9 私でなければできないこと
午後、授業中。窓の外を眺めながら市萱は考えていた。八総の言葉。代表対抗戦への誘い。
絶対に無理だ、そう思う。自分なんかが。それは長年自分自身にかけ続けてきた呪い。自分には何もできない。自分なんかには無理。目立ちたくないからなにもしないし、何もできないから目立ちたくない。だって、何をしたって失敗するから。自分にできることなんて何もないから。自分にはなんの取り柄もなく、ただ図体がでかいだけの人間でしかないから。
脚が速いことは、多少自覚はあった。他の人を見ればわかる。みんな自分より明らかに遅い。けれども、そこで全力を出しては目立ってしまう。市萱のくせに生意気だ、脚が速くたってなんの意味もない、なんの役にも立たないと。別に誰かに直接言われたわけではない。全部自分の想像。けれども時には自分の中の声こそが、何よりも大きく「真実」となる。
そうだ、脚が速くたってなんの意味もない。なんの役にも立たない。「おつかい」の役には立つけど、でもそれは別にしたくてしてることじゃないし、できればしたくないし、でも断るのも怖いし……
走るのは、楽しい。少しだけ自由になれる。「おつかい」という自分の望みからは程遠く制限された時間の中であっても、その一瞬だけは少しだけ自分から自由になれた。そして何より、そういう「言い訳」があれば、全力で走れた。もちろん、そんな走りには意味がなかったし、そんな走りは楽しくなかったし、そんな自分を、好きになることなどできなかったのだが。
八総の言葉。誰かのために走る。走ってる自分を好きになる。楽しんで走る。面白いことを。面白い方を。何が、どっちが面白いか。
希望を与える。夢を与える。できるって、みんなに伝える。自分なんかがそんなこと、できるのだろうか。自分の走りに、そんな力はあるのだろうか。全部やる前から無理だ無理だと決めつけて、逃げている自分なんかに。
やっぱり無理だ。絶対無理。わたしにはそんなこと、絶対できない。
けれども、もし本当に、そんなことができたとしたら……それはきっと、ものすごく……
*
「よう。準備できてっか?」
放課後、市萱の席に八総がやってきた。
「は、はい! 一応は!」
「そっか。んじゃ行くか」
八総はそう言い、昼に見た「パシリ」の女子生徒たちの方にちらりとだけ視線をやり、廊下に出る。
「――別の話だけどよ」
「はい?」
「例のパシリの件。お前がどうするにせよ、断ったほうがいいぞ。もしあれなら俺が釘刺しとくし、いざとなったら埓木崎もいるしな」
「は、はい……あ、あの、今はどこに向かってるんでしょうか?」
「総合支援委員会の部室だよ。埓木崎が先に行って待ってることになってるからな」
「そ、そうですか……あの、その『総合支援委員会』? というのは代表対抗戦とは別の何かですか……?」
「あー、まあ厳密にはな。なんていうかさ、俺も正直そこまで詳しくわかってるわけじゃないから埓木崎に直接聞いたほうがいいと思うけど、生徒とかの色んな相談に乗って支援するみたいだよ。例えば勉強して大学に行きたいとかいうやつには無料の補習授業とか提供したりさ。部活とかもそうだし、とにかくみんなの夢のため目標のため、その支援を、って感じみたいだな」
「そ、そんな聖人君子のようなことを……」
「確かにそうかもな。でもそれが面白いからってやってるだけだけどよ。まあ聖人君子でもなんでもねえよあいつは。俺らと変わらねえ普通の人間で。ただそれをする力をたまたま持ってる、もらってるってだけでな」
「そ、そうですか……」
埓木崎さん、どんな人なんだろう……と市萱は思う。埓木崎について語る八総の顔は、どこか楽しげであった。誇らしさすら感じる。まるで昔からの戦友であるかのように。
市萱が埓木崎について知っていることは少ない。ネットで多少調べはしたが、その姿を見たのは、声を言葉を聞いたのはあの入学式が最初で最後だ。けれども、あの一瞬であっても、その姿はとても輝いて見えた。オーラがすごい、それもある。姿勢の良さ、端正な顔立ち、気品ある微笑み、自信に満ちた表情。
けれどもなにより、その言葉。そこで語られた、あの力強く希望に溢れた言葉の数々。思わす引き込まれた。強烈な憧れを抱いた。すごい、なんて素敵な人だろう。自分も、あんなふうになれたら……
それは幻想。大いなる妄想。現実からは程遠い。ありえない。絶対不可能な壁。次元の異なる領域。自分とは、絶対に異なる世界に存在する人。
けれどもその「幻想」に、今から会える。直接、至近距離で。
ふと思う。ほんとに? どうして、こんなことに?
その答えは、自身で出す他なかった。
*
その人は。窓の外から射す陽を後光のように背負って座っていた。一目でわかる。神々しさ感じる気品。気高さ。そして溢れる自信。
「はじめまして。埓木崎世界よ」
「――は、は、はじめまして! わわ、わたくし市萱星乃ともも申します!」
市萱はそう言い、あの赤べこヘドバン頭ペコペコ。
「ええ、存じているわ。早速だけど楽にしてちょうだい。飲み物は何がいいかしら。祈、悪いけど頼める?」
「そそそんな飲み物なんて全然! お構いなく! 全然自分の水筒がありますんで!」
「そう? 欲しくなったら遠慮なく言ってね。私がやるわけでもないのに偉そうだけど。それじゃ早速だけど、おおかたの話はすでに八総君から聞いてるかしら?」
「えっと、はい、一応は……その、代表対抗戦、リレーのことですけど……」
「そうね。市萱さんとても脚が速いんですって?」
「それは、その……た、多分ですけど……す、すみません、自分ではタイムとか、全然わからなくて……」
「いいわよ。あなたが謝ることではないわ。八総君が絶賛していたからね。彼が追いつけなかったということであれば間違いないでしょう。彼の目を、言葉を、何より体験を信じているから。だから市萱さん、是非普通科の代表として対抗戦混合リレーに出てくれない?」
「……あ、あの……それは、えっと……」
市萱はそう言い、シュンとする。
「――ごめんなさい、やっぱり無理です……あ、脚は、本当に速いのかもしれませんし、それにそこは、別に自信がないとかではないんですけど……で、でもその、やっぱり怖くて……た、ただ走るだけならともかく、リレーで、バトンパスがあって、勝ち負けがあって、真剣で、チームの勝利がかかってて、仲間がいて……そういう、責任とか、プレッシャーとか、私ほんとに無理で、怖くて……ぜ、絶対失敗しますし、だからその、折角誘っていただいたのに申し訳ないですけど……」
「そう……わかったわ。市萱さん、やはりあなたじゃないとダメね。あなたが絶対、走らないと」
「はい? えっと、その……な、何故でしょうか……? 私はその、言った通り全然ダメで、自信なくて、ほんとにすぐ緊張しますし、テンパってミスしますし、絶対その、私より適任がいると思いますけど……」
「だからこそよ。あなたの言葉が、すべての理由」
埓木崎はそう言い、確信に満ちた微笑みで市萱を見る。
「どど、どういうことでしょうか……?」
「入学式でも少し話したけれどね、この代表対抗戦もそうだけれども、私の、私達の目的は『できない』を『できる』にすることなの。普通科のみんなの、自分には無理だ、自分にできるわけがない、勝てるわけがない、していいわけがない。そういう思いをすべて、自分にもできるのだと、していいのだと。自分にもできるし、自分たちでも勝てるのだと、そう信じてもらえるようにすることなの。
意識を変えたいのよ。明確なメッセージを発したいの。伝えたいの、そういう希望に溢れた物語を。見せたいの。じゃないと何も変えられないから。
市萱さん、あなたはある意味でその象徴のような存在よ。自分には無理だと、出来ないと思いこんでいる。でも、そんなことはないの。あなたは、できる。できるし、勝てる。勝てるし、当然やっていい。全力を尽くしていいし、楽しんでいい。夢を、理想を語っていいし、それらを生きてもいい。
できるのよ、すべて。あなたは、あなたが望む人生を生きられる。自分の人生を、自分のものにすることができる。誰もがそう、信じられるようにしたい。
だから市萱さん、あなたは走って。あなた自身のため。そして何より、あなたのように自分には無理だと、自分には出来ないと思いこんでいるすべての人達のために。できるのだと、勝てるのだと、あなたの走りで、見せてあげて。それは絶対に、あなたにしかできないことだから」
「私にしか、できないこと……わわ、私になんか、本当にできるのでしょうか……?」
「できるわ。あなたにはできる。そして他の誰でもなく、あなたにしかできないことよ」
「……で、でも、もし失敗したら……」
「一度の失敗くらい誰にでもあることよ。それは別に世界の終わりじゃないし、死ぬまで続く負けでもない。人生は続くの。終わったりはしない。その人生の中で、新たな勝利を手にすればいいだけ。成功を。
それにね、失敗するのはみんな同じよ。あなた以外の誰かが何かをミスして負けるかもしれない。でも勝負とは、人生とはそういうもの。そしてなるべくそうならないようにたくさん練習するの。自信を持てるよう、できるようになるために、練習するのよ。たった二週間でも、本気で正しくやれば、そこに近づけるわ」
「――わ、わかりました! わ、私、とりあえず、試しにですけどやってみます!」
市萱は顔を上げ、そう言う。
「で、ですけど! その、やっぱり自信はないですし、やっぱりどれだけ練習してもできない可能性もありますし、そうなるとやっぱりみなさんに迷惑をかけてしまうので、ほほ補欠といいますか! 控えの人、交換要員だけは、わわ私の安心のためにも、何卒よろしくお願いします!」
市萱はそう言い、深々と頭を下げた。
「もちろん。市萱さんのためにもチームのためにも、補欠は用意するつもりよ。何があるかはわからないしね。けれども私は、ケガでもない限りはあなたを諦めるつもりはないわよ」
埓木崎はそう言い、立ち上がって手を差し出す。
「じゃあ、よろしくね市萱さん。一緒に戦い、勝ちましょう」
「は、はい! こここちらこそ! 不束者ですがどうかよろしくお願いします!」
市萱はそう言い、埓木崎の両手を取るとブンブンと振り、何度も深く頭を下げるのであった。
「ええ、こちらこそ。さて、これでようやく本当に始動できるわね」
埓木崎はそう言い、八総を見る。
「女子もう一人も決まったのか?」
「ええ。それははじめから決まってるわ。私よ」
埓木崎はそう答え、自らの胸に手を添える。
「お前? そんな脚速かったんだ」
「そうでもないわよ。遅くはないしどちらかといえば速いけれど、とはいえ速い中では速くないはね。でもこればかりは、やはり私が出ないといけないと思うから」
「あー、まあやっぱ言い出しっぺだからか?」
「そんな感じね。私自身が出て見せなければ口で言ってるだけになってしまうから。もちろん私が自分で出て結果として勝てたとしても私を『自分自身』として共感してもらうのは難しいだろうけど、それでも口だけと思われるよりはよっぽど心を動かせるはずだからね。最初にきちんと、みなの心を掴んで置かないと」
「確かにな……勝利は当然重要だけど、目的考えりゃそっちも外せねえか」
「ええ、そうよ。安心して。これが決まってから、決まる以前の計画段階からこれに備えて練習してきたから。ベストタイムは日々更新してるしバトンパスだってもしかすると宮古くんよりうまいかもしれないわよ」
「はっ、ほんとすげえな。やる気もそうだし計画的すぎて。ま、それなら安心だな。むしろ現状じゃ俺が一番の足手まといか。マジで練習して頑張らねえと」
「かもね。それじゃ、やるわよみんな。日新学園、学園都市対抗戦。万年最下位落ちこぼれ普通科の逆襲のその一歩目を、見せてやりましょう。まずは私たちが始めるのよ。いずれみんなが、ついてくるから」
埓木崎はそう言い、拳を突き出す。
「ああ」
「ええ」
「はいっ!」
八総、喜庵、市萱もその拳に、各々の拳を合わせるのであった。
「――ていうかこれ宮古いる時にやったほうがよくね?」
「……そうね。ま、明日から本格的に練習も開始するから、その時にまた改めてやりましょうか!」
埓木崎はそう言い、どこか気恥ずかしそうに大げさに笑ってみせるのであった。




