第100話 甘さと鞭と
「ふぁー!
でも、アリアさんの記憶
あと、何百年分あるんだろ⋯⋯」
軽く伸びをしながら言ったその言葉には
まだ少し疲れが滲んでいる。
ソーレンは苦笑を浮かべながら
呆れたように肩を竦めた。
「⋯⋯無理して擬態しねぇでも
いいんじゃねぇか?」
レイチェルはその言葉に
僅かに笑みを見せて首を振った。
「ううん!
不死鳥をぶん殴る為にも
アリアさんに擬態できた方が良いしね!
頑張るぞー!」
その意気込みに
ソーレンは思わず眉を顰めたが
すぐに呆れたように溜め息をついた。
「⋯⋯俺がもっと強くなるから
俺に擬態しときゃ⋯⋯いいだろが」
ぶっきらぼうにそう言うソーレンの横顔を見て
レイチェルはクスリと笑った。
「ふふ!ありがとうね、ソーレン。
二人でもっと、強くなろうね」
その言葉に
ソーレンは少しだけ恥ずかしそうに顔を背けた。
「ほんと、強い女ばっかで──参っちまうぜ。
擬態の練習、俺の前でだけにしろよ?
泣いても、傍にいてやるからよ」
その不器用な優しさが
レイチェルの心にじんわりと染み渡る。
レイチェルは少し首を傾げて
ソーレンを揶揄うように微笑んだ。
「⋯⋯泣いてる女の扱いは
知らないんじゃなかったの?」
ソーレンはキョトンとした顔をしてから
ニヤリと笑った。
「ん?今、覚えてるとこだよ」
その言葉と同時に
ソーレンはレイチェルの涙の痕を
優しく指で拭った。
温かくて、少しだけ粗野なその手の感触に
レイチェルの胸が少しだけ高鳴る。
「⋯⋯今回も、お疲れさん。
今度からは、もう少し早く戻してやるからな。
俺のせいで長い時間、記憶を見ちまって⋯⋯
まだしんどいだろ?」
ソーレンの声には、深い後悔が滲んでいた。
意識を奪われていた時──
もし時也が駆けつけていなかったら
どうなっていただろうか。
千年分の記憶に一気に触れ
精神が壊れていたかもしれない。
それどころか
アリアの姿から戻れなくなり
レイチェル自身が消えていたかもしれない。
そう考えると
ソーレンは胸が苦しくなって目を伏せた。
時也が鞭を打ってくれなければ
レイチェルは今頃──
呼び起こされた際に打たれた背中が
今になってズキズキと疼き、痛み出す。
その痛みが冷や汗を誘いながらも
ソーレンの覚悟を新たにする。
「ねぇ、ソーレン⋯⋯
もう少しだけ──頑張ってみても良い?」
レイチェルが
ソーレンの胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
その声は少し震えていて
どこか決意が籠っているようにも感じられた。
ソーレンは
レイチェルの意図が掴めずに眉を顰める。
「⋯⋯は?
お前、もう一回擬態するつもり⋯か──」
湧き上がる不安に
ソーレンが言葉を続けようとした
その瞬間──
「ん⋯⋯っ」
レイチェルはソーレンの唇に
そっと触れるだけのキスを重ねた。
驚きに硬直するソーレン。
一瞬の出来事に
彼の脳内は完全に真っ白になってしまった。
レイチェルは顔を赤らめながら、ぽつりと呟く。
「⋯⋯うん!がんばれた!」
その言葉に、ソーレンはようやく現実に戻り
安堵からか肩の力が抜けた。
「⋯⋯ったく。ヘッタクソなキスだな?」
少しだけ照れ隠しのように
ソーレンは口元を歪めて笑った。
「は、初めてなんだから、仕方ないでしょ!?」
レイチェルが拗ねたように言い返すと
ソーレンはじっと彼女を見つめた。
少し俯いたレイチェルの髪を
ソーレンは優しく掻き上げる。
「⋯⋯なら、教えてやるよ」
その声は低く、甘さを含んだ囁きだった。
突然の誘いにレイチェルの耳がカッと熱くなる。
次の瞬間
ソーレンの顔がゆっくりと近付いてきた。
レイチェルの心臓が耳鳴りのように大きく響く。
ソーレンの手がそっと彼女の頬に触れ
親指で柔らかく撫でた。
その温もりに心が揺れ
自然と瞼が閉じられていく。
ソーレンは優しく唇を重ねた。
さっきのような、触れるだけのキスではなく
柔らかく包み込むような──深い口づけ。
その動きは
戸惑うレイチェルを解きほぐすかのように
ゆっくりと優しく──
唇が押し合い
僅かに角度を変えながら
柔らかさと熱が、じわりと溶け合っていく。
レイチェルの心臓が、ますます高鳴っていった。
胸の奥が甘く痺れて何かが溢れ出しそうになる。
少しだけ唇を離し
ソーレンが吐息混じりに囁いた。
「⋯⋯まだ、こんなんじゃ足りねぇだろ?」
その声に、レイチェルは反射的に
僅かに身体を強ばらせながらも──
ソーレンのシャツを掴んだ。
「うん⋯⋯もっと、してほしい⋯⋯」
その可愛らしい願いに
ソーレンの瞳が優しさを増す。
今度は、少しだけ力を込めて深く重ねる。
唇の形がしっかりと合わさり
息が混じり合っていく。
やがて唇が離れると
レイチェルの呼吸が荒くなり
ほんのりと頬を染まっていた。
「⋯⋯っ、ソーレン⋯⋯」
レイチェルは羞恥で俯き
少しだけ口元を手で隠した。
ソーレンはそんな彼女を見て
愛おしそうに頭を撫でた。
「⋯⋯お前が覚えるまで
いくらでも付き合ってやるよ。
ただし、覚えるのは──俺のだけだからな?」
レイチェルはその言葉にまた顔を赤らめ
頷くことしかできなかった。
ソーレンの言葉は、どこまでも不器用だけど
確かに優しさが籠っていて
レイチェルの胸がじんわりと温かくなる。
ソーレンがもう一度、今度は優しく唇を重ねた。
そのキスにレイチェルは身を任せ
再び心地良い甘さに包まれていった。
その甘さと熱さに──体温上がっていく。
唇が重なり合う感触が、全身に伝わってくる。
ソーレンの舌が軽く触れてきて
レイチェルの肩は、びくりと震えた。
「──っ」
その反応が愛おしくてたまらないのか
ソーレンは微かに笑みを浮かべ
もう一度ゆっくりと角度を変えて唇を重ねる。
舌先が柔らかく押し込まれ
レイチェルは息が詰まりそうになったが
ソーレンが背を撫でてくれることで
少しずつ安心感が広がる。
「んぅ、⋯⋯はっ⋯⋯!」
初めての感覚にレイチェルは身を委ねるように
自然とソーレンの背中に腕を回した。
その逞しい背の筋肉が
どこまでも頼もしく感じられて
レイチェルは力を込めて抱きしめた。
瞬間──
レイチェルの手にヌルッとした感触が伝わった。
「⋯⋯え?」
驚いて目を開けると──
掌が真っ赤に染まっている。
「ひっ──きゃあああっ!」
一瞬
理解が追いつかずに思わずレイチェルが叫ぶと
ソーレンがキスを中断し
驚き混じりに顔を上げた。
「⋯⋯おい、どうした──?」
レイチェルは
震える手を見つめながら言葉を紡いだ。
「ち、血が⋯⋯っ!」
ソーレンはその言葉を聞き
ようやく自分の背中に走る痛みを思い出した。
「あぁ、時也に打たれたやつだな⋯⋯。
平気だって、こんなもん。
唾つけときゃ──」
ソーレンが言い終わる前に
廊下からバタバタと足音が近付いてきた。
「し、失礼しますねっっ!!」
ドアが勢いよく開き
時也が植物の蔓を鞭のように構えたまま
飛び込んできた。
部屋に入った瞬間
レイチェルに覆い被さるソーレンの姿を見て
鳶色の瞳が──冷徹に光った。
「⋯⋯ソーレンさん⋯⋯っ!
貴方を信じて部屋を去りましたが⋯⋯
まさか──無理矢理に!?」
その声は低く、静かでありながらも
確かな怒りが滲んでいる。
ソーレンは慌てて手を挙げ
弁解しようとするが⋯⋯
パァン──ッ!
時也は蔓を一振りし、床に激しく叩きつけた。
「⋯⋯おいおいおい!!
待て、時也っ!誤解だ──っっ!!」
レイチェルが
慌ててソーレンの肩を掴み、叫んだ。
「時也さん!ソーレンの背中がぁ!」
その言葉に、時也の冷徹な瞳が一瞬で和らぎ
驚きと共に鞭を下ろした。
「⋯⋯⋯おや?」
冷たい空気が一気に解け
蔓が花弁に変わって、散りゆく。
時也は溜め息をつきながら
ソーレンの背中に近付きシャツを持ち上げた。
「⋯⋯だから
処置しましょうと、言ったんですよ。
僕も手加減できる状態では無かったですし⋯⋯」
ソーレンは少し気まずそうに頭を掻きながら
渋い顔を見せた。
「お前ら、心配し過ぎなんだよ。
⋯⋯まぁ、なんだ。その、悪かった」
レイチェルは気まずそうなソーレンの様子を見て
少しだけ笑ってしまった。
「ふふ!私が治療してあげよっか?」
「⋯⋯おう。
でも、少しは慣れとけよ?
血と──キスくらい、な?」
「な、慣れるって⋯⋯」
そんな二人を見て
時也は肩を竦めながら呟いた。
「はぁ⋯⋯若いって、いいですね」
呆れながらも
時也の柔らかさを取り戻した笑みを見て
レイチェルはようやくホッと胸を撫で下ろした。




