3.
「お父様…お兄様…」
広大な城の中を駆けてきてくれたのだろう。
公爵家として一部の隙もなく整えられている服装や髪が乱れている。
オリヴィアの危機、と言う一言でお忙しいはずのお父様がこんなにも取り乱して駆けつけてくれるとは思ってもみなかった。
オリヴィアの記憶の中で父と触れ合った記憶はあまりない。
まだ母が存命の頃は家族でお茶会をしたりピクニックに行った事があったかな、というぼんやりとしたものだ。
母が病で亡くなり、オリヴィアが王太子の婚約者として選ばれた頃には食事を共にすることはおろか、数ヶ月顔を合わせないことも当たり前になっている。
それでも誕生日には直筆のメッセージカードとプレゼントが届いていたし、嫌われてはいないものの優先順位が低いのだと思っていた。
だから、王宮での仕事中に仕事を放り出して駆けつけてくれるとは思わなかった。
荒い息を整えながらお父様はしっかりと目を合わせてくれた。
「ヴィア…淑女の君が臆面もなく涙を流すほどの何があった?」
「ごめんなさい…ひっ、…くっ」
「いいんだよ、話せるかい?」
ただ労わるように問う声がひどく懐かしくて、よけいに嗚咽が止まらなくなった。
「クレアモント公爵…私の方から少し…」
言葉にならない様子のオリヴィアを見て、シュゲール卿が手元の書類を見せつつお父様に事情を話してくれるようだ。
「ほら、これも使って」
傍に駆け寄ってきたお兄様が自分のハンカチを差し出してくれる。
これで3枚目だ。
こんなにも泣いて、明日には干からびてしまうかもしれないな、なんて少しぼんやりしてきた頭で思う。
兄はオリヴィアと同じ青みがかった銀の髪に、菫色の瞳、スラリとした体躯はこの国でも長身にあたるだろう。公爵家嫡男で見目麗しい容姿なのに婚約者が未だ決まらないのは、貴公子然とした笑顔からたまにこぼれ落ちる口の悪さだとオリヴィアは思っている。
「あの、お兄様…どうしてこちらに?」
王城に役職のある父と違って、公爵家嫡男として広大な領地経営に家門の事業にと忙しく飛び回っている兄ともなかなか会う機会がない。
「最近お前の様子がおかしいと家の者たちに聞いてね。少し王太子妃教育を休めないかと願いに出てきたのだが…遅かったようだね」
お兄様は涙に濡れた私の顔をみて、小さく微笑むと、大きな手でそっと前髪を梳くように撫でてくれた。
「こんなにも痩せてしまって。クマもひどい、眠れていなかったんだろう…? 大丈夫、後のことはお兄様に任せてくれ。…あのクズは俺が始末するからね」
お兄様の低くゆったりとした声が心地良い。内容は物騒だけど。オリヴィアを甘やかす時の声だ。
王太子妃教育が本格化して忙しくなる前にはよく聞いていた気がするのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。
「お兄様…あの、わたくし」
「…うん」
「頑張ったのですけれど…」
「うん。頑張っていたね。ヴィアは誰よりも努力家だ」
泣いた目元を隠すように優しく頭を撫でる手が心地良い。
急かすことなくゆっくりとわたくしの言葉を待つ声も。
「王太子妃教育も、公務も、殿下達のご依頼も、全部、頑張りました、けど」
「けど? いいよ、いってごらん。お兄様が何でも叶えてあげよう」
お兄様の優しい声が染み込んでくる気がする。
「本当に? わがままを言う私のこと嫌いにならないですか?」
「なるものか。君はわがままを言わなすぎて心配だよ。大丈夫、君の望みは?」
お父様もお兄様もこんなにも私の事を気にかけてくれていたのに。
何を見ていたんだろうか。
こんなにも愛されていたのに。
何故、こんな環境に身を置いていたのか。
帰ろう、私を愛してくれる場所に。
ずっと、胸のうちに秘めた言葉があった。
言ってはいけないと、責務から逃れてはならないと封じていた言葉。
でもきっと、そう思い込んでいたのは自分だけだ。
公爵家の娘として役に立たなければならないと、弱いところを見せてはならないと意地を張っていたのかもしれない。
こんなにも心配そうに見守る温かい瞳に気がついていなかった。
だから、きっと大丈夫。
言えなかった言葉。
言いたかった言葉。
「もう、無理です…家に、帰りたい…」
「うん、いいよ。帰ろう」
柔らかく肯定してくれる声は低くて甘いのに、何だか泣いてるようだった。