文章における非言語分野の開拓、その他について。
小説家になろうでは、洗練されたプロではなく、剥きだしの素人が書く、無編集の文章を目にすることが出来る。それがなろうの醍醐味のひとつでもあるわけだが、やはりいつも気になってしまうのが、その文章に対する作者の意識の部分である。
アイデアが非凡なひとほど、その傾向が強いのだが、説明が説明臭く、またわざとかというくらい分かりづらい表現を使いがちという点。
彼らが頭の中で描いている世界観には、興味深いものがあるわけだが、それゆえの自負からくる排他性なのか、とにかく表現が面倒くさい。
難しいことを簡潔に、平明に表現する。
これは会話などでも同様で、同じ体験について話をしているのに、非常に面白く説明してくれる話し手と、何が言いたいのかすらも分かりづらい話し手とが存在する。
漫才師とコント師のトーク力。そしてアドリブ力の差。
各々、得手不得手があり、得意とする領分も違うわけだが、発想力はすごいのに、それを表現するトーク力(文章力)を持たないコント師が非常に多い。
残念ながら、この才能は努力だけでどうにかなるものではない。文章の洗練は、努力である程度は補えるが「セリフのセンス」のなさは、どうにかなるとは思えないからだ(脱線)。
素人文章を読む機会もなく、プロの文章しか読んでいなければ、こんなことにも気には留めなかったが、こうして、これまでも数多くの「非凡なアイデア」が洗練させることが叶わず、世に出て来なかったんだろうなと考えると、本当にもったいない気持ちでいっぱいになる。
これからの時代、そうしたアイデアがAIの校閲を受け、魅力的なものへと再カット、または盛り付けされて出てくる時代になれば良いのにな、とも考える。
◇
筆者は完全にしゃべり型の人間で、文章は本当に苦手だ。
実際のトークでは、言葉だけでなく、身振り手振り、表情、声色、ペースなどを駆使し、情報量の調節も自由に行えるので、文章よりも格段に表現がスムースなわけだが、文章だと勝手が違う(時間も異常に食う)。
会話では、話している内容など関係なく、場の空気だけで他人を揺さぶることも可能だなわけだが、文章ではそうもいかない。
大して面白くもない内容の話でも、会話でなら爆笑を生むことも可能。
こういった感覚を文章でも持てることが出来れば、無敵なわけだが、これらを修得する頃には、今度はしゃべる方の力を失っている可能性もある。
よほど非凡な才能でもない限り、性質は特化されるものだからだ。
◇
ふと考える。
文章における「非言語部分」とは、いったいどのようなものだろうか。
会話のように、言葉以外の部分となり得るのは、文章におけるどの部分だ?
たとえば『』の使い方であったり、行間、句読点、改行、記号……それ以外には何がある?
視覚的効果を計算する場合、PCのブラウザとスマホのそれ、機種によっても差異があり、紙媒体とは違い、統一は難しい(以前、目にした雪山の吹雪を文字の配列で表現していた短編は凄かったが)。
面白い表現方法を使っている作品などがあったら、どなたか、ご紹介いただきたいものだ。テンプレなんかよりも、こちらの方が重要である。
センスのない部分は、小手先のテクニックで補うほかない。
話芸ならぬ「文章芸」の開拓こそが、今後の課題か。
そういえば、韻を踏むとかいうテクニックもあったな。
やはり勉強しがいのある分野だ。
追記)
AI先生に訊ねた結果。
空白行の使い方、リズム感(短文と長文の連続性と緩急)、省略(読者に考える作業を投げる説明の中途放棄)、視点の変化(一人称と三人称の使い分け)、時間軸の操作(過去・現在の入れ替えと融解)、 擬音語と擬態語の学習、文体変化、伏線、などの手法が提案されました。
言語化されて提示されると、なるほどとなるものばかり。
一度、自分が傑作だと考える作品をこういった視点から分析してみる必要もありそうだが、めっちゃ時間かかりそうでやる気にならんのも事実(苦笑)。
気楽な会話とは違い、文章はとにかく「言語化の精度」が問われるので、タイパが悪いな(おい)。