「チョコレートと心の距離」
グランフォード刑務所の一日は、まるで精密に組み上げられた時計のように進んでいた。朝も昼も夜も、寸分の狂いなく回転する大きな歯車。秒単位で管理され、自由など一片も許されない。
俺は、マイクに手渡された資料に目を通す。
そこには、刑務所の地図や一日のスケジュールが細かく記されていた。
――午前八時 朝食 場所:食堂
腕時計を見ると、今は七時四十分。ぎりぎりの時間だ。新人として緊張に胸を締めつけられながら、俺は呼びかける。
「E47、食堂に向かおう。」
囚人番号を呼ぶ俺の声に、エリス・ブラックはほんのわずかに目を動かしただけだった。返事は無い。それが彼女にとっての”いつも通り”なのだろう。
食堂への移動中、俺の心臓はずっと落ち着かない。初任務、初担当、そしてエリスは、俺にとって初の女性囚人。わからないことだらけだった。
声のかけ方、歩く速度、彼女との距離の取り方……何一つ正解が見えてこない。
「おいルーキー、食堂はそっちじゃないぞ。右だ」
背後から声が聞こえる。どうやら、考え事をしていて道を間違えていたらしい。
先輩看守の冷たい指示に、俺は赤面して頭を下げた。エリスは何も言わず、足を止め、軽く溜め息をついたように見えた。その視線が「またか」と言わんばかりで恥ずかしさが倍になり、耳まで赤くなる。
ようやく食堂に着くと、囚人たちは列をつくって食事を取っていた。ここではビュッフェスタイルが採用されており、自分の好きなものをトレーに載せていく。
意外にも、選べる食事は多かった。パンやライスなどの主食から、ミックスベジタブルや煮詰めたビーンズ、ステーキ、魚のソテー。果てはデザートまで。
エリスのプレートを見ると、一切れのパンにジャムがかかっているだけだった。
「それだけしか食べないのか?」
声をかけると、彼女はわずかに眉を動かしたように見えたが、返ってくるのは無言。俺は少し声を落とし、続ける。
「しっかり食べないと、この後の刑務作業がしんどいぞ。それに、こんなにメニューがあるんだし。このチキンとか、美味しそうだしさ……」
「……なにを食べても一緒、味なんてしない」
彼女の呟きは、小さく、けれど確かに棘があった。
俺の声が空回りしているのが分かった。
だけど、ほんの少し、悲しそうにも聞こえた。
朝食を済ませると、次は刑務作業の時間だ。
渡された地図を見ながら、エリスとともに工房ブロックへ向かう。道中、彼女は一言も喋らない。足音だけが、規則的に響いていた。
刑務作業は単純な手作業。部品の梱包や分別、修繕など。エリスは慣れた手つきで紙を折り、部品を包み、無駄の無い動きで仕分けをしていた。
そんなエリスの作業台の隣に、俺は椅子を持ち込んで座った。
「……何か用?」
彼女が、作業に目を落としたまま口を開いた。
小さな声。そして、氷のように冷たい響きだった。
それでも言葉をくれたことが、なぜか嬉しかった。
「いや、特に用ってほどのこともないんだけどさ、ただ……気になって」
「……なにそれ」
ピシ、と紙が裂ける音。作業の手を止めることなく、エリスは完全に俺を無視していた。
言葉も、態度も、まるで壁みたいだった。近づこうとする俺の気配ですら、シャットアウトするような。
でも、あの目を、俺は忘れられなかった。
初めて会った時に見せた、ほんの一瞬の”火”。それが本当に幻だったのかどうか、知りたくて仕方なかった。
刑務作業の後の自由時間。囚人たちは各々、娯楽室や運動場で自由に過ごしている。
そんな中、エリスはひとり、運動場の隅で立っていた。誰とも話さない。目も合わせない。ただ空を見上げて、息を吸って、吐くだけ。
エリスの視線の先には、分厚い金網越しの、どこまでも続く曇天があるだけだった。
「ここにいると、空も濁って見えるな」
俺がそう言うと、エリスは少しだけ首をかしげた。それだけで、返事はない。
でも、完全に無視ではなかった。
「空、好きなのか?」
「……別に。どこに居たって、息苦しいのは同じ」
短い答えだった。けれど、その声はどこか疲れていて、でも静かで、刺々しさは少しだけ和らいでいた気がした。
彼女の言葉に、俺は思わず自分の過去を思い出していた。
――傷だらけの母の泣き声と、父の怒声。「やめて」と叫ぶ、幼い頃の俺。
たしかあの時も、外の空は曇っていた。――曇りの日って、きっと人の心を映すんだ。
「E47……いや、エリス、君の好きなもの、知ってもいいかな?」
俺は問いかけた。
たぶん返ってくるのは、冷たい言葉だろう。それでも俺は、彼女に訊かずにはいられなかった。
「……何のつもり?」
案の定、呆れたような声が返ってきた。
「深い意味はないんだ。好物とか、趣味とか、そういうが知りたくて。教えてくれないか?」
彼女はじっと俺を見つめた。黒い瞳に、何かが揺れる。
警戒か、諦めか、それとも――
「……チョコレート」
「え?」
「アンタが聞いてきたんでしょ、好きな物。チョコレート。甘くて、溶けるやつ。昔から好き。……それだけ」
彼女はぽつりと呟くと、すぐにまた視線を外した。
「覚えておくよ」
俺は小さく笑った。少しだけ、心があたたかくなる気がした。
たった一言。でもそれは――
壁に、ほんの小さなヒビが入ったような感覚だった。
その夜、エリスを独房に戻し、今日の報告書を書くために、執務室に向かった。
所々サビが出ていて、かなり年季が入ったロッカーに、『アラン・ホワイト』自分の名前が記されたプレート。
制服の上着を脱ぎながら、ふぅ、と小さく息を吐く。
エリス・ブラック
囚人番号E47。精神的DV、ストーキング、その末の殺害。
他人から見た彼女は、間違いなく『問題児』で、『危険人物』で――
でも、俺にはそうは思えなかった。
孤独で、自分を罰するように生きていて、それでもどこかで、誰かに抱きしめられることを諦めきれていないように思えた。
「きっと、君の心も、甘くて優しい何かで溶かせる気がするんだ」
誰にも聞こえない声で。
その囁きが届くには、まだまだ時間がかかるだろう。
――けれど俺は、彼女に歩み寄るその足を、止めないと心に決めた。
彼女が誰にも見せなかった心を、いつか俺にだけに見せてくれるその日まで。