(7) 惟成の悪だくみ
あぁ、日をまたいでしまった。何だか、残念! でも書いたのでアップします。
よろしくお願いします。
藤原惟成は、当時の天皇だった花山天皇にとって、心を許せる数少ない臣下だった。
身分こそは低かったが、帝の乳兄弟だったからである。
だが、残念ながら、藤原北家の主だった連中からは、あまり相手にされていなかった。というより、むしろ、ほぼ無視状態だったのかもしれない。
なぜなら、花山天皇は、疫病の流行などで親族を失い、後ろ盾になってくれそうな者達が、既にいない状態で即位したからだ。
先帝である円融天皇の意向で取り敢えず天皇になったものの、有力な貴族の協力が得られない弱い政権だったのである。
「やれやれ、……あの帝に、わざわざ自らの娘を嫁がせようとする公卿もおらんじゃろうから、運良く御寝所にまで辿り着ければ、もしやはあったかもしれんがのう! 」
後で話を聞くと、満仲様はそんな不遜なことを考えていたようだ。
「もう、御爺様には困ったものですね。急に婚儀の話が決まって大変だったでしょ? 」
桔梗は本当に気の毒そうに小萩を見た。
「うふふ、……笑うしかなかったですよ」
小萩は、意外にカラリと笑う。
「もしかして、帝のお側にお仕えする方が良かったとか? 」
桔梗は小萩の明るい反応が少し不思議に思えた。
「いえ、いえ、惟成様にご縁があって寧ろ良かったですよ」
今度は、きっぱりと言う。
「世間はどう思うか知りませんが、私は充分、夫を通して世の中のことを知れましたからな」
少し間を置いてから、噛みしめるように言った。
「他の女では、あの御方の強い志まで判らないでしょうし! 」
それはまるで、そう信じ込むことで、強く生きて行こうとしている人の言葉にも聞こえたのである。
藤原惟成は、身分は低かったが、花山天皇の補佐役としてだけではなく、官吏としても優秀な男だった。
例えば、味方がいない天皇の為に、いろいろと画策している。
花山天皇は帝ではあったが、後ろ盾がいないせいで、合議の場で賛同が得られないことがしばしばあったようだ。というよりか、立太子(次の天皇候補)に選ばれた懐仁親王の祖父にあたる藤原兼家などは、 『早く、辞めれば良いのに! 』 とでも言うように、体調を理由に、政の場に一切、出席しなかったようである。
おかげで、兼家との付き合いに重きを置く公卿達まで、政治参加しなくなった。
つまり、何事も決められない状態になったわけである。
だが、そこは優秀な惟成が、上手く押し通してしまう。
右大臣・兼家が徹底的にボイコットしても、宮中で外せない行事があると、左大臣である源雅信は、さすがに動くからだ。
源雅信、この人の娘が、あの有名な藤原道長に嫁いだ倫子(りんし/みちこ)である。
当然、道長の父である兼家とは後に姻戚関係になるが、まだ、この頃は余裕があったのかもしれない。とにかく、この人の動きを利用して、上手く仕事を進めたようだ。
例えば"沽買法"などは、雅信が出席している日に通してしまう。
沽買法とは、市場での物の公定価格や、銭との換算率を定める法律である。
どうやら、その当時、地方の役人達が不当に安く仕入れた商物を都で高く転売し、私腹を肥やしていたようで、それを防ぐためにも、また、都の物価を上げない為にも必要だったのではなかろうか。
また、他にも、花山天皇の権威を盾に、都での土地の不法占拠を取り締った。
これまた、当時、都大路の道端や、宮中にいたるまで、所有関係がはっきりしない無許可な田が勝手に作られていたようで、そこに植えられていた稲らを薙ぎ取ったことから"田なぎの弁"と呼ばれるようになったらしい。
田の取締りがそんなに重要なのか?
と思ったりもするが、これも本来、別の目的があったのかもしれない。
もちろん、近隣の住民が所有権の存在しない場所を勝手に開墾したものもあるだろうが、それだけではなく、ある一部の貴族達の、公にはされない私有化された土地なのかもしれないからだ。
そんな考えもあったのか、今となっては分からないが、とにかく惟成は、田なぎ活動に勤しんだようだ。
「御父上様からお聞きしたのですが、式太様も結構、無茶をなさったそうですね。うちの若い衆が何度か手助けしたとか。……叔母上様も、一枚噛んでいたのでしょう? 」
と、桔梗が悪そうな顔をして訪ねた。
なるべく説明的な回は、短く、分かり易く、書こうとは思っているのですが、
……次はもっと、話を進めたい! と思っています。
できるだけ頑張って書こうと思っていても、なかなか、進まないので、もしよろしければ、ブックマークしていただければ励みになりますので、よろしくお願いします。