「はじめまして、囚人番号E47」
――――――――――
部屋の窓からは、木漏れ日が射し込んでいた。外から、リィーンリィーンと、うるさい鳴き声が聞こえる。
私の目の前に居たのは、あの人だった。
「君だけは特別だよ。……愛してる」
「ずっと一緒だ。約束する」
優しくて、柔らかくて、あたたかい言葉。
私の頬に触れる、慈愛に満ちた手。そっと髪を撫でてくれる。
私は――あの人を、愛していた。
でも、あの人は違った。
あの人は、他の女にも同じ言葉を使っていた。
他の女と同じ手で、私の頬を、髪を撫でていた。
他の女と同じ唇で、私の名前を呼んでいた。
「……ねぇ、私だけ見てよ」
私は左腕を抑え、震える声で言った。
ベランダの柵にしがみつく彼は、今までの優しい瞳とは違う、血走った目で私を見ていた。
「……名前をタトゥーにして彫るとか、どうかしてるんじゃないのか!?気持ち悪い!お前みたいなやつ、誰からも愛されるわけがない……!もう俺に関わるな!」
あの人は私に罵声を浴びせる。
不思議と涙は出なかった。怒りだけが、私の体を動かしていた。
そっと彼に歩み寄る……。
「来るな……!俺に近づくな!」
どうして、私を見てくれないの。どうして。どうして。
――どうして私を拒絶するの。
そして、彼は――落ちた。
その光景を、私はただ見ていた。
私の愛おしかった人。信じていた人。
――私を裏切った人。
なぜかその日は、うるさいはずの虫の声も静かに感じた。
――――――――――
ロンドン郊外の霧は朝になっても晴れなかった。
重たく垂れ込める空と、遠くにうっすらと見える建物。
俺――アラン・ホワイトは、革靴の先に溜まった水溜まりを見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。
ここが、今日から俺の職場。
グランフォード刑務所。
グランフォード刑務所の門は、まるで世界を隔てる壁のように重々しく感じられた。
軽い受付を済ませ、刑務所長室へと足を運ぶ。『刑務所長室』と書かれた扉の前に立ち、数回ドアをノックする。
「入れ。」
扉を開くとそこには、背が低く、頭頂部の寂しい小太りの中年男――アドルフ・シュート所長が立っていた。
「はじめまして、アラン・ホワイト君。私が所長のアドルフだ。あぁ、覚えなくても結構だ。何日持つか分からん。君の前任者は2週間で音を上げたよ」
アドルフ所長はあからさまに嫌味な顔を見せる。
「本日から君に任せるのはE棟独居房……特別房だ」
所長の太い指が、分厚いファイルを押し付ける。眉間に深く刻まれた皺と、口の端に浮かぶ苦味のある笑み。そんな嫌な笑みに気づきながら、俺はそのファイルを受け取った。
表紙には黒いインクで打たれた、囚人番号『E47』の文字。
「”エリス・ブラック”。元恋人への精神的DV、ストーキング。その結果、殺害。一人の男に入れ込んだ末に壊れた女だ。入所当初から手が付けられん。こいつが本日から君の担当受刑者だ」
「エリス・ブラック……」
俺は分厚いファイルを捲っていく。顔写真こそ載ってはいないが、彼女の名前、生年月日、罪状、家族構成に至るまで、全てが書かれていた。淡々と書き連ねられた経歴の最後の欄に、目が留まる。
――『左腕に元恋人の名前をタトゥーとして彫り、自傷傾向あり』
胸の奥がわずかに痛む。
俺には、他人事には思えなかった。
彼女の経歴に釘付けになる俺に所長は言った。
「こいつの監視役だ。移動も娯楽も、刑務作業も、何もかもお前が監視するんだ。あの女の”面倒”をな。そして毎日報告しろ。まぁ、期待はしてないが、死なせるなよ。―いや、壊されるなよ?」
そんな冗談のような引き継ぎとともに、俺の初仕事が始まった。
先輩看守に連れられ、エリス・ブラックの房に向かう。
房へ向かう廊下は、朝だというのに薄暗く重い。
「はじめまして、アラン……だっけ?俺はマイク。君の3年先輩だ。何か分からない事があれば、いつでも頼ってくれ」
マイクは朗らかに笑った。――マイク・アルフレッド。背は俺よりも小さく、短髪で、顔にはそばかすが目立っていた。彼と、趣味はなんだ、どうして看守になったなどの軽い雑談を交わす。
「あぁ、最後に先輩からの忠告だ。あまり囚人に入れ込みすぎないようにな?あくまで看守として接するんだ」
マイクは優しい口調で俺に釘を刺す。
今の俺には、なぜそんなことを言うのかが分からなかった。
――そうこうしてるうちにエリス・ブラックの房の前に着いた。扉には『E47』の文字。
マイクが鉄扉を叩き、扉を開ける。
「囚人番号E47。エリス・ブラック。お前の新しい担当看守を連れてきた。立て」
先輩看守が囚人番号を呼ぶと、暗い独房の向こうから、ゆっくりと人影が現れた。
その瞬間――息を飲んだ。
重たく分厚い鉄の扉の隙間から出てきたのは、”ブラック”という名前には似つかわしくない、まるで白い幻のような女性だった。
雪のように白く、腰まで届きそうな長い髪が揺れる。黒いニット帽を目深に被り、黒い瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いた。白く透き通る肌。まるでそこには居ないかのように静かで、でも確かにそこに立っている。
……綺麗、だと思った。
――一目惚れ、なんて、信じていなかった。
でもこの時、俺はこの人から目が離せなくなっていた。
しかし、彼女の目に俺の姿は映ってはいないようだった。
俺の心だけが、音を立てて崩れている。
「…君が、エリス・ブラック」
声がうわずる。初仕事のくせに情けない。でも、その名を呼ぶだけで、胸が焼けるようだった。
彼女は少しだけ視線を持ち上げ、まるで退屈なテレビを見るかのように、つまらなそうに言った。
「……で?今度の”監視カメラ”はお喋りさんなのね」
「監視カメラ……?」
頭に疑問符が浮かぶ。彼女がなぜ俺をそう呼ぶのか。
「だってそうでしょ。アンタ、ずっと私の隣に居るんでしょ?刑務作業も娯楽も、トイレも、シャワーも、何もかも。見張り。管理。監視。――もううんざり」
彼女の唇が淡く笑う。その笑みに毒はなかった。
むしろ、どこか諦めのような、深い闇に慣れきった人間のそれだった。
―――
目の前のこの男は、私の新しい”監視カメラ”らしい。
茶色く、カールがかった髪に、この刑務所には似合わないほどに、真っ直ぐな蒼い瞳。いかにも真面目そうな男。
でもどうせ、この男も同じ。捨てられる。
――だから期待なんてしないし、されたくもない。
左腕のタトゥーが痛い。『お前は誰にも愛されない』、元恋人の言葉が頭をよぎる。……分かってる。
「……俺は、アラン・ホワイト。今日から君の担当になった。えっと…よろしく」
彼は、手を差し出してきた。そして、ぎこちなく笑う。
――ホワイト?私への皮肉のつもりなのか。”真っ白な新人”が私の監視役。この刑務所は、どこまでも冗談が好きみたい…。
―――
俺が差し出す手に、彼女は見向きもしなかった。
「……馴れ合う気なんてない。――どうせアンタも、私を愛してくれない」
ぽつりと落とされた言葉に、俺は答えることができなかった。
この人はきっと、たくさんのものを失って、その結果壊れて。信じることも、信じられることも捨ててしまったんだ。
それでも。
あの時、初めて見た君の横顔に、俺の心は確かに――惹かれていた。
「……それは、決めつけないでほしい」
小さく、でも確かにそう返した。
エリスが、初めて俺の目をまっすぐに見た。
その黒い瞳に、一瞬、わずかな興味の火が灯ったように見えたのは……気のせいだったのだろうか。
こうして俺の看守生活は始まった。
心を閉ざした彼女。
この世界で、誰もが「見張る」ことしか知らない中、俺は彼女を――「見つめたい」と思った。
それが、どんなに愚かで、危うい願いでも。
はじめまして。
葛木めいと申します。
初の執筆作品で至らぬ点も多々あると思いますが、楽しんで読んでいただけると幸いです。