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「おーほほほほほ。これほど愉快なことは久しぶりだわ」
晴れやかに笑うのはビアンカだ。今日はルーカスの執務室にビアンカを招待していた。執務室に招待、ということで茶会とは違うような気もするのだが、急遽、場所が変更になっていた。
初めはいつものように日当たりの良いサロンに準備をしていたのだが、ビアンカとお茶会をすると知ったルーカスが無言の圧力をアンジェリカに掛けながら彼の執務室に変更した。ビアンカは突然の場所の変更とルーカスの苦虫を潰したような不機嫌な表情を見て、高らかに笑ったわけである。
「うるさいぞ」
「あらあら、嫉妬深い男は狭量で嫌われるわよ」
どこか嬉しそうにビアンカが口撃する。アンジェリカはちらりと横に座るルーカスを見てから、目の前のビアンカを見た。いつも溌溂として楽しげではあるが、今日はさらに嬉しさをまき散らしている。横に座るルーカスは次第に眉間のしわが深くなっていった。
「ビ、ビアンカ」
ルーカスが徐々にピリピリしてきたので、アンジェリカはやんわりと声を掛ける。ビアンカは目を細め、にんまりと猫のように笑った。
「こんな時でないと、この男を笑えないでしょう? いつだって澄ました顔をして難しいことをこなしていくんだから。可愛げがないわ」
「俺は国王だ。難しかろうが易しかろうがこなせなければならんだろうが」
ぐるぐると唸るようにルーカスが応じた。ビアンカはふふふんと鼻で笑う。
「ああ、お茶が美味しいわ」
薫り高い紅茶を飲みながら、呟いている。ルーカスを揶揄えているからこそ、いつも以上に美味しく感じているのだろう。
ルーカスは国王であるのだが、ビアンカは気にしていないようだ。今までずっと一歩引いた関係しか見てこなかったアンジェリカは目を白黒させた。
この男、とぞんざいに呼ばれたルーカスはきつくビアンカを睨み据えた。
「人払いを」
ルーカスの一言で、護衛のキーラン以外が静かに退出する。キーランが残ったのは孤児院にアンジェリカの共をしたためだ。関係者だけになったところでビアンカが背筋を伸ばした。
「それで、どのようなお話かしら?」
一通り、バカにして気が済んだのかビアンカがいつものように侯爵夫人然とした態度に戻る。ほっとしながら、アンジェリカは笑顔を見せた。
「その前に、お願いしていた聖典を持ってきてもらえたかしら?」
「ええ。建国記の第8章でしたわね」
そう言って手荷物から一冊の分厚い本を取り出した。アンジェリカはその本を受け取る。侯爵家由来のものだろうか。かなり古いが、しっかりと管理されていたのがよくわかる。
アンジェリカは本を開くと懐かしい文字を見つめた。
「この本で間違いないわ」
「もしかしたら、妃殿下はこの帝国文字――神聖文字が読めますの?」
気になっていたのだろう、ビアンカは率直に尋ねた。アンジェリカは目的のページを見つけるためにぱらぱらとめくりながら頷いた。
「嫁ぐ前は教会長の跡取りとして育てられましたから」
「驚いたな。この文字を読める人間は既に存在していないと言われているのに」
「そうでしょうね。祖国でも読めるのはわたしと大叔母だけですもの」
帝国文字は廃れてしまった文字だ。女神を祭る教会が興った時代の文字であり、神聖文字とも言われている。古い歴史を持つ家には今でも聖典として保存してあるだろうが、300年ほど前に翻訳されてから帝国文字を読む人間が極端に減った。
教会従事者には知識として残っていそうであるが、すでに翻訳本が幅を利かせていた。膨大な聖典はすべて翻訳されているわけではない。翻訳されていない聖典は今は存在しないかつて大陸を支配した国のつまらない歴史書なのだ。自然と理解しようとする人間はいなくなっていた。
「でもこの中にはとても重要な情報が書かれているの」
アンジェリカはようやく目的のページを探し当てた。予め用意してもらったペンと紙を手に取る。さらさらと神聖文字を翻訳して書きつけた。
「重要な情報?」
「そう。ここだけのお話にしてもらいたいのだけど、わたしの祖国がどうしてあんなに小国なのにやっていけているか、ご存知?」
アンジェリカは手を止めることなく二人に尋ねた。ビアンカは少しだけ沈黙した後、知っている内容を話す。
「確か、貴重な薬草の取引をしているのよね?」
「そう。その育て方が書いてあったのがこの聖典なのよ」
「なんだって?」
ルーカスが驚きに声を上げた。ちらりと彼を見てから、アンジェリカは翻訳を続ける。
「歴史書ではあるのよ。翻訳されていない部分は今はなくなってしまった帝国の風土記ですもの。だからこそ、その土地ならではの重要な内容が書いてあったの」
「妃殿下」
ビアンカがそっと手を伸ばして、アンジェリカの手を止めた。アンジェリカはほっそりとしたビアンカの手を見てから、顔を上げる。
「なにかしら?」
「わたしに何をさせたいのでしょう?」
真剣に見つめられて、アンジェリカは困った顔になった。
「ある孤児を買ってもらいたいの。その対価として、今は輸入に頼っている薬草の育て方を教えるわ」
「待て。孤児を買うとはどういう意味だ?」
ルーカスが尖った口調でアンジェリカに問う。アンジェリカはビアンカからルーカスへと視線を動かした。あまりにも厳しい様子に、アンジェリカは息をつめた。
「どういう意味、って……この国は孤児を買えるのでしょう?」
「どうしてそうなる。人身売買など禁止事項だ。孤児だろうが何だろうが、俺が生きている間は売買など許さん」
硬く問い詰めるような物言いに、アンジェリカは驚いて目を見開いて固まった。唖然としてルーカスを見つめた。
「そうだったの? てっきり孤児なら売買を許されているのかと思っていたわ」
「どうしてそう思った?」
いつものような甘い声音ではなく、厳しく追及される。初めて彼の怒りをまともに受けて、アンジェリカはその迫力に言葉がすぐに出てこない。
「ちょっと! そんな厳しい言い方をしなくてもいいでしょう? 妃殿下の顔色が悪いじゃない」
「え、ああ、すまん」
ルーカスはビアンカに怒鳴られて我に返った。ふっと重苦しい空気が取り除かれて、アンジェリカはほっと息をついた。
「妃殿下。どうしてそんな風に思われたの? この国では奴隷制度は随分前に撤廃されたし、人身売買はとても厳しく取り締まっているのよ」
「それは知っているわ。でも、孤児院は別なのでしょう?」
「そこが間違っているわ。孤児院だって一緒よ。売買なんてしない。それこそこの国の主義に反するもの」
アンジェリカは丁寧に説明されて黙り込んだ。どうやら考え違いをしていたようだ。しかも誤魔化しようがない失敗だ。
「アンジェリカ。教えてほしい。どうして孤児を買うなどという発想を持った? 君の国でも人身売買は禁止されていたはずだ」
ゆっくりとした宥めるような口調でルーカスが促す。アンジェリカは忙しく考え巡らせたが、いい案が全く浮かばない。やはりルーカスを同席させずにビアンカだけに言えばよかったかと、ため息だ。
できれば、ある程度事情が分かってからルーカスには伝えたかったが、こうなってしまえば話すしかない。
「先日、孤児院へ行った時にお願いされたの。――僕を買ってほしいと」
「本当ですか!」
思わぬ方向から大きな声が上がった。声の方へと3人の視線が向く。視線の先にいるのはキーランだった。
護衛をしている時は無表情を貫いているその顔が真っ青だ。彼が一緒に行ったのだから、買ってほしいと伝えたのが誰であるのかわかったのだろう。
「キーラン?」
ルーカスが訝し気に声を掛けた。キーランは自分が無作法をしたことに気がつき、慌てて許可を求める。
「発言のお許しを」
ルーカスは軽く頷いて許可をした。キーランは切羽詰まったような表情でアンジェリカを見つめた。
「孤児院とは……買ってほしいと言ってきたのはデレクでしょうか?」
「そうよ。彼がそっとお願いしてきたの。優しい人に買われたいから、僕を買ってほしいと」
部屋の中が凍り付いた。
「でも、そのことはルーカス様は知っていたのよね? だからわたしをあの孤児院へ視察へ行かせた。後継者問題として提言したけれど、国の動きを待っていたら間に合いそうにないから――先にデレクを保護しようと思ったの」
「それでビアンカか」
ルーカスは先日、倒れた時に呟いた言葉を思い出したようだ。
「ええ。ルーカス様では動けないでしょう? そうなったら、一番頼りになるのはビアンカですもの」
アンジェリカの一言は止めになってしまったのか、ルーカスはとても傷ついた顔になった。ビアンカは反対にとても顔を輝かせた。
「そこまで信用してもらえるなんて嬉しいわ!」
「だから、デレクを保護してもらいたいの」
「わかった。すぐ動こう」
ルーカスは表情をぐっと引き締めた。




