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28 そしてバトンは

 


 家に帰った八総は、狭い部屋の中で一人じっと右肘を眺めていた。


 痛みはない。というより普段の生活では。走っていても特に痛みは感じなかった。しかし投げたら別なのだろう。激しい動きや重いものを持った場合も。試していないからわからなかったが、それで日常生活に影響が出るほうが怖かった。


 もし治ったら。もう一度投げられたら。果たして自分は今一度野球に、投手に戻るのだろうか。八総は考える。そんなことはおそらくありえない。でもそんな奇跡がもし起こりうるなら……


 リレーの練習の日々を、本番のことを思い出す。あの高揚感、達成感。充実感。自分の人生が、自分の手に戻ってきた確かな感覚。自分の人生を取り戻せた実感。


 宮古のことも思い出す。ケガではないとはいえ、もう走れないと思ってたであろう宮古の、その走り。練習の日々。あのやりきった顔。あいつも、自分の人生を取り戻せたと思えたのだろうか。それに喜びを感じていたのだろうか。


 何にしても世界のおかげだ、と八総は思う。世界がいなかったら、自分は今頃どうなっていただろう。何をしていただろう。この二週間、何を思い何をしていたのだろう。それはもはや想像もできない。考えたくもなかった。


 俺が人生を取り戻す手助けをしてくれてありがとう、と八総は思う。それと同時に、失われたものを、損なわれたものを取り戻すということが人間にとってどれほど大事なのかも、身をもって知った。


 もらったものを返す。手渡されたバトンを、次に渡す。自分がしてもらったことを。


 俺も、あいつのように。誰かの人生を、そいつが自分の人生を取り戻す手助けを……


 あいつのような、人間に。



 八総は一つ息をつき、決心した。



     *



 翌日の放課後。八総は総合支援委員会の部室に向かっていた。奇しくもそれは宮古も同じであり、途中で彼に追いつく。


「よう宮古。お前も部室か?」


「ああ。お前もか。丁度いいわ」


「なんか話でもあんの?」


「着いたら言うけど、まあ一応報告だな。あいつにもお前にもその義理はあるし」


「そうか。んじゃま、お前も俺の一世一代の宣言聞いてけよ」


「またなんかとんでもないこと言い出す気かお前」


「まあな。自分でも考えるだけで笑いが出てくるけどよ、まあ聞いてけよ。多分めっちゃ面白いから。別に笑っていいし」


「笑わねえよ。俺も似たようなもんだしな。まあそういう蔑みじゃなくて、いい意味で呆れて笑うとかはあるかもしれないけど」


 宮古はそう言い、部室をノックしドアを開けるのであった。


「あら、いらっしゃい。といってもここはあなたたちの部室でもあるけど」


「おう。まあ俺らから一応報告っていうか、俺の場合は頼みもあっけどよ。お前はなんかある?」


 八総は宮古を見る。


「あるっちゃあるけど、俺の場合は別に助けはいらないっちゃいらないからな。先のことはわかんねえけど」


「んじゃお前からどうぞ」


「……まあ、散々世話になったしお前らにも一応報告だけどよ――俺は普通科の陸上部に入ることにしたよ」


 宮古はまっすぐに埓木崎を見て言う。


「普通科にも陸上部はあるし、走れるには走れっからな。当然大会にも出られるし。それでよ、普通科だろうと全国行ける、全国で勝てるって見せつけてな。とりあえずはインターハイ優勝だよ、目標は」


「そう。それはいいわね。とてもいいわ」


 埓木崎は嬉しそうに言って笑う。


「ああ。だからまあ、基本は自分でやるけどよ、コーチとか練習施設とか、サポート頼むこともあるかもしれねえからさ。どうなるかはわからないけど、あいつらにも、今いる陸上部のやつらにも同じ経験させてえし。一緒にっつうか、できるんだしお前もやれよって見せつけてえし、知ってほしいからな」


「任せてちょうだい。あなたの頼みがなくても普通科の部活改革も着々と勧めているからね。だからあなたはその背中で見せてあげて。先を、先頭を走って、俺について来いって」


「言われなくてもそうするよ。ま、あんがとな。八総も。俺のことリレーに誘ってくれて」


「こっちこそだわ。お前がいなかったら二位も無理だったからな」


「かもな。だからま、この総合支援委員会とか、今後の代表対抗戦とかはそんな力貸せねえかも知れねえけどよ、なんかあったらいつでも言ってくれ。やれる時はやるし、俺にできることはやるからな。仲間だからよ、俺も」


 宮古はそう言い、ニッと笑った。


「もちろん。あなたはもう私たちの永遠の戦友よ。こちらも遠慮なんかしないからね。


 それで、八総君は?」


「ああ。俺も、というか俺は特大の爆弾投下しに来たわ」


 八総はそう言ってハッと笑う。


「決まったよ俺の夢。俺の目標、今後の人生。


 ――俺さ、医者になるわ」


「――は?」


 と聞き返したのは宮古であった。


「医者だよ医者。ドクター。スポーツドクターつうかさ、俺みたいなやつを、肘とか肩とかぶっ壊したやつ、そうじゃなくても足でも腰でもなんでもいいけどよ、そういうの治して、そいつがまた自分の人生取り戻せるように、その手助けができる医者にな」


「……医者ってめちゃくちゃ頭良くねえとなれねえぞ。お前めちゃくちゃバカじゃねえの?」


 と宮古。


「ぶっちゃけわからん。なんせ今まで全然勉強してこなかったからな。自分ができるかどうかも正直わからねえよ。


 でもさ、目標はでけえほうがおもしれえだろ。やること増えるしよ。挑戦しがいがあるし。それに勉強はしたって損にはならねえからな。たとえ医者が無理でもよ、やった勉強は他にも使えるし、医者じゃなくてもリハビリトレーナーとか、とにかくそういう人生を取り戻す仕事は色々あんだろ。


 今回代表対抗戦出てさ、ほんとにわかったよ。人生取り戻すってのがどんだけ大切なことなのか。俺もその手助けをしたいって、本気で思ったからさ。自分みたいな目には遭ってほしくないってな。それにまあ、誰も彼もがそれまでの人生諦めて次の新しいものを、っていけるわけじゃねえじゃねえか。自分にはこれしかなかったのにって腐っちまうやつだってたくさんいんだろ。俺だって世界がいなかったらどうなってたかわからねえしな。だからまあ、そういう出会いっつうか、俺がそいつらに出会って、人生諦める必要なんかねえぞって、教えられられたらいいなって思ってな。というかそうしたいし。


 とにかく俺は医者を目指すよ。そのためにめちゃくちゃ勉強する。だからよ、世界。俺に力を貸してくれ。例の補習授業に俺も出るよ。とにかく勉強のサポートしてくれ。もらったものはよ、出世払いで返すし、他の奴らに返していくからさ」


 八総のその頼みに、埓木崎はふっと微笑んだ。


「ええ、もちろんよ。頼まれなくたって私からするわ。茨の道なのは確かだけど、でもこの世界に不可能はないからね。やってみなければわからない。挑戦しなければ、走らなければ辿り着くことはできない。たとえ辿り着けなかったとしても、その過程はすべて自分の人生の糧になる。


 やりましょう八総君。あなたの夢は私の夢。戦友なんだから、いくらだって力を貸すわ」


「――ありがとな世界。ほんと、出会ってくれてよ。俺を誘ってくれて。普通科に来てくれて。


 おかげで俺の人生よ、最高に面白いぜ」


 八総はそう言って笑った。


 八総の時計の針は、もう止まらない。新たな夢のため、加速する。


 限られた時間。限られた人生。それを全速力で、駆け抜けるため。



 さあ、次なる夢へ。走れ、走れ。


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