4.
お兄様に泣きじゃくって訴えているうちに、いつの間にか眠った私を抱きかかえて公爵邸へ帰ってきた。
メイド達によって手早く湯浴みを終え、温かいスープとパンを食べたらすぐにベットへと押しやられて気がつけばまた眠ってしまった。
「すごく、スッキリしてる…」
カーテンの隙間から差し込む陽射しが眩しい。
もうとっくに午後の時間に差し掛かっているのかもしれない。
こんなにも寝たのは久しぶりのことだった。
王太子妃教育のカリキュラムは終えているはずなのに、何故か舞い込む課題や仕事に翻弄されて睡眠が取れていなかったのもあると思う。
婚約者の堂々とした浮気…もはやあれほど堂々とされてしまうと、悩む私がおかしいのではないかと神経をすり減らしてもいた。
追い込まれて、判断力が落ちて本来よりもずっと仕事の処理が滞っていた。
穂乃佳の知識からすると、気鬱の病になりかけてかなり危ない状態だったんだろう。
もっともオリヴィアと穂乃佳が混じり合った今の私はどのような精神状態なのかいまいちよくわからないけれど。
睡眠が足りてスッキリしたけれど、人を呼ぶのがひどく億劫に感じる。
着替えや化粧など、今は何もしたくない気持ちが強い。
ぼんやりと部屋の中を眺めていると日差しにキラキラと反射する埃が綺麗だった。
「どうしようかなぁー」
オリヴィアだけだったころには絶対に使わない、穂乃佳の言葉遣いでわざと声に出してみた。
悪いことをしているみたいで少しくすぐったい。
「何もしたくないなー」
だってまだ学園に通う歳の女の子だ。
仕事とか本当はしたくない。
同世代の貴族女性だって、最低限の義務を果たしつつも観劇やサロンに足を運んでいるのに。
指先を汚して、親の世代に交じってはたらいてきた。
穂乃佳の意識が交じって、文化や常識の違いはあれど自分の置かれた環境に疑問を持つことはできた。
「頑張れないなー…」
だってこれ以上ないほど頑張ったから。
自分の気持ちを押し殺して、やらなければならないのだと責任感に縛られていた。
「…頑張ったんだもんなー」
本当に。
すごくすごく頑張ったと思う。
思い返すだけで息が詰まるような気さえするほどに。
「結婚、したくないなー」
別に好きで婚約したわけではない。
国内の貴族間のバランスをみて議会が選出した婚約者だ。
国に選ばれたからにはと、家のためにも婚約者であることを受け入れて努力してきただけ。
リチャード王子とはこれから長い人生共に歩んでいくからと、なるべくいい関係を保とうと努力してきたけど。
「あれ、絶対勘違いしてるよなー」
金色の髪の婚約者を思い浮かべる。
優越感をたっぷりと含んだ薄い水色の瞳を歪めてオリヴィアのことを見ていた。
たぶん、オリヴィアが恋愛的な意味で自分のことを好いていると思っている。
確実に。
いや、絶対。
だからあんなにも堂々と恋人を連れ回せるし、オリヴィアが言いなりになっていると思っている節がある。
「面倒、だっただけ、なんだけどな」
ふふっ、と思わず笑ってしまう。
もしかしたらオリヴィアも大概ひどいのかもしれない。
最近は苦言を呈するたびに癇癪を起こして怒鳴りつけられるのが面倒で諦めていた。
ふと、湯浴みの時にメイドたちが優しく洗い流して、クリームでケアしてくれた指先を見る。
インクで汚れていない、綺麗な私の手。
「汚い手で触るな、って言われたこともあったっけ」
締め切りが迫った書類をどうしても処理して欲しくて、伸ばした手は振り払われた。
罵倒とともに。
リチャード王子の黒いオーバーコートに添えられた、ラティーナ様の真珠のような手がとても美しかったことを覚えている。
お前がやっておけ、という言葉とともに2人はどこかへ出かけた。
お互いの耳元に囁き合って笑って、とても楽しそうに。
あの時から本当は
「あの2人が大っきらい」
だって
私は、私の恋を諦めたのに。