪を撫で
その金糸のような美しさに心を癒される。
アリアはその優しい手の温もりに一瞬だけ戸惑い
しかし拒むことなく、そっと頬を預けた。
微かに息を吐き、心地よさそうに目を閉じる。
「⋯⋯時也」
アリアが短く名前を呟くと
時也はその声に、胸が震えた。
「⋯⋯はい」
ただ、それだけの応えで十分だった。
アリアの心が少しだけ解けた瞬間を
時也は大切に胸に刻む。
喫茶桜の店休日。
何気ない朝食のひとときに
かけがえのない幸福が確かに存在している。
それを守りたい──
そう強く思いながら
時也は再びアリアの背を優しく撫でた。
朝の陽光が窓から差し込み
五人の様子を優しく照らしていた。




