23 有言実行
そうして、いよいよ競技の時間がやってくる。
普通科は前半。スポーツ科とは別の組であった。とはいえライバルは多い。政治科や経営科などのエリート軍団は、恵まれた環境により子供の頃から各種英才教育を受けていて文武両道な者もいる。芸能科も比較的運動能力は高い。けれども結局はタイムの勝負。タイムを出さない限りは一回目上位による決勝にも行けない。対戦相手は関係ない。ただベストの数字を出すことがすべてだった。
陸上トラックの上。各走者が持ち場に着く。そうしていよいよ選手紹介が始まった。
各科の選手の名前が呼ばれると、その科の応援と思われる歓声が上がる。その大きさも各科によるとはいえ、皆ある程度の熱気があった。本気で応援している人もいるのだろう。単に騒げる祭りだからと来て騒ぐ者もいるのだろう。しかしなんにせよ、その声は走者の力に――時には重圧になるものであった。
そしていよいよ、普通科代表の名前が呼ばれる。
「普通科代表。第一走者、市萱星乃」
会場は、しんと静寂に包まれる。一方ですべての視線は、スタート地点にいる市萱に注がれていた。そんな視線の集中線の中心で――市萱は自分の名が呼ばれたことにすら気がつかず、一人目をつむりスーハースーハーと必死にボックス呼吸に勤しんでいた。
「第二走者、埓木崎世界」
と続けて名前が呼ばれる。埓木崎はただ、余裕の笑みで凛と立っていた。
「第三走者、宮古練侍」
宮古の名が呼ばれると、どこからともなく「犯罪者ー!」「刑務所戻れー!」などという声が上がる。しかし宮古は声がした方を向き――ふっと笑ってピースをしてみせた。
言ってろ。人でも雇って言わせてんだろうけど、お前らの言葉は何も届かねえ。
俺はただ、走るだけだ、と。
「第四走者、八総宗也」
アンカー。ひときわデカく、ひときわ目立つ金髪頭。肘を壊した元日本代表ピッチャーは、果たしていかなる走りをするのか。
ある意味主役は普通科。自分の科を応援していようとも、多くの者が最も興味があるのは普通科の結果。それが、いよいよ、本番で、わかる。
各自が位置につくよう促される。それに合わせ、各第一走者がスタートの体勢をとり始める。スターティングブロックを使ったクラウチングスタート。中にはスタンディングスタートも。そんな人々の動きの中で、市萱だけが一人棒立ちになり、目を瞑ったまま呼吸に集中していた。
「普通科代表チーム、位置についてください……普通科代表チーム、第一走者の方……? ……市萱星乃さん!?」
「は、はひぃ!?」
大きな声で自分の名をアナウンスされ、市萱はようやく我に返る。そうして周囲を見渡し、ようやく状況を理解して慌ててクラウチングの体勢に入るのであった。その様子に、スタンドから笑いが起きる。
――やっちゃった……やっちゃったあ!
恥ずかしさで顔もあげられない市萱。嫌でも笑い声はその耳に届いてくる。しかしなんとか頭を振り、すべてを追い出し空っぽにするよう呼吸を繰り返す。
――4秒吸って、4秒止めて、4秒吐いて、4秒止める……
イチニサンシ、ニーニサンシ、サンニサンシ、ヨンニサンシ……繰り返し、繰り返し、何度も繰り返してきたボックス呼吸。ただ呼吸だけに集中し。呼吸外に、何もなく……
「オンユアマーク」
位置について、の合図が出る。練習中から、幾度も聞いてきたその言葉。ボックス呼吸への集中下であっても市萱の体は自然と動き、クラウチングスタートの体勢をとった。
そして、電子スターターピストルの音が鳴った。
市萱の体は、自然と動いた。この10日ほど、毎日幾度も聞いてきた音と、繰り返してきた動き。練習。体に染み込んだそれ。ほとんど反射。完璧なスタート。そのままスピードに乗り、一歩、また一歩と踏み出していく。
(は、ひっ! で、できた!)
驚きと感激の中でも、一度走り出した体は止まったりはしない。スタートさえ決まれば、あとは走るだけ。それは市萱にとっては日常の行為。毎日のようにしてきたこと。ただ走る。いつも通り。それだけ。しかしその走りは練習による徹底したフォーム堅めによって、「パシリ」で駆け抜けていた頃のものとは違う。より体を活かし、ダイナミックに、地面からの反発力を効率良くもらい、前へ、前へ。
(コーナー! 練習! 練習通り! 動く!)
そうしてあっという間に、埓木崎の姿が視界に入る。
(ら、埓木崎さん! バトン、速すぎる!? 安全に、スピード落として……)
いや、違う。練習通りだ。大丈夫、埓木崎さんを信じて。何回もやってきた。何度も成功させてきた。
だからただ、埓木崎さんを信じて、このまま――
テイクオーバーゾーンで、埓木崎が走り出す。練習通りの、完璧なタイミング。正しい方法の再現というのは埓木崎の得意分野でもあった。あとは練習通りに、テイクオーバーゾーンギリギリで、なるべくスピードにのった状態で受け取るだけ。しかし。
(少し速い……?)
迫りくる市萱の走りを見て、埓木崎は瞬間的にそう判断する。アドレナリンか、トラックとの相性か、市萱はベストを更新する速度で迫っている。練習通りであれば、テイクオーバーゾーンの残り距離やバトンパスの速度、衝撃が変わってくる。
しかしそれを、埓木崎は一瞬で計算し微調整する。今までより速く走り、バトンパスも速度と勢いを考慮して。
初めてだけれど、初めてではない。数多の経験、練習があるからこそそれを基準に導き出せたもの。
市萱がバトンを持つ腕を伸ばす。埓木崎は、完璧なクッションでそれを受け取る。
そうして勢いよく、テイクオーバーゾーンを出て直線を駆け出した。
それを見ていた八総は「ヨシッ!」と拳を握る。やるじゃねえか市萱。完璧なスタート、走り、バトンパス。埓木崎もさすがだぜ。練習通り、順調だ。走りも悪くねえ。そのまま次も……
埓木崎から宮古にバトンが渡る。テイクオーバーゾーンをフルに使うため宮古はほぼ助走なしのスタートであったが、そこは中学全国出場者。すぐにスピードに乗り、あっという間にトップスピードでコーナーを回ってくる。
(来た! 後は俺が決めるだけだ。さあ来いさあ来い……行くぞ!)
駆け出す八総。驚異的な速度で追う宮古。二人の距離は徐々に縮まり、テイクオーバーゾーンの端が近づき……
バトンが八総に手渡された。一気に駆け出す八総。最後の直線。100メートルもない。とにかくあとは、この直線を突っ走るだけ。
前を走る者などいない。後ろから追ってくる者もない。ただ自分の走りを。
走れ。走れ。フィニッシュラインまで……
八総の体がフィニッシュラインを駆け抜ける。本日フィニッシュラインを切った、最初の一人。
すなわち、一組目一位。会場が、どよめきに包まれた。
「――うっし! 完璧!」
八総は一人拳を握り、すぐさまチームメイトたちの方を見る。そうして四人が、小走りに駆け集まった。
「おっしゃあ! 完璧だったぜ!」
と八総が手を差し出す。
「そうね。あれだけ練習してきたんだから。みんな練習通りできたわね!」
と埓木崎がハイタッチを返す。
「おうよ! 市萱! やっぱサイコーだぜお前!」
「はははい! よよ、良かったです! 体が勝手に動きました!」
とこちらも高揚した様子で八総にハイタッチを返す市萱。
「だから言ったろ。体が練習を覚えてんだって。宮古、やってやったなマジでお前」
「当たり前だろ。中学全国なめんなよ」
「誰がなめっかよ。一位だぞ一位。スポーツ科いねえ一組目っつってもよ」
「わ、私たちが一位……」
市萱はそう言い、ぶるっと体を震わせる。
「タイム考えても決勝上位は間違いねえだろ。マジで一位狙えるぞ」
「す、スポーツ科はどれくらいのタイムなんでしょうか……」
「知る必要ねえだろ。このあとだけど見る必要もな。どのみち上がってくんのは確実だろうし。相手のタイムは関係ねえよ。俺らは俺らのベストを更新すりゃいいだけだしな。持ってる力出し切らねえことには勝ちも負けもねえんだからさ」
「そ、そうですね……わ、私次もがんばります! 絶対ベスト更新しますんで!」
「もちろんよ。私もあなたの自己ベスト以上に合わせてバトン受け取るからね。遠慮なんて一切せず突っ込んできてちょうだい!」
そう言ってどんと胸を叩く埓木崎。
「そうだな。とにかく次がいよいよ本番だ。俺たちができるってことはもう十分わかっただろ。市萱も、こいつらもよ」
八総はそう言っていまだざわめきが収まらない客席を見る。
「そうね……これでもう私たちは疑いようなく押しも押されもせぬ優勝候補よ。あとはロッカールームに戻って決勝に備えましょう」
四人は並んでロッカールームへと引き返す。その道中、ぱらぱらと客席から拍手が起き始め、徐々に大きくなっていった。それは明らかに、普通科代表の四人に送られたものであった。
できる。勝てる。その強力なメッセージ。有言実行。
それを完遂するために。さあ、いよいよ決勝の舞台へ。
*
ロッカールームまでグラウンドの歓声が響いてくる。二組目の競争が終わったのだろう。しかし普通科代表の面々はその結果を知ろうとはしない。タイムも知ろうとはしない。それは関係のないものだ。倒すべき敵でもない。大事なのは勝つこと。次で誰よりもどこよりも速く走ること。それは自分たちとの戦いであって、相手との戦いではなかった。
男女はロッカールームが別。スポーツ科代表の狩野は額にわずかな汗を浮かべたまま男子のロッカールームに入ってきて、八総の前で足を止めた。
「……勝ったぞ。俺たちが一位だ」
「ああそう。そりゃそうだろ、すげーミスでもしない限り」
「タイムも上だ。お前たちよりな」
「そりゃわざわざどうも。んじゃ二回目それ更新できるといいな」
「……お前まだ俺たちに勝てると思ってるのか?」
「そりゃな。全部やってみねえとわからねえって。んな逆転不可能なタイムだったの? だったとしてもこっちがベストを更新することもあるしそっちがミスすることもあるからな」
「他人のミス頼みか。落ちるととこまで落ちたな」
と狩野は嘲笑する。
「何言ってんだよ。野球の時だって同じじゃねえか。ピッチャーの勝利の何割が相手のミスだよ。お前ピッチャーやってるくせにそんなのもわかんねえの? 全部実力なんてあるわけねえじゃん」
「そんなふざけた心境で投げてたのかよ」
「んなこたねえよ。全部俺の球でねじ伏せる気しかなかったけどさ。けど結果は別だろ。コントロールできることとできねえことがあるわけだしな。自分の球は全部完璧にコントロールする気しかねえけどよ。どっちにしたって勝つ時は勝つし負ける時は負けんだから。それよかお前大丈夫だった? 足引っ張ってねえ?」
「……お前には関係ねえだろ」
「かもな。でもその感じやっぱお前が穴か。んじゃアンカー勝負なったら勝機あんな。俺のが練習した分速いだろうし。渡った時お前前でも抜いてやるからそっちもがんばれよ」
「なるといいけどな、アンカー勝負。そもそも抜かれる気なんか一切ないが」
狩野はそれだけ言い、自分のロッカーの前に戻った。
「――あっちのがタイム上だとよ」
と八総は隣の宮古に声をかける。
「まあ想定内だろ。逆にこっちが勝ってたら油断が生まれんじゃねえのか。こっちははなから挑戦者なんだし今までとなんも変わんねえよ」
「それな。まあでも市萱いなくてよかったな。今頃耳には入ってっかもしんねえけどあいつにゃプレッシャーになるだろうし」
「けど一回目の走り見てりゃ大丈夫だろ」
「お、信頼してんじゃん。いつの間にそんな市萱のこと評価してたのよ。というかお前市萱と全然喋ってねえよな」
「しょうがねえだろあいつ俺のこと怖がってんだし。なんか気使ってくるしよ。というか今までの練習見てりゃあいつがすげえのなんて誰でもわかるっつうの。普通にスポーツ科でやってけるレベルだろ」
「だな。あとはメンタルさえ克服すりゃだけど」
「というかあいつなんなんだよマジで。なんでお前あんな目の敵にされてんだ?」
「目の敵にされてんのあれ?」
「どう見てもそうだろ」
「そうなんだ。いや、なんか代表の時に俺にエースナンバーとられたの気にしてるみたいだったけど。あと俺が野球辞めて普通科行って金髪になってんのにすげえむかついてたな」
「……お前ある意味すげえピッチャーらしいっつうかさ、やべえくらい無神経なとこあるよな」
「そんな? でも無神経じゃねえとピッチャーなんかできねえだろ」
「マジでそれ中心なんだな……」
「ずっとそれしかなかったからな。けどそっか。確かにもうピッチャーじゃねえんだからそのへんも多少はなんとかしないとなんだな」
「する気ねえだろ絶対……まあでも、この状況じゃお前の無神経さは強みだろうけどな。あっちのがタイム上だって知っても全然動じねえで」
「そりゃ実際走りもタイムも見てねえしな。関係ねえだろ。あいつらのタイムはあいつらの人生で、そりゃ俺の人生じゃねえからな。俺にコントロールできんのは自分の走りだけだかんな。あとはもうお前らのこと信じてるし。そういうお前だって動じてねえだろ?」
「俺は速いからな実際。スポーツ科の陸上部よかも」
「ハッ。ありがたいねーほんと。お前が仲間でマジで良かったわ」
八総はそう言い、宮古に向かって拳を突き出す。宮古もそれに、笑って拳を突き返す。
「お互い様だろそりゃ。つってもまだ終わってねえけどな」
「ああ。そもそもこれ自体始まりでしかねえし」
「そういう話だったなお前らは。まあ、お前は勝てるだろうなあいつには。勝つよな? さっきのやつに」
「まあ十中八九俺のが速くね?」
「だろうな。俺は誰が来たとしても最悪でも五分まで持ってくし、市萱も一回目再現すりゃ五分以上は確実だろ。となるとやっぱ埓木崎だな……」
「それはもうしょうがねえだろ。あいつの判断だし、実際最初のこれであいつが出ねえってのはねえと思うからな。あいつがいた上で勝つ、ってのが尚更いいんだろ。まあ俺ら三人が一番の走りしてあいつの分埋めりゃいいだけの話だかんな」
「そもそもそれ以外に勝つすべなんてねえけどな。ほんとお前は話が早いやつで助かるぜ」
「そりゃそうだろ。やる。勝つ。それだけで」
「そうだな……勝つぞ、絶対」
「たりめーよ。勝つ以外なんも考えてねえって」
八総はそう答え、スポーツドリンクを一気に飲み干した。




