sideエリス「氷の壁の内側から」
――自由時間の運動場。
グランフォード刑務所の冷たい空気は、いつだって私の肌を容赦なく刺す。鉄の壁に囲まれたこの場所に陽射しが届くことは稀で、空を見上げても、自由の匂いはどこにもない。私はニット帽を深くかぶり、腕を組みながら、ひとり静かに運動場の隅で立っている。
誰にも気づかれないように。
誰にも話しかけられないように。
そうして壁際に身体を寄せながら、私は薄く唇を噛む。
誰とも関わらず、誰にも期待しない。それが一番安全。
ここに来てからそういう処世術を守ってきた。だけど――今朝、ほんの少しだけ、その”ルール”が揺らいだ。
あの男――アラン・ホワイト。新人の看守。見た目は若く、たぶん二十代そこそこ。彼は、私の担当になったばかりだという。
最初に顔を合わせた時から、私は彼の”目”が嫌だった。
まっすぐで、傷つくことを知らないような透明さがあった。こんな世界をまるで信じているかのような、曇りのない眼差し。そのまっすぐさが、胸に刺さる。
私には、そんなもの、遠い昔に壊れてしまったものだったから……。
あいつは、私に話しかけようとしているけど、私はそれを拒む。心を許すなんてありえない。
『どうせ私は、誰からも愛されない』って、もう何度も思った。
午前中の刑務作業。私は例によって無言で、自分の作業だけを淡々とこなしていた。隣に来る人は誰もいなかった。
――いつもならそれでよかった。
孤独は私の唯一の防護壁だった。
けれど、彼は違った。
彼は、迷いなく私の隣に椅子を持ってきて座った。
私は目を合わせるのが怖くて、少しだけ身体を引いた。でも彼は、恥ずかしそうに頬を掻きながらも、まっすぐに私を見てきた。
なぜ、そんな顔をするの……?
私はそのとき、彼の方を見ることができなくて、冷たく言い放った。
「……何か用?」
そう言えば彼は怯むと思った。
他のやつと同じで、「ごめんなさい」と言って離れていくと。
でも彼は、責めるわけでも、嫌味を言うわけでもなく、かすかに困ったように笑うだけだった。
それが余計に、私の胸の奥をざわつかせた。
私に話しかける人間なんて、いなかった。皆、私を避ける。
タトゥーも、過去も――全部が”触れてはいけない存在”
として、私を孤独の檻に閉じ込めていた。
――私もそれに慣れていた。むしろ安心だった。
あの眼差しに慣れてしまったら、いつか彼が私を”普通の目”で見るようになったとき、私はまた壊れてしまう。
人の優しさほど、あとから冷たくなるものはない。
期待した分だけ、裏切られたときの傷が深くなるって、私はもう、知っている。
元恋人もそうだった。
付き合い始めた頃は、「きれいだね」って言ってくれた。でも――ある日、私が見せた左腕のタトゥーを見た時、顔を歪めてこう言った。
『……気持ち悪い』
その一言で、全てが終わった。
彼は去っていった。
彼が好きだったのは、タトゥーを見ていない私だった。
綺麗な表面だけを見て、幻想を抱いていたに過ぎなかった。
――あの言葉が、まだ私の心にこびりついている。
彼も、きっと同じ。
もしこの腕を見せたら、このタトゥーに刻まれた”過去”を話したら、彼はどう思うだろう。
他のやつらみたいに、私を気味悪がるのだろうか。逃げ出すだろうか。
そんな未来が怖くて、私はまた壁を作る。
でも……。
でも、彼の目を思い出すたびに、胸がざわざわする。
怖いのに、どこかで彼に触れてほしいと思っている自分がいる。
こんな感情、どうしていいかわからない。
私はいつも、愛に縛られて苦しんできた。もう二度と、傷つきたくない。
でも……あいつだけは、違うかもしれない。
いや、違うなんて思いたくない。
だから、これ以上近づかないでほしい。
私はまた壊れるから。
私はそっと、左腕に手を伸ばした。囚人服の袖の下に隠れたタトゥーをなぞる。
これは、自分が過去を生きてきた証。
醜くて、痛くて、でも本当の自分。
このタトゥーを見て、それでも彼が私を見てくれるなら――そのとき、私は、少しだけ信じてみようと思うかもしれない。
運動場の片隅。
冷たい風に晒されながら、私はまた帽子を深く被った。
氷の壁の内側から、誰にも届かない想いを、そっと胸の奥にしまった。