24 ラストラン
休憩をはさみ、決勝、二回目の一組目、下位グループのレースが始まる。これはもはや上位争いの大勢にはなんら影響はない。ただポイントのための明確な順位付けとして行われるだけだ。
その一組目が終わり、いよいよ二組目。一回目上位陣による真の決勝が行われる。
スポーツ科、政治科、経営科、などといったエリートの面々。その中に「普通」たる普通科が紛れ込んでいる。過去においても普通科が何かの代表対抗戦で決勝に残ったことはない。能力以前に、意志がなかった。意味がなかった。だから練習などしなかった。たとえ秘められた力があったとしても。最初からみながすべてを諦めていた。
でも今回は違う。元々能力のあるメンバーが集結し、短期間であるが正しい練習を徹底して行った。そして何より、個々にもチームとしても強い意志があった。
やれば、できる。自分たちにも、できる。人生は取り戻せる。
意志は行動を生み出す。行動は意志を生み強化する。その両輪。それをはっきり普通科に、落ちこぼれたちに示してみせた。
あとは勝つだけ。最後の戦い。けれども同時にこれからも続く長い戦いの、その始まりにすぎない戦い。
普通科代表の四人が、トラックに姿を現した。
ざわめきが起こる。一回目の一組目一位。全体でも二位のタイム。ついにそのベールを脱いだ。実力は本物だった。大言壮語も伊達ではない。有言実行、大口を叩いただけのことはある。もしかして、もしかすると……そういう空気が客席にも広がっていた。とはいえそれを大声で表明する者は未だいない。応援の歓声は飛んでこない。他の科はともかく、普通科の者も大きな声では意思表明できない。まだわからない。何より「落ちこぼれ」「お荷物」の普通科がそんな大っぴらに調子に乗れない。他の科の目がある。肩身は狭い。応援する者は、信じる者は、可能性を確かに感じている者は、ただ祈りながら固唾をのむだけであった。
最後に入場するスポーツ科には大きな歓声が送られる。練習もあるだろうに、それなりの規模の応援団が集結していた。そこにはスポーツ科としてのプライドもある。天下の日新のスポーツ科。同世代の中でもエリート中のエリートたちが集まるアスリート集団。リレーというシンプルな肉体勝負、運動能力勝負である以上、間違っても負けられない。ましてや「落ちこぼれ」普通科に負けるなど、絶対にあってはならない。対抗戦スポーツ種目ではずっと一位をキープし続けていることもある。それでも、不安はある。タイムは勝っているとはいえ、一回目の普通科の走りを見てしまった。万が一、もし、一つでもミスがあれば……
それは日新学園スポーツ科始まって以来の緊張感であった。長い勝利の伝統。それを自分たちの世代がぶち壊してしまったら、終わらせてしまったら。OBたちから何を言われるかわからないし、敗北の歴史は一生残る。
負けられない。負けるわけにはいかない。プライドがある。それは「勝つ」という普通科の意識に比べれば後ろ向きではあったが、それでも本気には変わらなかった。
各選手紹介が始まる。一度目の時とは違い、市萱はもうパニクってはいない。一人ボックス呼吸で集中しながらも、その音は耳に届いている。名前を呼ばれた瞬間はどうしても体がビクッと震えるが、すぐに呼吸に集中し自分に戻る。
大丈夫、大丈夫……外は、他の人は関係ない。自分だけ、自分のことだけ……スタートして、走って、埓木崎さんだけ見て、バトンを渡す……吸って止めて、吐いて止めて……イチニサンシ、ニーニサンシ……
そんな市萱の様子を、八総は後方少し離れたところから見ていた。
(ま、さっきよりは全然大丈夫そうだな)
そう思いつつ、自分もぷらぷらと手足をフリながらスタート位置につく。自分の名が呼ばれる。近くの客席から「がんばれー!」という声があがる。聞き知った声。そちらを見ると、マスクをはずした本名が最前列に立っていた。
目が合う。八総はニッと笑い、拳を突き出して見せる。それに対し本名も笑って拳を突き出す。
応援してくれている人はいる、信じてくれている人がいる。それがたとえ「身内」だとしても一向に構わない。
このレースの後、勝てば、それもすぐに広がるだろう。
選手紹介が終わる。いよいよスタートの準備が始まる。市萱は呼吸で集中の深い海、自分の世界に潜りながらも同時に外部の世界とも接点を保っていた。深海に差し込む光のように、かすかに外の音が差し込んでくる。呼吸は止めずに、スターティングブロックに足を置き、地に手を置き、クラウチングスタートの構えをとる。
不思議な気分だった。一回目とはずいぶん違う。落ち着いている。自分ひとりの時、いや、それ以上に。そんな気分は初めてだった。集中と、落ち着き。それは彼女のこれまでの人生の中でも経験のないものだった。いつも頭の中で声がなっている。鳴り止まない。思考の渦。自分は、どうすれば、正しいのか、できない。何を思われてるのか、目立たないよう、自分なんて……
そういう過去の言葉は、今はどこにもない。ただ呼吸。ただ肉体。もはや練習のことも思い出さない。脳で思い出さなくても、言葉で思い出さなくてもすべて体が覚えている。だからただ呼吸。呼吸という肉体。純粋に研ぎ澄ませた肉体の生命維持活動。
「オンユアマーク」
その言葉にも、体が自然と反応する。言葉はもうない。呼吸のみ。そこにももう言葉はない。4秒。吸って吐いて。イチニサンシ……そんなカウントも、もうない。ただどこまでも自然に、呼吸だけをする肉体となり……
電子スターターピストルの音が鳴った。聞くのは本日都合二度目のその音。反応は、先程よりもさらに速かった。
チーターのごとく小さく丸めていた大きな体が、スタートの合図とともにバネのように一瞬で跳ね上がる。前に、飛び出す。解き放たれる。スタートは完全に一番だった。
そこからも、再現。練習で散々繰り返した動き。低い姿勢から徐々に上体を上げていき、トップスピードに乗る。180センチの長身に、体の半分近くある長い脚。大きなストライド。一歩、その一歩で飛ぶように大きく前に進んでいく。その姿はさながらサラブレッドのよう。
スポーツ科の相手も女子。そして陸上部の、短距離選手。完璧なスタートを切ったとはいえ、その差を広げることは容易ではない。しかし差を縮めることも許さない。完全に互角。スタートの分市萱がわずかにリード。
そしてそのまま、埓木崎にバトンが渡った。
埓木崎は一瞬でスポーツ科に抜かれた。相手は男子生徒。もちろん陸上部の短距離選手。スポーツ科は第二走者に、直線かつ最も長い距離走れる場所にエースを置いてきた。あっという間に抜かれ、差を広げられる。スタンドから歓声が起きる。やっぱり、そりゃそうだ。圧倒的だ。ぶっちぎりだ。普通科がスポーツ科になんか勝てるわけがない。これが実力差。才能の差であり、生まれと育ちの差。次元が違う。世界が違う。何もかもが最初から違うのだ。勝てるわけなど、初めからないのだ。
けれどもそれは他者の言葉。他者の言葉で他者の思考。多数派の認識に過ぎない。彼女には、彼女たちには違う。抜かれることなど、差を広げられることなどはなから織り込み済み。普通科代表で一番遅いのだ。そこでそうなるのは当然。相手が男子ならなお当然。
けれども、これは個人の戦いではない。チームの戦い。チームが勝てばいい。アンカーが走りきった、その最後で誰よりも先にゴールしていればいい。
だから私個人が負けようと、あとの二人が勝ってくれる。抜いてくれる。
埓木崎には不安も恐れもない。離されていく背中など見えていない。見えているのは自分のベストだけ。自分の仕事、最善を。フォーム、そして完璧なバトンパスを。
仲間の背しか、仲間の顔しか。宮古の姿しか、その未来を見通す目には映っていない。
スポーツ科の第三走者にバトンが渡る。その少し後、宮古の手に、埓木崎からバトンが渡された。
バトンパスは問題ない。完璧なもの。バトンパスの組み合わせとしては最も安全で、最も再現性の高い組み合わせ。
エース、宮古が飛び出す。
スポーツ科の相手は女子選手。広げられていた差を、宮古はみるみる縮めていく。再びスタンドから歓声が上がる。誰の目にも明らかなほど速度が違う。その差は瞬きの一瞬ごとに縮まる。まさか、もしかして、本当に……
とはいえ、埓木崎が男子選手から離された距離はそう簡単に縮まるものではなかった。相手も女子とはいえ陸上部の短距離選手。そう簡単に抜かせはしない。
差が縮まる、縮まる……追いかけ、追いかけ、追いかけ……
しかしついぞ追いつくことはできなかった。先にアンカーにバトンが渡ったのは、スポーツ科の方だった。スポーツ科最終走者、野球部所属、狩野へと。だがそのバトンパスは完璧からは程遠い。落としはしないが、不慣れなもの。満足に加速できていない。スピードが落ちる。その一瞬に、勝機はある。
その少し後、宮古から八総にバトンが手渡された。
一瞬の視線の交差。
「行け」
という真っ直ぐに目を射抜く視線。言葉はなくともわかるメッセージ。
――ああ、任せろ。ぶっちぎってやるよ。追い抜いて、差し切るのが、アンカーの醍醐味だろ。
練習通りのスムーズなバトンパス。八総の巨体が発射される。少し前に、先行する狩野の背。八総は全力でそれを追いかける。その差は、はたから見れば追い抜ける距離ではない。ある程度決定的な距離。しかし追いつけない距離でもない。そしてその差は、徐々に、徐々に、縮まっていく。
追いつけ、追いつけ、追いつけ……
八総は走る。目に映るのはフィニッシュラインだけ。その視界の隅に、隣のレーンの狩野の背。
走れ、走れ、もっと速く。
追いつけ、追い抜け。あとちょっと、もうすぐそこ……
追いつけ! 追いつけ! 追いつけ!
――届かねえ……ッ!
二人の体がフィニッシュラインを割る。その差は、わずか胸一枚程度であった。
先にフィニッシュラインを割ったのは――狩野だった。
わずかに、わずかに届かなかった。八総は天を仰いだ。




