表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

「はじめまして、囚人番号E47」

――――――――――

 部屋の窓からは、木漏れ日が射し込んでいた。外から、リィーンリィーンと、うるさい鳴き声が聞こえる。

 私の目の前に居たのは、あの人だった。


「君だけは特別だよ。……愛してる」

「ずっと一緒だ。約束する」


 優しくて、柔らかくて、あたたかい言葉。

 私の頬に触れる、慈愛に満ちた手。そっと髪を撫でてくれる。

 私は――あの人を、愛していた。

 

 

 でも、あの人は違った。

 あの人は、他の女にも同じ言葉を使っていた。

 他の女と同じ手で、私の頬を、髪を撫でていた。

 他の女と同じ唇で、私の名前を呼んでいた。


「……ねぇ、私だけ見てよ」

 

 私は左腕を抑え、震える声で言った。

 ベランダの柵にしがみつく彼は、今までの優しい瞳とは違う、血走った目で私を見ていた。


「……名前をタトゥーにして彫るとか、どうかしてるんじゃないのか!?気持ち悪い!お前みたいなやつ、誰からも愛されるわけがない……!もう俺に関わるな!」


 あの人は私に罵声を浴びせる。

 不思議と涙は出なかった。怒りだけが、私の体を動かしていた。

 そっと彼に歩み寄る……。


「来るな……!俺に近づくな!」


 どうして、私を見てくれないの。どうして。どうして。

 ――どうして私を拒絶するの。

 

 そして、彼は――落ちた。


 その光景を、私はただ見ていた。

 私の愛おしかった人。信じていた人。

 ――私を裏切った人。

 なぜかその日は、うるさいはずの虫の声も静かに感じた。


――――――――――


 ロンドン郊外の霧は朝になっても晴れなかった。

 重たく垂れ込める空と、遠くにうっすらと見える建物。

 俺――アラン・ホワイトは、革靴の先に溜まった水溜まりを見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。

 ここが、今日から俺の職場。

 ()()()()()()()()()()


 グランフォード刑務所の門は、まるで世界を隔てる壁のように重々しく感じられた。

 軽い受付を済ませ、刑務所長室へと足を運ぶ。『刑務所長室』と書かれた扉の前に立ち、数回ドアをノックする。


「入れ。」


 扉を開くとそこには、背が低く、頭頂部の寂しい小太りの中年男――アドルフ・シュート所長が立っていた。


「はじめまして、アラン・ホワイト君。私が所長のアドルフだ。あぁ、覚えなくても結構だ。何日持つか分からん。君の前任者は2週間で音を上げたよ」

 

 アドルフ所長はあからさまに嫌味な顔を見せる。

 

「本日から君に任せるのはE棟独居房……特別房だ」


 所長の太い指が、分厚いファイルを押し付ける。眉間に深く刻まれた皺と、口の端に浮かぶ苦味のある笑み。そんな嫌な笑みに気づきながら、俺はそのファイルを受け取った。

 表紙には黒いインクで打たれた、囚人番号『E47』の文字。


「”エリス・ブラック”。元恋人への精神的DV、ストーキング。その結果、殺害。一人の男に入れ込んだ末に壊れた女だ。入所当初から手が付けられん。こいつが本日から君の担当受刑者だ」


「エリス・ブラック……」


 俺は分厚いファイルを捲っていく。顔写真こそ載ってはいないが、彼女の名前、生年月日、罪状、家族構成に至るまで、全てが書かれていた。淡々と書き連ねられた経歴の最後の欄に、目が留まる。


 ――『左腕に元恋人の名前をタトゥーとして彫り、自傷傾向あり』


 胸の奥がわずかに痛む。

 俺には、他人事には思えなかった。


 彼女の経歴に釘付けになる俺に所長は言った。

「こいつの監視役だ。移動も娯楽も、刑務作業も、何もかもお前が監視するんだ。あの女の”面倒”をな。そして毎日報告しろ。まぁ、期待はしてないが、死なせるなよ。―いや、壊されるなよ?」


 そんな冗談のような引き継ぎとともに、俺の初仕事が始まった。

 


 先輩看守に連れられ、エリス・ブラックの房に向かう。

 房へ向かう廊下は、朝だというのに薄暗く重い。


「はじめまして、アラン……だっけ?俺はマイク。君の3年先輩だ。何か分からない事があれば、いつでも頼ってくれ」


 マイクは朗らかに笑った。――マイク・アルフレッド。背は俺よりも小さく、短髪で、顔にはそばかすが目立っていた。彼と、趣味はなんだ、どうして看守になったなどの軽い雑談を交わす。


「あぁ、最後に先輩からの忠告だ。あまり囚人に入れ込みすぎないようにな?あくまで看守として接するんだ」


 マイクは優しい口調で俺に釘を刺す。

 今の俺には、なぜそんなことを言うのかが分からなかった。

 

 ――そうこうしてるうちにエリス・ブラックの房の前に着いた。扉には『E47』の文字。

 マイクが鉄扉を叩き、扉を開ける。


「囚人番号E47。エリス・ブラック。お前の新しい担当看守を連れてきた。立て」


 先輩看守が囚人番号を呼ぶと、暗い独房の向こうから、ゆっくりと人影が現れた。


 その瞬間――息を飲んだ。


 重たく分厚い鉄の扉の隙間から出てきたのは、”ブラック”という名前には似つかわしくない、まるで白い幻のような女性だった。

 雪のように白く、腰まで届きそうな長い髪が揺れる。黒いニット帽を目深に被り、黒い瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いた。白く透き通る肌。まるでそこには居ないかのように静かで、でも確かにそこに立っている。

 

 ……綺麗、だと思った。

 

 ――一目惚れ、なんて、信じていなかった。

 でもこの時、俺はこの人から目が離せなくなっていた。

 

 しかし、彼女の目に俺の姿は映ってはいないようだった。

 俺の心だけが、音を立てて崩れている。


「…君が、エリス・ブラック」


 声がうわずる。初仕事のくせに情けない。でも、その名を呼ぶだけで、胸が焼けるようだった。

 彼女は少しだけ視線を持ち上げ、まるで退屈なテレビを見るかのように、つまらなそうに言った。


「……で?今度の”監視カメラ”はお喋りさんなのね」

「監視カメラ……?」


 頭に疑問符が浮かぶ。彼女がなぜ俺をそう呼ぶのか。


「だってそうでしょ。アンタ、ずっと私の隣に居るんでしょ?刑務作業も娯楽も、トイレも、シャワーも、何もかも。見張り。管理。監視。――もううんざり」


 彼女の唇が淡く笑う。その笑みに毒はなかった。

 むしろ、どこか諦めのような、深い闇に慣れきった人間のそれだった。


―――


 目の前のこの男は、私の新しい”監視カメラ”らしい。

 茶色く、カールがかった髪に、この刑務所には似合わないほどに、真っ直ぐな蒼い瞳。いかにも真面目そうな男。

 でもどうせ、この男も同じ。捨てられる。

 ――だから期待なんてしないし、されたくもない。

 左腕のタトゥーが痛い。『お前は誰にも愛されない』、元恋人の言葉が頭をよぎる。……分かってる。


「……俺は、アラン・ホワイト。今日から君の担当になった。えっと…よろしく」


 彼は、手を差し出してきた。そして、ぎこちなく笑う。

 ――ホワイト?私への皮肉のつもりなのか。”真っ白な新人”が私の監視役。この刑務所は、どこまでも冗談が好きみたい…。


―――


 俺が差し出す手に、彼女は見向きもしなかった。


「……馴れ合う気なんてない。――どうせアンタも、私を愛してくれない」


 ぽつりと落とされた言葉に、俺は答えることができなかった。

 この人はきっと、たくさんのものを失って、その結果壊れて。信じることも、信じられることも捨ててしまったんだ。


 それでも。


 あの時、初めて見た君の横顔に、俺の心は確かに――惹かれていた。


「……それは、決めつけないでほしい」


 小さく、でも確かにそう返した。

 エリスが、初めて俺の目をまっすぐに見た。

 その黒い瞳に、一瞬、わずかな興味の火が灯ったように見えたのは……気のせいだったのだろうか。


 こうして俺の看守生活は始まった。


 心を閉ざした彼女。

 この世界で、誰もが「見張る」ことしか知らない中、俺は彼女を――「見つめたい」と思った。


それが、どんなに愚かで、危うい願いでも。

はじめまして。

葛木(かずらぎ)めいと申します。

初の執筆作品で至らぬ点も多々あると思いますが、楽しんで読んでいただけると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ