21 これから
金曜日。土曜の代表対抗戦本番まであと一日と迫っていた。ここまで毎日、土日だろうと練習してきた。朝も放課後も。暗くなるまで。ナイターがある大学のトラックでは日が落ちてからも。徹底してフォームを磨き上げ、自分の走るコースを繰り返し、スタートとバトンパスの練習を何度も何度も繰り返した。初めは上手く行かず、繰り返すうちにゲシュタルト崩壊が如くわけがわからなくなっていくバトンパスも、その壁を超え再現性を高めていく。結果として個々のタイムは当然に、バトンパスで繋ぐ四人の400メートル全体のタイムも初期に比べれば大幅に縮めることに成功した。
各々疲労はある。けれどもそれ以上に達成感と充実感に満ちあふれていた。確かな手応え。やることはやってきた。徹底してやった。そしてできるようになった。練習は嘘をつかない。量も質も、紛れもなく優れたものだった。
勝つ。勝てる。あとはその本番に、ベストのコンディションを持っていくだけ。そうした中で、普通科代表の面々は決起集会よろしくいつものように食堂で昼食をとることにする。
本番前日ともなれば代表対抗戦の情報は学園内中の隅々まで広がり、注目の話題の一つになっていた。特に一年、普通科にとっては大きなトレンドである。これまでになかった、一年生のみ、一年が主役の代表対抗戦。加えて普通科の大胆不敵な勝利宣言。自ずと他科からも注目される。普通科がここまで話題の中心になることなどこれまでなかったため、どこか浮足立った空気感もあった。
それらを生み出している普通科代表の面々は、どこにいっても視線を向けられる存在であった。学園アプリによって顔も名前も学内中に広く知れ渡っている。歩けば「ほら、あれが例の」となるのは必然である。ほんとに勝てるのか。本気で勝つつもりなのか。何にせよそれは結果への興味となり、興味は見ること、知ることへと繋がる。
舞台は整った。周知活動は実った。視線は集めるだけ集めたのだから、あとはその衆人環視のもとで結果を出すだけだ。それがなければ、革命のすべては始まらないのだから。
「おっす本名さん」
「こんにちは。みなさんどうも」
遅れてやってきた本名に八総が声をかける。あの後何度か昼食を共にした本名はすっかり普通科代表の一員のようになっていた。
「俺ら五人だから必然的に席一つ空いて便利だよな」
「そうだね。けどいつもこのへんだけぽかんと席空いてるけど……」
と本名は周囲を見回し苦笑いする。
「近寄ってこないんだよな誰も。便利だからいいけど」
「それもそうだけど少し寂しいよね……あの、市萱さんは何かあったの?」
と本名は少し顔を近づけ小声で尋ねる。その視線の先の市萱は、料理を前にしてもうつむき、一人で何やらぶつぶつと呟いている。
「ああ。なんかさっきからずっとこんな感じ。本番前日でブルってんじゃね?」
「ブルってるって……大丈夫なの?」
「なんとかするよ。ほら市萱、とりあえず飯食えよもったいねえ。腹膨らめば大抵のことはどうでもよくなんだからさ」
「みんな八総くんみたいに単純だったらいいんだけどね」
とおかしそうに笑う本名。
「実際そうでしょ。食ったら眠くなんだし。腹が減っては戦はできねえだぞ市萱。お前の大好きなカレーじゃねえか」
そう言って八総は市萱の体を揺さぶるが、彼女は自分の世界から帰ってこない。
「駄目だこりゃ。本名、ちょっと声かけてやってくんない?」
「私が?」
「それが一番効くだろうし」
「そう? じゃあ……市萱さん」
その声に、市萱は顔を上げる。
「――ほほ、本名さん!? どどどうしてここに!?」
「えっと、ご飯食べるためにだけど……」
「何回会ってんだよお前。いい加減慣れろよ」
とつっこむ八総。
「なな、慣れなんてそんな、ありえませんよ! というか八総さんがおかしいんです!」
「ははは。とりあえずカレー食べません? せっかくおいしいのに冷めちゃうんで」
と笑って言う本名。
「あ! そ、そうでしたね!」
と慌ててカレーにがっつく市萱。先程は黙りこくって自分の世界に入っていたのに、今度はひたすら食べ続けるという両極端っぷりである。
「ほんと極端だな……でもちゃんと食ってるし元気出たみたいだからいいか。あんがとな本名」
「別に私は何もしてないよ。市萱さんにもがんばってもらいたいし、少しでも調子戻すのに役立てたなら良かったから」
「ほんとな。てか本名ってさ、なんでそこまで俺らのこと応援してんの?」
「え?」
「いや、別の科なのは当然だけど、まあ色んな意味で普通科とは全然別の人種みたいなもんじゃん。できないと思ってるわけでもねえだろうし、成功とかの経験も豊富だろうし。俺らに肩入れっつうか、共感する理由とかわかんねえからさ。そりゃ嬉しいしありがたいけど」
「……そんなことないよ。私も色々、みんなと同じだから……それにね、ほら、私もそういう物語のほうが好きだし」
「そういう物語?」
「下剋上とかジャイアントキリングとか、努力友情勝利! みたいなの」
「ああ、だよなやっぱ。バリバリエリートのスポーツ科が勝つよりは断然こっちの方が面白いよな。つってもそのスポーツ科のバリバリ強豪の野球部に入ろうとしてた俺が言っても説得力ないけど」
「そんなことないよ。それはそれだし、八総くんも挑戦するために入ったんだろうから。挑戦はなんだって面白い物語になるはずだし」
「それはそうなんだよな。強い弱い関わらずさ。まーでもさ、思うんだけど自分の科とかは応援しなくていいの? 本名はそっちでも結構有名人なんじゃね?」
「どうだろうね。それはわかんないけど、私も自分の科の代表がどうなってるのかとかもわからないし。出るのかどうかもさ。仕事で遅刻早退とかもあったりするから、まだあんまり馴染めてなくて」
本名はそう言って少しうつむく。
「それでこっち来てる部分もあんのか。ま―難しそうだもんなそっちも。同級生つったってみんな仕事取り合うライバルみたいなもんだろうし。野球なんかはポジション争いレギュラー争いあるのが当然だけどさ、それも全部同じチームの勝利のためってやってるわけだからな。そっちだと他者を蹴落としてでもとかあんの? 大丈夫?」
「大丈夫だよ私は全然。でも、中にはそういう子もいるかもね……ほんとに競争だし、だから殺伐としてて」
「じゃあ新入生のくせにもう大物の本名なんかはすげえ目の敵にされてそうだな」
「それはまあ、そういうものだし、そうだってわかって入ってるからね」
「そういうのあっと科の団結とかも弱そうだな。確かに自分とこがそんなんだとあんま応援する気にはならないか」
「そういうのもあるけど、でも一番は本当に、みんなの姿と言葉に感動したってだけだから」
本名はそう言ってまっすぐに八総を見る、その眼差しの強さはまさにプロのそれであり、眼鏡越しでも衰えることはなかった。
「そこまで言われたらほんと俺らも勝たねえとな。本名は本番見にくんの?」
「行きたいとは思ってるけど、でもスケジュール的にギリギリでどうなるかはわからないかな」
「なら無理せず来れたら来れたでだな。本名はもう俺らの仲間だし、今んとこ唯一の明確な応援団だしさ」
「そう言ってもらえると嬉しいかな。行けたら絶対目一杯応援するから。他の科に負けないくらいに」
「そりゃありがたいけど、そんなことしてると芸能科の方で孤立しねえか? 大丈夫?」
「まあ、今更だしね。それに対抗戦への本気度でいえば芸能科なんて一番下の方だろうし。個々が自分の活動で精一杯だからさ。普通科応援してどうこうってことはないと思うよ。それにほら、私普段はこれであんまり目立たないし、もちろん応援はするけどそこまで表立ってするわけでもないし」
「そう? 本名がそういうならいいけどさ、でも環境が環境だろうし一人もなかなかきついだろ。なんかあったら俺らに言ってくれよ。いざとなったら普通科に転入すりゃいいし」
「あー、うん。でもそれはちょっと難しいかな」
「なんかあんの?」
「うん。まあ、一番は出席日数とかの関係だけどさ。芸能科は当然芸能活動を支援してくれてるからそのへんも色々融通効くし、サポートも手厚いし。でも一番は学費かな。私は学費免除、むしろお金貰って入ってるし」
「マジ? 芸能科ってそこまであんのか。すげえな」
「うん。広告塔って感じだけどね。だから他の科にってのはちょっとね。学校の集客効果もあるし、実績の強調としてもね」
「はー、ほんと色々大変だな……なんかほんと改めて自分らがやってることなんかただのお遊びな気がしてくるわ」
「そんなことないよ。別に金銭が発生するかしないかくらいしか違いなんてないし。仕事かどうかなんてそれくらいの差で、みんながやってることはそれと関係なく意義があるし影響もあると思うから」
「だといいんだけどな。というかどうよ市萱。調子戻ってきたか?」
「はいふ!」
と市萱は答えながら、喉をつまらせどんどんと胸を叩く。
「がっつきすぎだろ……水の飲めよ水」
「あふ、はい……ありがとうございまふ……」
市萱は水を一気に飲み干し一息つく。
「で、どうしたんだよ。どうせ緊張して一杯一杯になってたんだろうけど」
「ど、どうせって……」
「話は聞いてたし見ればわかるからな。にしてもまだ前日だぞ。緊張するにしても早すぎるだろ」
「い、いえ、本番が明日と考えたらどんどん……すごい、人にも見られますし、話されてるのも聞きますし……。し、しかも『応援してるからがんばって』とか言われたらもう! ほんとにやるんだって、今更怖くなってきて……!」
「確かに今更だな。でも今で良かったかもな。本番直前にこんなんなってたら対処できねえし。せっかくみんなもいるから今のうちになんとかしてやるよ。時間もあるしさ」
「あ、ありがとうございます……でもなんとかって?」
「緊張したときの対処法?」
「ど、どうすればいいんでしょうか!」
「……手に人と書いて飲むとか?」
「……八総さん自分でそれやったことあるんですか?」
「ないな。俺緊張したこととかないし」
「……使えなさすぎますよ」
「使えないって、しょうがねえだろ。みんなはどうよ。緊張とかする?」
八総の質問に、一同は首を横に振ったり「いや」などと否定する。
「ダメだこいつら。ここにいんの普通科なのに普通じゃねえやつばっかだから使えねえ」
「八総さんがそれ言いますか……」
「つったってなあ。ドキドキってワクワクじゃん? アドレナリンドバドバでぜってーぶっ倒してやるぜみたいな」
「戦闘民族なんですか?」
「スポーツやってるとそうなりがちだろ。俺の場合ピッチャーだったけど責任とか一切関係なかったからな。チームのこととかなんも考えてなかったし。自分のことだけ。結局打たれなけりゃ点取られなけりゃ負けねえわけだし」
「それはもう八総さんが人でなしなだけですよ……」
「言ってくれんじゃねえか。でも実際そんくらいでいいんだよ心持ちなんか。結局自分のやることやるだけなんだからさ。本名とかどうよ。それいったら一番緊張とかしそうな立場っていうか、そういう競技みたいなことやってるわけだけど。俺らなんか失敗して負けたって別にただの負けだけど、本名は何人ものお客さんに直接見せててしかもお金もらってるわけじゃん。どうしてんの?」
「私の場合は、もちろん緊張とかもするけど基本的にはスイッチ切り替えるし自動的に入る部分あるかな」
「スイッチ?」
「うん。まあモードっていうか。普段は、私がこうなのはみんなもうわかってると思うけど、この普段の状態からステージ上、仕事のモードにスイッチ切り替わるんだ。ルーティンで意図的に切り替える部分もあるけど。だから私は緊張もするけど、でもスイッチ切り替わったあとの私は別の人間だから緊張してないっていうか。そのスイッチを条件づけしたルーティンで切り替える感じで」
「そういうな。けどルーティンだと今からやってる時間ねえわな。俺も一応やってたけど、ピッチャーなんて同じ動きの繰り返しだし再現性が最重要だからなあ。条件づけとかじゃなくていつもやってることが自然にルーティンになってる感じだったし」
「あとはやっぱり呼吸かな。マインドフルネスとか。ボックス呼吸もそうだろうけど」
「ボックス呼吸って?」
「4秒吸って、4秒止めて、4秒吐いて、4秒止める。これで一周。四角いボックス一周するイメージで呼吸するの。自律神経の何かでリラックスできる、とかだったかな。アメリカの軍隊とかでも射撃の時に落ち着くためにやってる方法みたいだよ」
「信憑性すご。つかやっぱ知識すごいな。市萱やってみたら?」
「はい! 4秒吸う、4秒止める、4秒吐く、4秒止めるの繰り返しですね!?」
そう言いスー、ハーと呼吸を始める市萱。
「マインドフルネスってのもよく聞くけどそっちはどんなん?」
「基本は一緒だよ。呼吸に集中するから。だからボックス呼吸でいいと思うけど、呼吸に集中してると思考って止まるよね。緊張とかもそうだけどやっぱり考え過ぎ、頭の中でぐるぐる言葉が回ってるって状態だから、そういう頭の中の言葉とか思考を止めるために呼吸だけに集中するって方法」
「なるほど。体動かしてるとなんも考えなくなるのと近いか。どうだよ市萱。頭の中空っぽになってきた?」
と八総が尋ねるが、市萱は相変わらずスーハー息をして答えない。
「聞こえてねえじゃん……効果出てそうだけどこれでいいのか? あまりにも極端過ぎるだろ」
「うーん、集中できてるならいいけど……でも本番前ならともかく今やってもあんまり」
「だよな。おい市萱、一旦呼吸やめて戻ってこーい」
と揺さぶる八総。
「呼吸やめたら死んじゃいますよ!」
「そうじゃねえよ。ボックス呼吸だ。とりあえず普通に呼吸してさ。それでどうだった?」
「はい! 我を忘れられました! でも止めるとまた色々考え戻ってきて怖いし不安になってきちゃうんで……」
「緊張以前にそもそもその原因の不安とかをなんとかしねえといけねえのか……」
「はい……ほんと、失敗とか考えると怖いですし、絶対失敗するって、無理だってどんどん自信もなくなっていって……たくさん練習してきたのもそこではできたのもわかるんですけど、でも想像するとダメなことばっかり頭に浮かんで……」
「そういうのか。難しいな……なんでそんななんだよ。あんだけ練習してきてよ、できるってのはもうわかってるじゃねえか。お前が失敗するなんて俺らは誰も思ってないぞ」
「……八総さんたちには、多分わからないと思います」
「なんでだよ」
「私だけじゃないですか、今まで全然勝ったこととかないの。成功とか、そもそも戦ったりしたことも全然なくて」
市萱はそう言ってうつむく。
「八総さんのことも、少しだけ聞きましたけど……すごいピッチャーで、世界大会にも出たことあるとかで……ケガをして、できなくなって、それは本当に残念なことだと思いますけど、でも八総さんは昔からずっと勝ってきた人で、成功してきた人で……だからそんな、自信もあって。でも私は違うんです。みなさんみたいに、勝利の経験とか成功の経験とかがたくさんあれば、別のことだって自信を持って、できるって信じられると思うんですよ。
でも私は、信じられないんです。だって過去に、記憶の中に、成功の思い出なんて一つもなくて……失敗ばっかりで、全然ダメな記憶ばっかりで……それが私で、それしか知らなくて、それがこの十数年でいっぱい溜まってて……
だからそういうのしか、悪いことしかイメージできないんです……どれだけがんばっても、練習しても、ちゃんとできても、たった二週間程度のそれじゃ、これまでを上書きできなくて……だから、こうなっちゃいますし、みなさんには、絶対わからないことですし……」
そう語る市萱の話を黙って聞いていた八総が、口を開く。
「市萱はさ、こんなちゃんと走るの初めてなんだろ?」
「はい? そう、ですけど……」
「それはさ、たまたま初めてが今だったってだけなんだと思うんだよ」
「……どういうことでしょうか?」
「俺もさ、野球の、ピッチャーの初めてはあったわけじゃん。その時は初めてなんだからそりゃ全然下手くそだったよ。自信だって別にねえし。でも自信がないとか、できないとか不安とかはなかったけどさ、でもそれは単に子供だったってだけの話で。なんもわかってなくてさ。それに野球が好きだったし、楽しいって感情しかなかったしな。
とにかくさ、誰にでも最初はあって、最初なんだから当然勝利の経験も成功体験もあるわけないじゃん。だからそういうもんに裏打ちされた自信なんかもあるわけなくてさ。それが当然で。
でさ、お前は俺から比べりゃ8年近く遅れて今その初めてがやってきたってだけの話なんだと思うんだよ。だからまあ、別種目とはいえ勝負の経験が豊富な俺らと比べりゃ心持ちが違うのは当然でさ。だから俺たちみたいなそういう成功体験からくる自信みたいなのとか、ないのが普通だし当然だし、それでいいと思うんだよな。
でもさ、お前の場合子供の俺なんかとは違って、全然できるわけじゃん。確かに勝負の経験とかはないかもしれないけど、でも野球始めたばっかのガキの頃の俺なんかと比べたらさ、めちゃくちゃできるとこからスタートしてるわけじゃん。速いんだよお前は。できないとこからのスタートじゃなくて、めちゃくちゃできるとこからのスタートなんだよ。
だからまあ、これはあくまで初めてのスタートで、あくまでこれからずっと続いてくもんのスタートなわけでさ。成功体験とか勝利の経験とか、自信とか、それ全部これからのお前の人生の話なんじゃねえかな。これから経験して身につけるっていう。過去の話じゃなくて未来の話で。ちょっと始めるのが遅かったってだけで、俺たちが経験してきたことをこれから経験するって、それだけの話なんだと思うぞ。
ま、人間は基本知ってることしか想像できないからな。自分が経験してきた過去と同じようなことばっかイメージしちまうのは仕方ないだろ。染み付いちまったもんだし。だからもうがんばってさ、そういうイメージしか出てこない時もがんばって練習のできたことだけ思い出して。あとはまあ、未来のことだけ想像しようぜ。失敗じゃなくて成功のことだけど、それも難しいっつうなら俺らのこと、みんなのこと考えて見ろよ。走るそれそのものだけじゃなくて、勝ってみんなで喜んでるところとか。もしかしたらそういうほうがイメージしやすいかもしれないし」
「……確かに、八総さんの言う通りかもしれません……わ、私は、今までずっと怖くて、少しの失敗の記憶ばかりに縛られて、ずっと挑戦すらせずに逃げてきて……だから成功の経験なんかないのも当然で……
で、でもようやく、遅いですけど、今始めたんですもんね! 今始めたばかりなんですもんね! 今から、がんばって、積み重ねていけばいいだけですもんね!」
そう言って両手の拳を握る市萱。そんな彼女に埓木崎が微笑みかける。
「ええ、その通りよ。人生はいつからでも始められるし、始めるに遅いなんてことはないわ。誰だって、いつからでも、どこからでも初めていいのよ。やり直すことだって、取り戻すことだって、始めることだって、なんだってできるわ」
「そ、そうですよね……やっぱり、怖いのも不安なのも消えないとは思いますけど、で、でも、私の初めては、みなさんがいるから、一人じゃないから……それを考えると大丈夫な気がしてきますし、それに、みんなで勝って、喜んでるっていうのは、確かに自分が上手く走れてる姿よりずっとイメージしやすいですし……
それにやっぱり、私もそういう未来に、したいです……!」
そう、しっかり顔を上げて宣言する市萱に、八総はニッと笑って答える。
「ああ。んじゃひたすらそれだけ頭の中にイメージしねえとな」
「はい! そうと決まれば今日の練習もがんばります!」
市萱は両手で拳を握り鼻息を荒くする。が、
「やる気のところ申し訳ないけれど、今日の練習は軽めの調整だけにする予定よ」
と埓木崎が言う。
「ええ!? そ、そうなんですか?」
「ええ。本番は明日だからね。連日の練習で疲れも溜まってるでしょうし、コンディショニングにあてないとね。動かないのもダメだから軽く動いて、少しだけフォームやバトンパスの確認をして、早めに切り上げてしっかり休みましょう」
「そ、それは確かにその通りですけど……」
「大丈夫ですよ市萱さん」
と本名が声をかける。
「市萱さんはこれまでたくさん練習してきたんですから。一日くらい休んだって絶対もう大丈夫ですって」
「そそ、そうでしょうか……」
「そうですよ。私は直接練習見てはいないですけど、動画とかで見てますし、そういうふうに客観的に見ててもこの短期間でほんとにみなさん上達されてましたから」
「ほ、本名さんがそう言うのなら、そうだと思います!」
「はは、うん。みんな市萱さんができるのも、すごく練習してきたのもわかってるので、だから大丈夫です。私も応援してますから、がんばってください」
「は、はい! ――そ、その! お、応援ついでではありませんけど! すごくおこがましいのはわかっていますが! そその、ひ、一つお願いしてもいいでしょうか!?」
「私にできることなら」
「そ、その! ――ほほ、星乃って呼んでもらっても、いいいいでしょうか……?」
「――はい。星乃さん、がんばってね」
本名はそう言い「ガンバ」といった具合に両手をグッと握り励ます。
「はははい! がががんばります!」
「何よりも効いたなこれが……」
「はは。でもこういう時が一番アイドルやっててよかったって思えるから、私もすごくありがたいかな」
と本名は八総に返す。
「お互い励ましあってるってことか。そりゃいいな」
「うん。頑張るとか応援するっていうのは、どれもそういうものかもしれないよね。みんながしてることなんてまさしくそうだし」
「そうだな……なんか変わんのかね、実際」
「それはやってみないとわからないわよ」
と埓木崎が答える。
「それにたとえ何一つ変わらなかったとしても、別にそれで終わりじゃないわ。これはまだ始まりに過ぎないのよ。世界を変えるまで何度だって挑戦すればいいだけよ。それに知ってる? 私達の高校生活が始まってまだ二週間程度しかたってないという事実」
「そういやそうか。濃い二週間だったな……ま、これがこの先もずっと続いてくわけだからな。相当濃い三年間過ごせそうだぜ」
八総はそう言い、明日の本番、その後も続いていく戦いの高校三年間を思いニッと笑うのであった。




