25 俺たちの勝利
――クソっ……
息を切らす。あと数センチ。体一つ分。一歩もない。わずかな、わずかな差。本当に、何かが少しでも違ったら逆であったであろう差。
ちくしょう……勝てた。勝てた試合だ。あと少し、本当に何かが違えば。もう少し……もっと何かできたはずだ。バトンパス、スタート、走り……追わねえで、ただひたすらに自分の走りだけに集中していたら……
いや、違う。自分は今のベストを尽くした。できることはやった。練習も、問題なかった。あえていうなら練習時間。せめてあと数日、一週間あったら。それだけありゃひっくり返せたはずだ。
いや、それもわからない。その一週間は誰にでも平等だ。相手だってその分一週間練習できるはずだ。
それでも、答えのない後悔。悔しさ。負けた。勝てなかった。二位。二位、二位……
八総は鋭く息をつき、天を見上げた。
「俺の勝ちだな」
歩み寄ってきた狩野が言う。その額には大粒の汗。呼吸は荒い。
「……何言ってんだお前?」
「あ? お前こそ何言ってるんだ。俺の勝ちだろ。お前の負けだ。俺が先にゴールした。わかってるだろ?」
「そうじゃねえよ。全然わかってねえのなお前。勝ったのは『お前』じゃなくて『お前たち』だろ。スポーツ科代表、チーム。四人。補欠もいるならもっとだし、練習手伝ったコーチとか。お前練習してないなら知らないかもしんないけど」
「……どっちにしたって変わらない。お前たちの負けだ。これでわかっただろ。普通科なんてどうやったって俺たちには勝てないんだよ」
「はは……そうか? めっちゃギリギリだったろ。次やったらわからねえし。
だいたいよ、お前これ見てみろよ」
八総はそう言い、くるくるとスタンドの方を指差す。
歓声。拍手。驚愕と歓喜が混じったような顔。多くの者が健闘を湛えていた。その中でも、普通科の面々はもはや周囲の目など気にせず、拍手し、熱狂し、歓声で称え、腕を突き上げている。
「普通科ー!」
「すげーぞ普通科ー!」
「やそー!」
「宮古ー!」
「市萱ー!」
「信じてたぞ埓木崎―!」
そういう声に対し、八総はニッと笑って拳を突き上げて応える。
「どっちが勝ったんだかな。ま、当然お前らの勝ちだけどさ、少なくとも俺らは負けてねえよ。勝ったな。二位だけど、これ見りゃわかるわ。俺たちの勝利だ」
「……お前ほんとにバカになったのか?」
「そうでもねえだろ。勝つつっても色々あんだよ。負けるにしても色々あんだしな。お前だってピッチャーならわかんだろ」
「……いや、意味がわからない。勝ちは勝ちで負けは負けだろ。それがすべてだ」
「違うじゃねえか、ピッチャーってのはよ。別にピッチャーだけじゃねえ。みんなそうだ。投げてりゃ打たれるし、点取られるし、負けることもあんだろ。でも投げ続けるじゃねえか。試合が終わるまで投げ続けて、試合が終わってもまた投げ続けて。何度だってさ、どれだけ打たれようと負けようと、投げ続けるのがピッチャーだし野球だろ。それが人生だろ。ピッチャーだけじゃなくてみんなそうだろ。投げ続ける限り負けじゃねえんだよ。生き続けてく限り、何度も負けて勝って戦って、そうやってずっと人生続けてな。全部先に続くだろ、繋がんだろ。バトンみてえに全部が。みろよあいつら。繋がってんだろ? 俺たちのバトンが。意志がさ」
「……お前は、本当に落ちぶれたんだな。いや、投手じゃなくなったわけだ」
狩野はそう言って息をつく。
「どこまでも一人なのがピッチャーだろ。すべて自分一人の責任なのがピッチャーだろ。打たれることを、負けることを絶対に許さないのがピッチャーだろ。次なんてありえない、これがすべてで、これが最後っていうのが、ピッチャーだろ」
「……ま、お前がそう思うんならお前の勝手だけどさ。でももう少し視野広く見てみろよ。前にも後ろにもみんないるじゃねえか。横にも、先にもいくらでも世界は広がっててさ。マウンドの上がすべてじゃねえじゃん。まずはよ、自分の仲間のとこ行ってこいよ。勝ったんだからな。みんなで喜んでさ、健闘を称え合って。つか俺も忙しいんだよ。さっさとみんなのとこ行かなきゃならねえんだから。お前の相手なんかしてらんねえのよ。んじゃまたな」
八総はそう言うと、こちらに向かってくる仲間たちの方に早足で駆け寄っていく。
「おう。お疲れ」
「ええ、お疲れ様」
埓木崎はそう言ってふっと微笑む。
「二位ね」
「ああ、そうだな。二位だ」
埓木崎は決して「負け」とは口にしなかった。
「でも意義ある二位だよ。ギリギリだしな。ほとんど一位と変わらねえ二位だ」
「そうね……結局私が足を引っ張る形になってしまったわね」
「んなのはなからわかってんだろ。それ込みでみんなやってんじゃねえか。お前含めてよ。たとえお前が穴だろうと、お前なしでの対抗戦なんてありえねえんだから」
「ふっ……ありがとう八総君」
「こっちこそあんがとな。対抗戦、こんなおもしれえもん誘ってくれて」
八総はそう言ってニッと白い歯を見せ笑った。
「大丈夫だよ、俺たちは勝ったんだからさ。二位だろうと俺たちの勝ちだろ。この観客の様子見てりゃな。そりゃま、これも一時の高揚かもしれないけどよ、でも始まりだろ。確かになんかは、少しは動いただろ。なら俺たちの、お前の勝ちじゃねえか。お前があの日始めた、俺たちの、みんなの対抗戦のよ」
「……ええ、そうね。間違いじゃなかったわ、すべて。ささやかだろうと、これで確かに何かが変わったって、信じてるし信じられるわ」
「ああ。だいたい普通科が二位なんて多分初めてのことだろ? じゃあ歴史に残るじゃねえか。はじめの一歩として歴史によ。そんで次、一位になった時にはそれこそ歴史にな」
「そしてその先は年間対抗戦の優勝ね」
「そういうこった。それでいや最高の二位じゃねえか」
「わ、私も二位なんて生まれて初めてですし! 一位じゃなかったですけどすごい二位です!」
と市萱もまだ興奮した様子で言う。
「お前に限っちゃ一位だったけどな。すげえじゃねえか。陸上部の短距離選手に勝っちまったぞ」
「そ、そういえばそうですね……だ、大丈夫でしょうか!? 復讐とかされないでしょうか!? お礼参りとか!」
「あるわけねえだろこの真剣勝負で。とにかくお前がナンバーワンだろ。今日のこの女子の中じゃな」
八総はそう言い、宮古の方を見る。
「よう、見せつけてやったな。宮古練侍の走りを」
「ああ。当然だよ」
宮古もそう答えニッと笑う。
「世界が見たし知ったぜ。お前が何もんかを」
「んなの見せなくたってはなからはっきりしてるっつうの。誰かに知ってもらう必要なんかねえよ。誰に何言われようと、何されようと俺は俺なんだからな」
「ほんとな。最高だったぜお前の走り。あとちょっと速かったら俺がぶち抜いて一位になってやったのによ」
「ハッ、俺のせいかよ。まあ確かにな。次だ次。次は全部ぶち抜けるようやってやっから待ってろよ」
宮古はそう言い、八総に向かって拳を突き出す。
「おうよ。そん時は俺も任せとけ」
八総が、宮古の拳に拳を合わせる。
「それじゃあみんな。もちろん祈もよ。勝利のハイタッチとでもいきましょうか」
埓木崎はそう言い、手のひらを掲げる。それに続き、みなも手を掲げる。
「ほんとに惜しかったけど、勝利の二位だわ。みんな、ほんとに最高の走りだったわよ。今日まで一緒に走ってこれて楽しかったわ。でも、私たちの戦いは、あなたたちの人生はこれで終わりじゃない。まだまだ続くわよ。だからみんなで、一緒に生きていきましょう」
そう言い、ニッと笑って八総を見る。
「じゃあ掛け声は八総君お願い。適任でしょ?」
「おう、任せとけ」
八総はそう言い、ちらりと客席の方に目をやった。
「んじゃ――行くぜ普通科! 次はお前の番だ! 一緒に勝って優勝するぞ!」
「おお!」
「はい!」
「ええ!」
「うん」
五人が、天に向かって突き上げた手でハイタッチを交わす。自然、拍手が起きる。その拍手は、ぱらぱらと天に飲まれて消えていく。
「それじゃあ、行きましょうか。みんな汗もかいてるしね。支度をしたら、まずは食事よ。今日くらいは私に奢らせて。それで明日からは、また新たな次なる戦いよ。各々の人生。しっかり生きて、やっていきましょう」
「おうよ。こんな面白いもんがまだまだ続くってんなら最高だな。行こうぜ。世界の奢りっつうならすげー高級レストランかなんかか」
そう話しつつグラウンドからロッカールームへ引き上げようと歩く途中、
「八総くん!」
とスタンドから声をかけられる。
「おお、本名じゃん。来てくれてあんがとな」
「うん。間に合って、決勝だけは見られて。ほんとに、すごかったよ! 最高だった! みんなも、ほんとに最高だったよ! 二位だろうと、みんなが一番だったから!」
「はは、そうだな。本名もあんがとな! わざわざ応援しに来てくれて。ちゃんと届いてたからさ、これまでの全部」
「うん、こっちこそ! ほんとかっこよかったよ!」
「まあな。これ終わったら飯行くんだけど本名も来る?」
「ありがとう。でもごめん、これから仕事だから。折角なのに表彰式見れないけど、あとで動画でしっかり見とくね!」
「そっか。んじゃまた月曜にでも食堂でな」
八総はそう言い、軽く手を振りロッカールームへと向かった。
*
表彰式。上位三チームだけの、簡素なもの。高低差のある表彰台などには乗らず、順位が発表され称えられるだけ。それは長い対抗戦の最初の一歩。これですべてが決まるわけではない。賞状もメダルもありはしない。あるのは勝利を、健闘を称える拍手。そして対抗戦のポイント換算だけ。しかし少なくともそのポイントで、普通科は一気に上位に躍り出た。始まったばかりとはいえ、これまでにない快挙。
「二位、普通科」
そのアナウンスで、拍手が起きる。もうスタンドの普通科生徒も遠慮などない。歓声と拍手。本当に、普通科がやってのけた。二位とはいえ、ほぼ一位と同タイム。ギリギリの二位。しかも相手は、日本一のアスリート集団たる日新学園スポーツ科。あまりにも大きい二位だった。
「これで少しでも何かが変わればいいけどね」
埓木崎は小さく呟く。その効果は、まだわからない。このはしゃいでいる普通科生徒たちが明日以降どうするかは、何もわからない。
しかしともかく、これは終わりではなく始まりであった。何度でも、何度でも。まだまだ人生は続く。高校生活は続く。
だから飯を食って寝て、明日を迎えるのだ。




