王妃の公務
ビアンカに調べてもらうように頼んだアンジェリカは気持ちを改めていた。不遇な恋人たちのために、アンジェリカがすべきことは王妃としてもっと認められることだ。
ルーカスとアンジェリカが仲睦まじく、そしてアンジェリカが王妃として一人前だと認められれば、ルーカスの恋人の存在を気取られることはない。
万が一、勘繰る人間が出てもアンジェリカがルーカスとの仲を見せつけてしまえばよい。
新しい目標を立て、自分にできることを探してみれば、なんてことはない。一つしかできることはなかった。自分のやるべきことを見つけたアンジェリカはすぐにルーカスに面会を申し込んだ。
ルーカスは執務中であっても直接会いにくればいいと許可を与えていたが、やはり先触れを出すのが礼儀だ。相手が気にしないからと礼儀を無視していいことはない。大抵気にするのは本人よりもその周囲の人間だ。
面会の申し込みはすぐに許可され、ルーカスの執務室に案内される。中に入れば、すぐさまルーカスに抱きしめられた。すっぽりと抱き込まれ、彼の使っている爽やかな香油が鼻腔を擽る。
「え? あの、陛下」
「ここまで会いに来てくれるのは初めてだから嬉しいのだ」
そう耳元で囁いて、さらに腕に力が入った。動かせる範囲で視線をあちらこちらに巡らせれば、部屋には護衛のキーランとそして側近のカールソンがいた。二人の姿を認め、顔が引きつる。
恋人の前でこれほどいちゃつくなんて、どういう神経をしているのかと非難する気持ちがもたげてくる。
そんなむかむかした気持ちを抱え、少しだけ彼の胸を押した。拒絶するように押されて、ルーカスが不思議そうな顔をする。
「アンジェリカ?」
「今日はちゃんとお仕事のお話をしにきたのです! 陛下もちゃんとしてくださいませ」
背筋を伸ばし、胸を張ってきっぱりと言い張る。今は仕事をする時間なのだ。王妃とのイチャイチャを示す必要があるとはいえ、彼のいるところではあまりしたくはない。
「ああ、すまない。君があまりにも愛らしくて」
とろりと溶けるような目で見下ろされ、唇に軽くキスを落とされる。不意打ちのキスに思わず悲鳴を上げてしまいそうになったが、すぐさま意識を逸らすように長椅子に促された。こういうところは、ズルいと思う。経験の差が大きすぎる。
「それで話とは何かな?」
突然仕事モードに戻ったルーカスに肩透かしを食らいながら、アンジェリカは気持ちを切り替えるように小さく咳払いをした。
「ようやく王妃の公務に慣れてきたので、孤児院の訪問を許してほしいのです」
「孤児院の訪問? 今でも定期視察に入ってもらっていると思うが」
不思議そうに言葉を繰り返すルーカスにアンジェリカは口元に笑みを浮かべた。
「視察ではありません。わたしは陛下と結婚する前は教会長になる予定でした。その時に行うつもりだった政策をこちらの孤児院でも行いたいと考えています」
「具体的にはどんなことを考えている?」
ルーカスの目がすっと真剣みを帯びる。先ほどまでの甘ったるい表情が消え、為政者としての顔になった。アンジェリカは初めて見るルーカスの王として仕事をする姿に、目を見張った。アンジェリカがいると公務で一緒にいたとしてもにこやかで愛情たっぷりの眼差しを向けてくる。だからこれほど淡々とした彼を見るのが初めてだった。
「アンジェリカ?」
「ああ、ごめんなさい。ぼうっとしてしまったわ」
促されて、アンジェリカは背筋を伸ばした。緊張が一気に高まる。一つ小さく息をついてから、説明をした。
「祖国の孤児院では成人するまでの間に自身にあった技術を身に着けてもらっていました。その後は働き手の必要な場所へと行くのです」
「わが国でも読み書き計算など勉強させているが」
考えるようにルーカスが腕を組む。アンジェリカは表情を緩めた。嫁いできてからこの一年でアンジェリカは王都にある孤児院をすべて視察していた。
大国らしく王都には5つの孤児院があり、教会と一体になっている。手の行き届いたいい孤児院だと思う。アンジェリカが会った子供たちの顔はどれも憂いは少なかった。
「そうですね。視察でも勉強しているところを見ております。読み書き計算は最小限ですので、本当に自立できるような技術も一緒に学ばせるのです」
「言いたいことはわかるが、簡単にはいかないな。財源の問題もある」
「わかっています。だからこそ、まずは小さめの孤児院で試すことを許可してもらいたいのです」
人を育てるための財源の確保もアンジェリカは考えていた。ただそれはどこでもできる方法ではなく、立地条件などを細かく確認する必要があった。
ルーカスは眉を寄せ、いつになく険しい表情をしている。頭の中でどんなことを考えているのかわからないが、少なくともこうして国のことを考えているルーカスは素敵だ。こういう姿を見ると、頼もしく、一国を背負っているのだと実感する。
ルーカスが国王になって3年、まだ28歳の若い国王だ。
王太子時代から国王の政務の半分を受け持っていたと聞いている。前国王が体調を崩して退位した後、滞りなく政治を行っているのだから、ルーカスの周りを固める人材も優秀なのだろう。豊かな人材がこの国を揺るぎないものにしている。
「とりあえずは訪問の許可は出そう」
どれだけ沈黙していたか。
ルーカスは軽く頷くと、そう言った。
「ありがとうございます」
「出かけるときには事前に許可をもらってくれ。それと、孤児院へ行くときにはキーランを連れていくように」
「サリス殿を、ですか?」
突然のことに狼狽える。まさかルーカスの恋人かもしれない彼を連れていけと言われるとは考えていなかったのだ。
アンジェリカの混乱に気がつくことなく、ルーカスは楽し気に説明する。
「ああ。キーランと縁のある孤児院がある。彼が一緒なら好意的に受け取ってもらえるだろう」
「縁のある孤児院?」
キーランと孤児院が結びつかない。ちらりと壁際に控えているキーランに目を向けた。彼とばっちりと目が合ってしまう。キーランは苦笑気味だ。
「陛下、発言のお許しを」
「ああ、説明してやってくれ」
ルーカスが鷹揚に頷けば、キーランが一歩前に出た。
「妃殿下はご存知ではないかもしれませんが、私は一時期孤児院で暮らしていたのです」
「え?」
想像すらしていなかった内容に目を見開いた。キーランは気にすることなく微笑んだ。
「母はとある高貴な方の妾でして、生まれたばかりの私を抱えて母は屋敷を追い出されてしまいました。その時に頼ったところが私設の孤児院だったのです」
「まあ」
淡々とした説明に、何を返していいのかわからなかった。慌ててキーランの経歴を思い出すが、キーランは確か子爵家の子息だ。
無意識に首が傾いてしまったのだろう。ルーカスがキーランの言葉を補った。
「キーランの母君は子爵の後妻となって、キーランは養子に入ったんだ」
「そうでしたのね」
「子爵家に入った後も、孤児院には母がお世話になったからと時間がある時には訪問しております」
「わかりました。信頼されているサリス殿がいた方が安心ですわ」
そういう事情ならばとアンジェリカは頷いた。突然王妃が訪問しても警戒されるが、縁のあるキーランがいる方がいいというのは納得できた。
「それからキーランのことは呼び捨てで構わない。キーランは誰よりも信頼できる。気にせず呼んでやってほしい」
「でも」
呼び捨てにしろと言われて困ってしまった。ちらりとキーランを見れば、彼は爽やかな笑みを浮かべた。
「どうぞ、キーランとお呼びください」
二人に名前を呼べと視線で圧力を受けて、少しだけ体を後ろに引いた。言いにくいことこの上ない。でも言わないと、このままの状態が続いてしまう。
「…………キーラン。よろしくお願いね」
「お任せください」
嬉しそうに笑うキーランにアンジェリカは視線をうろつかせた。よかったのだろうかと、ルーカスの側に控えるカールソンへと視線を向ける。彼は軽く頷いた。ほっとしてからだから力を抜くと、ルーカスが立ち上がった。
「では行こうか」
彼の大きな手が、アンジェリカの目の前に差し出される。アンジェリカは目を瞬いた。
「あの、陛下?」
「もう仕事の話は終わりだ。気晴らしに散策をしよう」
突然決めて大丈夫なのかと、再びカールソンに視線を送った。彼は冷ややかな目をしてルーカスを見ているが、ルーカスは無視してる。
「仕事は散策が終わってからする。今、新しい品種の花が満開になったと連絡があってね。一緒に見たいんだ」
「わかりましたわ。では、少しだけ陛下をお借りしますわね」
申し訳なく思いカールソンへ告げれば、彼は苦笑いだ。
「手を」
ルーカスに急かされて手をのせる。引っ張り上げるようにしてアンジェリカを立たせると、扉の方へと歩き出した。