「目覚めの夢」
――――――――――
――その日は、今にも雨が降りそうな、灰色の空が重く垂れこめていた。
湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく夕暮れ時。いつも通り静かだった。静かすぎて、テレビの音さえ無音に思えるほどに。
その沈黙を、父の怒鳴り声が破る。
「てめぇ!なんで金がねぇんだよ!」
酒臭い声と、ガラスの割れる音。
父は、長年勤めた会社をリストラされたことで、酒に溺れ、母に暴力をふるようになった。それでも母は食費を稼ぐため、朝から晩まで働いた。遅くまで働き、帰ってくると父に暴力をふるわれる。そんな母を見るのが、――俺は、つらかった。
俺が駆け込んだときには、母が壁際に追い詰められていた。
「やめて、お願い、やめて……」
「黙れぇ!ろくに金も稼げねぇで、酒が飲めねぇじゃねぇか!」
父の手が振り上がり――その瞬間、俺の中の何かが切れた。
「父さん、やめてよ!」
「うるせぇ!お前まで俺をバカにすんのか!」
父は俺を突き飛ばす。肩が床に打ちつけられ、脳が揺れる。視界がかすむ。耳鳴りが、鼓膜を裂くように響いた。
それでも――母が泣いている声だけは、はっきりと聞こえた。
俺が、母さんを助けなきゃ…。
俺は手を伸ばした。手探りで、近くに落ちていたものを拾いあげる。そこからの記憶はない。
気がついた時には――
――世界が、真っ赤に染まっていた。
床の上に広がった血の色。倒れている父。紅く塗られた俺の手が、震えていた。
母は泣きながら俺を抱きしめた。「ごめんね、あなたは悪くない」そう繰り返しながら。
俺は父を――殺した。
――――――――――
「……ラン……」
低く、静かな声が聞こえてくる。
「おいアラン、大丈夫か」
瞼を開けると、白い天井と消毒液の匂いが鼻をついた。眩しさに目を細めながら視線を巡らせると、医務室の簡素なベッドと、その傍らに椅子を引いて座る、1人の男の姿があった。
「……マイクさん?」
「やっと起きたか」
マイクの安堵した表情が目にはいった。
「ここは……医務室、ですよね……」
「そうだよ。今日、運動場で倒れてから、ずっと寝てたぞ。しかも、さっきはうなされてた」
置かれている時計を見ると、もう夜の九時を回っていた。
あの時の光景がフラッシュバックする。刺された囚人。飛び散った血。
目の前で起きた現実が、俺の中で呼応して――俺は崩れ落ちた。
「……みっともないとこ、見せました」
「いや、みっともなくなんてないさ」
マイクはそう言って、俺のベッドの横に片肘をつくようにして身を寄せた。
「誰だって、人が刺されるところなんて見れば動揺する。新人ならなおさらな。でも、過呼吸になるなんて、並の怯え方じゃなかった。何かあったのか?」
俺は何も言えなかった。手の甲がわずかに震えている。
「……誰しもが過去を抱えてる。俺だってそうだ。だから、無理して話さなくても大丈夫だ」
目から涙が溢れてくる。
マイクは静かに俺の言葉を待ってくれていた。俺は目を伏せたまま、唇を震わせて言った。
「俺、昔……父親を殺しました」
その言葉を、言葉として発するのに、何度も息を飲んだ。けど、ちゃんと口にしたかった。逃げたくはなかった。
「母を殴ってて、止めようとしたら、俺……とっさに包丁を握ってたんです。気づいたら床に父が倒れてて。あの日の光景が、頭から消えなくて……。血を見て、またあの時に戻ったような気がして」
言ってるうちに、喉が痛くなった。胸が熱くなった。
マイクは黙って話を聞いていた。遮らず、否定せず、ただ真っすぐに俺を見ていた。
「『仕方なかった』って、警察にも、母にも言われました。少年院で何年か過ごして、”更生済み”ってことにはなったんですけど。でも、俺の手で人を殺したってことは消えないんです」
マイクはしばらく何も言わなかった。
やがて、俺に言った。
「それでいいんだよ。アラン」
マイクの声は、まるで毛布のように柔らかかった。
「消えないってことは、忘れてないってことだろ。ちゃんと向き合ってる証拠じゃないか。アランは、その重さを背負ったまま、前に進もうとしてる」
俺は息を飲んだ。
「……それって、前に進めてるって言えるんですかね」
「言えるさ。前に進めないのは、自分の罪を見なかったことにする奴だよ。アラン、君は逃げてない。むしろ、逃げられなかったからこそ、ここにいる」
俺は言葉をなくした。
マイクは、俺の中の痛みを、まるで自分のもののように抱きしめてくれた。
「……ありがとう、ございます」
自然と出たその言葉に、マイクはふっと笑った。
「それとさ――気づいたことがあるんだ」
「え?」
「昨日、E47が君のことを見てた」
「エリスが?」
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
「彼女、冷静を装ってたけど、目が凍ってた。多分、自分と重ねたんだろうな。アランの中の何かに」
「俺の中に……?」
「そう。彼女も、たぶん壊した過去を抱えてる。だからこそ、似た匂いをもつ奴には敏感なんだ」
俺は黙って天井を見た。
「……俺、彼女のこと、もっと知りたいと思ってるんです」
マイクは、微笑みながら立ち上がった。
「初日に、囚人に入れ込みすぎるなって言ったけどさ。俺も昔、今のアランみたいだったんだ。担当受刑者に入れ込みすぎて、ドジ踏んじまって。その時、所長にめっちゃ怒られた。――でも、お前は失敗するなよ」
気さくに笑った。
その笑顔には、看守としての経験だけでなく、人としての温かさがあった。
「焦らずいけよ。彼女の心の鍵は、無理にこじ開けるもんじゃない。自分から開けてくれるのを待ってやるんだ」
「はい……」
「あと、もうちょい休め。所長には俺から言っとくから」
そう言って、マイクは医務室を出ていった。
残された静かな空間に、俺の心音だけが残る。
心の奥が、ほんの少しだけ、軽くなっていた。