第六話 顔が見えたらもっといいのに
約束の時間を前にして、パソコン前で深く深く息を吐く。
別にビデオ通話するわけでもないのにバッチリ化粧までしてしまった。
でも、それくらいしないと春陽ちゃんと向き合えない気がした。
「……よし」
時間を確認して、通話していいかとメッセージを送る。
返事が来るまでの数秒が絶望的なほどに長く感じた。
返信を書いている通知があるから、たしかに彼女が受け取って答えを返そうとしているのはわかるのに。
彼女が待った数ヶ月とは、比べられないほど短いのに。
『大丈夫です』
待たされた時間から考えれば、驚くほど短い返信だった。
その言葉をどれだけ悩んで選んだのだろう。
私と同じくらい緊張して選んだんだろうか。
それとも、もう気持ちを切り替えてしまっているんだろうか。
わからない。
わからないから、これから知りにいくんだ。
かちりと通話ボタンをクリックすれば、無機質なコール音が少しだけ響いて。
すぐにノイズ混じりの静寂が耳に飛び込んでくる。
「久しぶりだね」
「はい。お久しぶりです」
第一声はお互いに何もないようなものだった。
本当に、ただの知り合いが久しぶりに電話をしているような感じ。
でも、私たちはもうただの知り合いなんかじゃない。
「ごめんね、急に通話したいなんておねだりしちゃって。最近あんまり投稿してないみたいだし、勉強とか、大丈夫だった?」
「全然大丈夫です。きゃん……紺堂さんの頼みですし」
まだそう呼んでくれるのか。
「ありがと、春陽ちゃん」
それは、きちんと私と向き合ってくれるってことだから。
「でもほんとごめんね、忙しくなる時期なのに」
「そう、ですね……夏前なのでみんなピリピリしてます」
「春陽ちゃんは受験組?」
「推薦かな、と思ってます。その方が色々楽なので」
「あー、まあね。受験だと最後の最後まで気が抜けないからなあ」
よく、今の記憶を持ったまま過去に戻りたいなんて話があるけど、もし飛ぶなら大学受験は済ませたところに飛びたい。
特に冬休みからのラストスパートは思い出したくもないし、大学を梯子して試験を受けたのもいい思い出じゃない。
卒論と就活も同じくらい嫌だけど……。
「紺堂さんは受験組だったんですか?」
「うん。あんまり内申よくなかったから。ともかくどこか引っかかってくれーって最後まで頑張ったかな」
「へえ……推薦でスマートにいったほうかと思ってました」
「私そんなに頭良くないよ。頭も、性格も、あんまり良くない」
「そう、ですか?」
「そうだよ。怠け者で、いくじなしなの。人のことは冷やかせるけどね」
手が冷たい。いつ、どうやって話を振ろうか必死に頭を回転させているせいかな。
なんだかお腹まで痛くなってきそう。
「……なにか、あったりしたんですか? 通話のお誘いも急でしたし……その、学生の私で聞けるなら、聞きますけど」
ああ、優しい子だな。
ダメだな。私が頑張らないとなのに。
「ううん。何もなかったよ。何もできてなかったよ」
「……?」
ヘッドホンから聞こえる吐息で春陽ちゃんの困惑がわかる。
わけわかんないよね。ごめんね。
……頑張らないと、だよね。
「ねえ、春陽ちゃん。オフ会の日のこと、覚えてる?」
「忘れませんよ」
「よかった。今日はね、声じゃなくてあのことを聞きたかったの」
「……今更、ですか」
少しだけ声のトーンが落ちた気がした。
怒ってるのかな。当たり前だよね。
ずっと放っておいて、こんな忙しくなる前のタイミングでなんて、最低も最低だ。
だけどね。
「うん。ようやく踏ん切りがついたんだよ。ごめんね、ずっと待たせて。あなたの大好きな、ネット上でなら強く暴れられるきゃんしぃどと違って、私は弱虫だから」
小さい頃から、声で色々なことを言われてきた。
自分を構成する中で顔と同じくらい人に見せるものを笑われて、強くなんていられなかった。
こんな、機械を通したみたいな声じゃなければよかったのに。もっと低くて、人並みで、なんの変哲もない声ならよかったのに。
ううん、いっそ低い方に振り切れて、男の子みたいなら割り切れたのに。
……だけど、そんな声を好きだって言ってくれる人がいて。
声だけじゃなくて、私自身も可愛いって言ってくれる子がいた。
「ずっと考えてたの。なんで謝られたんだろうって。謝られながら好きって言われてもさ、よくわかんなくて。でもわかんなくてさ、友達に聞いたらそんなのどうでもいいじゃんって言われちゃった」
大事なのは、キスされた事実。
キスするくらいの感情がある、事実。
「春陽ちゃんは、私の事好き?」
「……好き、ですよ」
「それは、ラブ、でいいのかな。そういうことがしたいって事で、いいのかな」
ずるい言い方だよねって思う。
普通は隠すところまで曝け出してと訊かれたら、誰だって困ってしまう。
キスをするのは好きだから。
そんなの当たり前。
そして、好きならもっと先のことがしたくなる。
裸が見たくて、その肌に触れたくて。
重なりたくて、味わいたくて。
いやらしいことだって、したくなる。
でも、そんなことは直接は言えない。
それはとても恥ずかしいことだから。
そういうふうにみんなが言っていて、隠すのが当たり前だと思っているから。
「ごめんね、答えにくいよね」
だから春陽ちゃんが黙り込んでしまうのは当たり前のこと。
だから私は、ただ待つしかできない。
ーーねえ、あなたは私に触りたい?
「……いいん、ですか」
たっぷりの沈黙の後、波紋が広がるみたいな綺麗な声で春陽ちゃんはそう言った。
ひどく震えた声。泣くのをこらえて、必死で口を開けてるような声。
とても苦しそうなのに、聞き惚れてしまう声。
「好きでいて、いいんですか。まだ子供の私が、そう思ってもいいんですか」
「うん、いいよ」
「――ッ!」
堤の切れる音がした。ぐすりぐすりという涙声が私の耳を沈める。
「好き、好きです! あの日、初めて会った時から好きで、あんなに優しくされてどんどん好きになって。頭、変になりそうだった」
「ごめんね」
「怖かったですよ。何事もなかったみたいに返信されて。ああ、意識もされてないんだなって。きっと、蚊に刺されたみたいなもので、私なんか眼中外なんだなって。もしかしたら、恋人がいて迷惑してるだけなのかなって」
「うん」
「でも、いいんですね。私は、好きで、いいんですね!」
「うん。だけどね」
その好きは少しだけ待ってほしい。
「私はまだわかんないんだ。そういうことまで春陽ちゃんとしたいのか。それに……」
「わかってます。未成年ですから」
私たちの間には壁がある。
いくら真剣だと吠えたって、親が問題視すれば私は吊るされてしまう。
学生の間の恋はそういうもの。
「だから、もう少しだけ待ってくれるかな? たぶん答えはもうすぐ出ると思うの」
たぶんきっとあと一度でも会えば、答えを見つけてしまう。
だって、通話越しの彼女は音源だけの存在じゃないから。
「わかり、ました。じゃあ、私からも一つ、いいですか」
「ん、なあに。なんでも聞くよ」
たっぷり待たせてしまったから、その償いになんでも聞こう。
「今度、私イベントに出るんです。いぐさ名義ではなくて、私だけど私じゃないというか、ええと説明が難しいんですけど……」
「……もしかしてそれって」
麻央が妙な態度だったのを思い出す。それになぜか忙しいことを把握していたことも。
流れるコメントの中で笑う美少女たち。
その中の誰かが春陽ちゃんなんだ!
「だからあんなに頑張るって言ってたんだ! もうあの時声かかってたの?」
「はい……あの時はすごく不安だったんですけど、大丈夫って言ってもらえて今日まで走ってきました。それで光栄なことに、その中でも人気がある方になれまして。今度、対面式のイベントがあるんです。ネット中継もされるらしいので、完全な一対一ではないんですけど」
「へー……すごいじゃん!!」
知らない間に、この子は羽ばたいていたんだ。
「えへへ……えと、それをですね、見守りにきてほしいんです」
「列に並んだりしなくていい?」
「並んじゃったらダメです。恥ずかしくて何も話せなくなっちゃう」
それは困る。そんな姿をネット中に拡散されるなんて絶対嫌だ。
「じゃあ、遠くから見てるね。小さいから見えないかもだけど」
こういう時、もう少し身長があればなあと思う。
そんな私に春陽ちゃんはくすくすと笑った。
「実は私も当日どういうふうに見えるかはわかんないんです。だから、ただ来てくれるだけでいいんです。紺堂さんがいてくれるだけで、私は頑張れるので」
「わかった。……あ、参加チケットは自費で取るからね!」
「え、関係者チケット渡そうかなって思ってたんですけど」
「いいから! 課金させて!」
「……はい」
推しには払えるときに払うのだ。
それに、そうしてお金が集まれば春陽ちゃんの道はどんどん先まで続いていく。
「楽しみだな」
「その日まで、頑張りますね」
「あ、でもそういう活動してて勉強は本当に大丈夫なの?」
「前も言いましたけど、成績はいいので。それにスタッフさんにも受験控えてるのは伝えてあるので、今年後半は仕事控えるのもう告知してありますし」
「至れり尽くせり~……すごいなあ」
私も、その日が来るまでに答えを出しておかなきゃ。
「他にも色々あるんですよ? 例えば……」
そんなことを思いながら、春陽ちゃんが秘密にしていた活動の話を楽しく聞いていた。
◯
それから、少しして――。
開催されたイベントは大盛況だった。
私が知らないだけで春陽ちゃんがやっている子はとてつもなく人気で、抽選券の配布場所は長蛇の列。話せることに感激して泣き出す子までいた。
たぶん、春陽ちゃんの人気は、ぼいすみ~の頃も似たようなものだったんだと思う。
だけど、いざそれを現実として目の当たりにすると、私の中にこみ上げてくるものがあった。
それは推しが羽ばたく喜びと、不安。
『ま、若いからね。もしかしたら、すぐ他の人に行くかもしれないけど、そん時はそん時でしょ?』
麻央の言葉が脳裏を過ぎる。
春陽ちゃんは、いつまで私を好きでいてくれるんだろう。
これから彼女は、ふらふらと適当に過ごしているだけの私より、もっとすごい人にたくさん会う。
その中には私の上位互換みたいな人がたくさんいるはずだ。
そんな人たちを押し除けて、私を好きでいてもらって良いんだろうか?
不安に染まる私の前で、熱狂の声が上がる。
それは春陽ちゃんが属するグループのオーディションの知らせ。
――もしも受かったなら、その人たちを押し除ける自信がつくんだろうか?
春陽ちゃんの隣で、同じ風景を見られるんだろうか。
私の中で、何かの灯る音がした。