コロナの時代の愛
とある老人病院の個室で老婆がベッドに臥床していた。髪は総白髪で身体は痩せこけているが、表情は凪いだ海のように穏やかで、テレビをぼーっと見ていた。時刻は深夜1時を過ぎ、外の廊下はとっくに消灯している。ベッドサイドのネームプレートに福田富子と書かれている。
富子「なんか最近どこも同じニュースばかりでつまんないわー。目が悪いせいで音しかわかんないし。もう寝ようかしらーって、あら、コンコンってどなた?看護師さんならさっき見回りに来たばかりだけど…いつもトイレと間違えて入ってくる隣りの佐々木さんかしら?」
あおい「(小声で)お母さん、私よ、あおいよ!」
富子「あら、どなただったかしら?最近目が悪くって近づかないとあまりよくわからないのよ。オレオレ詐偽ってやつかしら?」
あおい「お母さん、本当にボケちゃったの!?私よ、娘のあおいよ!」
富子「あら、思い出したわ。ごめんなさいね、眠いと頭がボーッとしちゃって……ちょっと眠気ざましに向かいの田中さんがいつも先生にやってもらってる、頭に電気を流すやつをやってもらおうかしら?」
あおい「それは眠気ざましにやるもんじゃないわ!」
富子「そう?じゃあロボトミーの方がいいかしら?」
あおい「それはもっとダメなやつよ!」
富子「あら残念。でもあなた、一体どうやって入って来たの?今、コロナとかのせいで病院中面会禁止だって先生に言われたけど……」
あおい「こっそり職員用入り口から入ってきたのよ!本当に大変だった!」
富子「そうかい、そりゃご苦労だったわね。で、用は何?マスクでも買ってきてくれたの?」
あおい「今時そんなのどこも売ってないわよ!悪いけど代わりにオムツでも被っててよ!」
富子「あんたそれじゃ変態仮面になっちまうよ。フォオオオオオ!」
あおい「あれはパンティよ!とにかく大変なのよ!お母さんもニュースで見たでしょう?この病院でクラスターが発生したのよ!」
富子「あたしはクラスターはもう何十年も行ってないけどねえ……同級生のよし子ちゃんは元気かしら?」
あおい「そりゃクラスターじゃなくてクラス会よ!ウイルス感染した集団が発生したのよ!ここのバカ医者がどこぞのクラブに行ってビール飲んで女の子と騒いで貰ってきてばらまいちゃったのよ!」
富子「コロナビールを飲んだのかい?」
あおい「多分違うわよ!今、職員も患者も数十人単位で陽性だそうよ!」
富子「あらあら、そんな暗い話はよーせー」
あおい「しまいにゃ怒るわよ!もういっぱいここで人が亡くなっているのよ!それも毎日毎日!老人は肺炎になると危ないんだから!あの噂の人工肺装置をつけなきゃいけなくなるわよ!」
富子「えーっと、あばたもえくぼってやつだっけ?」
あおい「えくぼじゃなくてECMOよ!とにかくここから転院させてくださいって先生に頼んでも、ここまで院内感染が広がると、どこも引き受けてくれないって言われたし、退院しようにも今の症状じゃ難しいでしょうって言われるし、ゾーニングがしっかりしてるから大丈夫だって言われても、どんどん広がる様を見ると何も信用できないのよ!お母さん、後生だから私と一緒にこんな地獄みたいな所から逃げ出しましょう!」
富子「逃げたってあんた、どうせ追っ手が来るわよ。殺すの?」
あおい「時代劇の抜け忍じゃないんだから殺さないわよ!騒ぎが収まるまで、私とどこかに身を隠しましょう!」
富子「ランデブーか……それもいいわねえ。北の地の果てまで行こうかしら?」
あおい「そんな遠くまで行けないから近場にして!とにかく看護師が来る前にとっととずらかるわよ!私の後についてきて!」
富子「でも明日の朝ご飯はあたしの大好きなトカゲの黒焼きなのよ。だから明後日にしない?」
あおい「すげえもんが出るわね!でもそんなに待ってたら、こっちが死んで黒焼きになっちゃうわよ!早く用意して!」
富子「最近あまり歩いてないから面倒くさいわねえ。まったく、どこ◯もドアがあればいいのに」
あおい「私はド◯えもんじゃないわよ!」
富子「あら、あんた子供の頃は大きくなったらド◯えもんになりたいってあれほど言ってたくせに。でもあたしは、ポケットに直接コンニャク突っ込むようなロボットに憧れるのはちょっと感心しないねえ」
あおい「確かにそれは嫌だけど!いいから早くして!夜が明けちゃうわよ!」
富子「はいはい、とりあえずマスクだけでもつけていくわ」
あおい「それはマスクじゃなくて紙オムツよ!」
富子「あらごめんなさい、最近勘違いが多くて。あ、やっとマスクがあったわ」
あおい「行くわよ!」
富子、深夜の町中をひたすら歩く。辺りは古い家が立ち並んでいる。
富子「ちょっと待ってよ、あおい!そんなに前を歩かないでよ!よく見えないわよ!」
あおい「最近社会的距離って言って、感染防止の為に人と人の間をあけなきゃいけないのよ」
富子「ああ、ソーシャルダンスってやつだっけ?」
あおい「それは社交ダンスよ!」
富子「ごめんなさいね、シャルウイダンスだっけ?」
あおい「ダンスから離れなさい!ソーシャルディスタンスよ!」
富子「ややこしいわね。横文字って苦手なのよ。それで、どこまで行くの?」
あおい「もうちょっとよ、ほら、ここの中よ」
富子「ここって……お寺じゃないの?」
あおい「いいのよ、ほら、こっちこっち!」
富子「待ってよ。目が悪いんだし、声しか聞こえないわ……って、お墓?」
あおい「やーっと着いたわ。お母さんのすぐ前のそれよ!」
富子「これは……ド◯えもんの石像!?」
あおい「私のために特別にお父さんが作ってくれたド◯えもん型の墓石よ。思い出した、お母さん?」
富子「ああ……そうだった……私は子育て中にノイローゼになって、あんたを殺して自分を死ねという声に唆されて……」
あおい「そうよ。それで私を絞め殺したけど、お母さんは自殺できなかった。発見したお父さんはお母さんを警察に連れて行き、そこで精神鑑定を受けて統合失調症と診断され、お陰で刑務所には行かずにすんだけど、今の病院に入院したのよ」
富子「そうか……あんたの声は、私の中から響いていたのね……ごめんなさいね……一回も墓参りに来てあげれなくって……線香もろうそくもないし……そうだ、あたしの持ってきたマスクをあんたにつけてあげるわ。これくらいしかなくって、ごめんね……」
あおい「いいわよ、お母さん。来てくれただけで十分嬉しいわ」
富子「そんなこと言わずに受け取って……!」
あおい「無理よ、お母さん。だって……ド◯えもんには耳がないのよ!」
富子「ぎゃふん!」
完