第10話 大災害
時也の言葉を聞き終え
レイチェルは小さく肩を竦めた。
内心で、そっと呟く。
─ソーレンの横恋慕の話題には
なるべく触れないようにしよう─
と。
先ほどの、時也の表情。
温厚で理知的に見える彼にしては
あまりにも露骨な怒りと嫉妬が滲んでいた。
それを見てしまえば
誰であっても、口にすべき話題と
そうでない話題の区別はつくはずだった。
空気を変えるため
レイチェルは努めて明るい声音で
話題を切り替えた。
「……それでは、私が──
初めての〝転生者〟の来客者……ということで
良いですかね?」
声には明るさを込めた。
ほんの少しだけ、冗談めかして。
この嫉妬で張り詰めた空気が
少しでも和らげばと思っての言葉だった。
けれど──
時也の表情は、ふいに翳った。
鳶色の瞳が、静かに伏せられる。
「……レイチェルさんより以前に
転生者の来店はありました。
……けど」
その言葉に、レイチェルの心がぴくりと強張る。
(……しくじった、かしら?)
沈んだその声音に
どこか触れてはいけない何かを
突いてしまった予感があった。
「……けど?」
問い返す声にも、思わず遠慮が滲む。
時也は、小さく、深く溜め息を吐き
そして──口を開いた。
「アリアさんを、傷つけるだけ傷つけて……」
一言一言、言葉を選ぶように
ゆっくりと話しはじめた。
「……その上、その方は
自分のした事の驚きのあまり
逃げて行ってしまいまして⋯⋯
説得することも、叶いませんでした」
「……えっ」
レイチェルは言葉を失った。
「店は血塗れの大惨事ですし……
お客様は突然の流血沙汰に
大混乱になりますし……」
さらに落ち込んだ声音で
時也は額に手を当てる。
今にも頭を抱えそうな姿だった。
「……苦し紛れに
ソーレンさんを、重力操作で飛ばして……
リアルさを求めた〝映画撮影〟なんです!
と、装ったり……」
「…………」
レイチェルは黙った。
──情景が
鮮やかすぎる程に、頭に浮かんでしまったのだ。
血の海と化した店内。
飛び交う悲鳴と混乱。
宙に浮かされるウェイター。
〝これは撮影の演出〟だと真顔で説明する時也。
(……それはもう〝大惨事〟というか
ある意味で〝大災害〟だわ……)
想像だけで胃が痛くなりそうだった。
思わず、口元を手で覆ってしまう。
「……大変だったのです」
ぽつりと漏れた時也の呟きには
心底の疲労と、切実な諦観が滲んでいた。
レイチェルは
どう言葉を返していいか分からず
ただ申し訳なさそうに微笑む。
「……ご苦労様でした」
それしか言えなかった。
「なので……」
応えるように苦笑を浮かべると
時也は再び、湯呑に視線を落とす。
その声には、淡々とした冷静さが戻っていた。
「彼女に殺意を持つなどの心の動きがあれば──
青龍に指示を出して
睡眠薬入りの飴を渡そう、と至ったのです」
「……睡眠薬?」
レイチェルの脳裏に、あの幼子──
青龍が差し出した飴玉の記憶が蘇った。
小さな手で、飴を差し出してきた彼の姿。
それを、疑うこともなく受け取って
口にした自分。
まさか──あれが。
─暴れる前に眠らせてしまえば
確かに、客に気を配ることは無い─
「はい」
時也は、穏やかに微笑んだ。
その表情は、どこか慈愛に満ちていたが──
その内側には、緻密な計算と策があるのだと
レイチェルはようやく気付いた。
「転生者の魂は
一度アリアさんに報復を行わなければ
怒りと怨みで我を失っていて
まともに会話ができませんからね……。
報復させて、落ち着かれてから
お話する必要があるのです」
その言葉を聞いた瞬間。
レイチェルの記憶が──
再び、喫茶桜の店内へと引き戻される。
アリアが座っていた
あの異様な硝子張りの特設席。
まるで
どこかの美術館に展示された人形のように
ただ静かに座っていた彼女。
外から遮るように垂れ下げられ纏められた
分厚いカーテン。
硝子の壁。
タイル張りの床。
それは〝異常なまでの清掃のしやすさ〟
(……そうか。あれは……)
転生者が暴れても、店内を汚さないため。
他の客に見せず、影響を出さないため。
そして、血が流れても、すぐ洗えるため。
完璧な──〝処刑場〟だった。
けれど、その目的は誰かを処すためではなく
怒りを、怨みを、吐き出させるための──
〝舞台〟
(……転生者が
まともに話せないほどの──怒りと怨み……)
自分も──そうだった。
あの時。
ただ、憎かった。
抑えられなかった。
理屈なんて、通じなかった。
自分が自分でなくなるほどの激情に身を任せ
無意識に、ナイフを手に取っていた。
「……私も
アリアさんを傷つけてしまった時は……
自分が、自分じゃないような感じでした……」
呟くように言うと、喉の奥が苦くなった。
胸の中に
まだどこか熱が残っている気がしてしまう。
けれど、それは──怒りではない。
罪の意識だった。
「私は……
対策が整ってから、此処に来れたんですね……」
ようやく
今の自分の〝位置〟を認識できた気がした。
顔を上げれば
時也が穏やかに微笑んでいる。
「……ええ。
おかげでこうして……
貴女と、しっかり話せて良かったです」
その言葉に、レイチェルの唇がわずかに震える。
ふっと──息がこぼれた。
胸の奥に、張り詰めていたものが
ほんの少し、溶けていく。
涙ではない。
けれど、どこか温かく、切ない感情が
そっと胸に灯る。
まるで、長い夜の底で
遠くに見つけた小さな灯火のように──⋯




