「過去の影、滲む現在」
グランフォード刑務所の日常は、規則正しくも陰鬱だった。灰色の壁、鉄の扉、響くのは足音と号令だけ。
そんな世界のなかで、俺は少しずつ”慣れ”を手に入れていた。囚人たちの管理、報告書の作成、緊急時の対応……すべてマニュアル通りとはいかないが、それでも少しずつ、自分の位置がこの空間に馴染んできた実感がある。
だが、ひとつだけ――いや、ひとりだけ、どうしても距離を測りかねていた。
エリス・ブラック。
番号で呼ばれ、沈黙を守り続ける彼女。
彼女の目は、いつだって人を突き放すように冷たいのに、なぜか俺はその奥を覗きたくなってしまう。
その日、刑務作業の終わった午後、自由時間の運動場。
フェンスの影でひとりたたずむエリスの姿を見つけ、俺は近づいた。
「エリス、今日も運動はしないのか?」
日課のように声をかける。
わかってる、彼女はすぐに答えない。けれど、無視はしない。ただ、時間がかかるだけだ。
彼女はゆっくりと顔を上げ、無言のまま俺を見た。
黒曜石のような瞳。その冷たい瞳に、思わず背筋が伸びる。
「……関係ないでしょ」
その冷たい言葉に、胸が締めつけられる。けれど俺は、傷つくことを恐れなくなっていた。
「エリスのこと、もっと知りたいんだ」
自分でも驚くほど、まっすぐな言葉だった。
「君が何を考えているのか、何を感じているのか。俺は……君を理解したい」
――沈黙。
いつものように、拒絶の言葉が返ってくると思った。
けれど、彼女の瞼がほんの少しだけ震えた。長いまつ毛の奥に、わずかな迷いのようなものが見える。
「……私のことなんて、誰も知らない。知りたくもない」
その声には、怒りではなく、静かな絶望があった。
俺はその言葉を聞きながら、自分の過去を思い出していた。幼い頃、父から母を守ろうとして、家族を壊してしまったこと。
「俺も、傷だらけだ。だけど、誰かにわかってほしいって、ずっと思ってた」
その言葉が、自分のどこから出てきたのか分からなかった。でも、言わずにはいられなかった。
エリスは一瞬だけ、俺を見つめる。その目の中に、微かな変化があった。
目尻がわずかに緩み、口元が――ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「……馬鹿みたい」
呆れたような声だった。でも、その中にあったのは、ほんの一滴の優しさだった。
――俺は確信した。彼女の心の壁を少しだけ壊せたと。
その時、運動場の中央から突然、怒声が聞こえた。
「おい、テメェ!ふざけんなよ!」
「なんだと、このチビ!」
俺は反射的に顔を向ける。
二人の囚人が激しく言い争っている。
どちらも、以前からよく騒ぎを起こす二人だ。
「おい、喧嘩は――」
止めようと踏み出した瞬間、声の大きい男が、ポケットから何かを取り出すのが見えた。
鋭い光。ナイフだった。
「やめろッ!」
俺は叫び、駆け出す。
だが、一歩遅かった。
鋭く光った刃が、風を裂いた。
次の瞬間、もう片方の男の腹に突き立てられた。
血が鮮やかに飛び散り、運動場のざわめきが一瞬で凍りついた。
その光景が、俺の内側にしまい込んでいた何かを暴き出す。
視界が揺れ、耳鳴りが響く。
父親の怒鳴り声。母の叫び声。
――自分の手の中にあった包丁と、赤い床。
「……っ、あ、あぁ……!」
息が苦しい。空気が入ってこない。俺は胸を押さえ、思わず膝をつく。喉が絞られたように呼吸がうまくできず、冷や汗が背中を伝う。
「おい、アラン!しっかりしろ……!」
マイクの声が遠くで響く。けれど、俺の意識は過去の闇へと引きずり込まれていった。
―――
私は、呆然とその光景を見つめていた。
怒鳴り声、ナイフ、鮮血、そして倒れかける男。
アラン・ホワイト。
真面目で、まっすぐで、どこか抜けてる新人看守。
そんな彼が、血を見て膝をついた。
それは、滑稽なはずだった。笑えるはずだった。
でも……笑えなかった。
(……違う。あの表情……あの苦しそうな目)
胸を押さえて、苦しそうに震える彼の姿。
それは、鏡の中で何度も見てきた、自分自身の姿に似ていた。
誰も信じられず、息ができなくて、何も感じたくなくて――でも、消えられもしない。
(もしかして、あの人も……壊したの…?過去に)
心のどこかが、ざわりと揺れた。
怒りでも、同情でもない。もっと曖昧で、静かな震え。
彼もまた、何か大切なものを失ってここにいるのかもしれない。
優しそうな目の裏に、私と同じ、深い闇を抱えて。
「…………」
ナイフを持っていた囚人は取り押さえられ、負傷者は担架で運ばれていく。
誰かが血まみれで倒れているというのに、私はなぜか彼から目が離せずにいた。
(”傷”がある。私と同じ。ずっと奥にしまいこんでるなにかが)
血と鉄の匂いが鼻をつく。
風が吹いて、私のニット帽が少し浮いた。
でも今だけは、帽子を直すよりも、彼の影を目で追っていた。
――アラン・ホワイト。
何も知らない“真っ白な新人”なんかじゃない。
私は――少しずつ、彼を知りたいと思ってしまった。