気持ちを伝える
アンジェリカは物思いに耽っていた。頭の中にあるのはビアンカとデイジーとの会話だ。考えないようにしても、やはりそこに思いは向かってしまう。
すでに侍女たちは別室に下がっており、部屋に1人だ。
ルーカスからは仕事が終わらないため先に食べてほしいと連絡があったので、今日の夕食は一人で食べた。簡単な食事を終え、いつでも休めるように夜の支度は終わっていた。
かなり遅い時間であるが、ルーカスが帰ってくる様子がない。20日間も留守にしていたツケは大きかったらしく、戻ってきて10日経った今でも仕事は終わらないらしい。
先に寝ていてもルーカスは怒らないだろうが、遅くまで働いている彼を待った方がいいだろうと、一人、長椅子に座った。本を読む気にも、まして刺繍をする気分でもないので、ぼんやりと長椅子に背中を預けた。行儀悪く部屋履きを脱いで両足を抱え込む。
ルーカスに自分の気持ちを伝える。
アンジェリカは途方に暮れていた。ルーカスに対する気持ちが愛だと自覚したのがつい最近で、自分の気持ちを口にするのは本当に難しい。家族や友人たちへの好きは簡単に伝えられるのに、やはり受け入れてもらえないのではないか、と恐れる気持ちが大きい。
拒絶されたら、少しでも嫌な顔をされたら、と思うと怖い。
ビアンカが指摘するように、アンジェリカはいつも受け身だ。ルーカスがキスをするからキスを返し、抱きしめてくれるから抱きしめ返す。振り返って見れば、嫁いできたときからずっとそうである。基本的にアンジェリカは受け入れるだけで、進んで好意を示したことはなかった。
閨のことなど、祖国ではすべて夫になるルーカスに任せればよい、暴れて蹴りを入れなければ問題ない、としか言い含められていない。自ら進んで愛するなんて想像したことはなかった。ビアンカはルーカスがする前に行動すればいいと簡単に言っていた。
ルーカスは毎日のようにアンジェリカに愛を囁くから、彼がどのような行動をするのか大体わかる。だから先手を打つことはさほど難しくはない。
抱きしめられる前に抱きしめたらいい。
キスをされる前にキスをすればいい。
愛していると言われる前に愛していると告げればいい。
言いたいことはわかるが、それを実行することに抵抗がある。アンジェリカは頬を赤くしたまま、ルーカスのくれるキスを思い返す。
いつも両手で頬を包み込んで、瞳を覗き込むように見つめる。初めはほんの少し触れるだけのキス、次は少し深くなり、最後は噛みつくような獰猛なものに変わる。
いつまでも慣れないアンジェリカはここで息切れするまでが一連の動作だ。
そのキスを思い出し、そっと自分の唇に触れた。
いつもされているキスだ。できなくはない。恥ずかしさを抑え込めば、できるはずだ。
初めは触れるだけ、次にちょっと唇の形をなぞって、最後は――。
「あの激しいキスをわたしからするの?!」
想像してはっとした。赤くなった顔を両手に埋めて呻いた。想像するだけでも悶絶するのに、それを護衛や侍女たちの見守る中やれと。
ルーカスがアンジェリカに仕掛けてきている時も、誰かが見ている。だから今さらなのだけれども、自分が行動に起こすとなると、できる気がしなかった。ルーカスだけを見つめて、そのほかのことは意識から締め出せば何とかなるかもしれない。
顔見知りの護衛達や侍女たちがいくら気配を消しているとはいえ、締め出せるほど慣れてはいない。
それにもう一つ心配なことがあった。アンジェリカとルーカスの身長差だ。ルーカスはアンジェリカと目を合わせるためにかなり屈むのだ。覆いかぶさるようにいつも屈んでキスをする。
身長差を自分の動きで埋めようとすると、背伸びぐらいだ。とはいえ、背伸びして届かない。
「背伸びして、彼の首に腕を回す?」
アンジェリカは自分が背伸びして、彼の首を引き寄せることを想像した。
「やっぱりできない……」
あとは隣に座っている時に仕掛けるか。でも隣に座ることはほとんどない。既にいい感じになってしまって膝に乗せられるぐらいだろう。ルーカスが先に座っているところに膝に乗るのはどうだろうか。
はしたなすぎて、実行できそうになかった。
結論として、アンジェリカには非常に難しい行動だということが分かった。
「ため息ついて、心配事でもあるのか?」
いつの間に戻ってきたのか、ルーカスの声がした。パッと顔を上げれば、心配そうな目をするルーカスがいる。
彼はすでに寝支度を終えていて夜着になっていた。ぼんやりとその逞しい体を見ていたが、自分の足に視線が向いていることに気がついた。不思議に思い視線を下げれば、足を抱えたままだ。内心焦りながらさりげなく室内履きに足を突っ込んで、取り繕うようにぎこちない笑顔を見せた。
「おかえりなさいませ」
「遅くなって済まない。まだしばらく遅くなる。私のことを気にせずに先に休んでほしい」
「待っていたいから待っていただけだから……」
ルーカスは大股で近づくと座っているアンジェリカの上に屈み、そっと目じりにキスを落とす。
ルーカスはしっかりと拭いていないのか、髪から雫がぽたぽたと落ちている。アンジェリカは自然と彼の髪に手を伸ばした。
「ちゃんと拭かないと風邪をひきます」
「では拭いてもらえるか?」
甘やかな声で囁かれて、思わず赤くなった。彼の顔を見ないようにして、自分の隣に座らせる。顔を見られたくないから、何かを言われる前に立ち上がると後ろに回り柔らかな布で優しく拭いた。短い金髪は濡れているせいか少しだけいつもより色が濃い目だ。アンジェリカは丁寧に水分を取る。
「アンジェリカに拭いてもらえるなんて感激だ」
「感激だなんて大げさな」
軽口を聞いていると、先ほどの悶えるような気持ちも落ち着いてきた。
彼の濡れた髪を拭きながら、後ろからならばルーカスの顔が見えないから抱きつくことができるのではないかと思いついた。身長差も今なら気にならない。それに誰かのいる前で突然するよりは二人きりの方がまだやりやすい。
思いついたその考えにアンジェリカは囚われた。恥ずかしいと言いながら、アンジェリカもきちんと伝えたかったのかもしれない。
どうしようか、と迷いつつ、髪を拭き上げる。少し視線を落とせば、ルーカスのうなじが目に入った。いつも見上げているから、この角度はとても新鮮だ。彼の心の底まで覗き込もうとする目が見えないだけで、告げられるような気がしていた。
「ありがとう。もう十分だ」
ルーカスがアンジェリカの手を止めた。アンジェリカは一度大きく息を吸ってから、覚悟を決める。布を外すして、アンジェリカはルーカスの首にぎゅっと抱きついた。首筋に顔を埋めて、そっと囁く。
「ルーカス様、好きです」
ルーカスがわかりやすく体をこわばらせた。反応はそれだけしかなくて、アンジェリカは息をのんだ。
やっぱり愛されているわけではなかった。
愛を告げた時の反応でどう思っているのかわかるというのはこういう事なのかと、悲しく思った。でももう告げてしまった。なかったことにできないのなら、今日しかできないことをしようと、アンジェリカは抱きついた腕に力を入れた。そして、目の前にある耳たぶをそっと齧る。
「アンジェリカ!」
「ひゃあ」
ルーカスの首に回していた腕が彼に引っ張られた。体がふわりと浮く。どうなったのかわからないまま、アンジェリカは気がつけばルーカスの膝の上で横になっていた。上から覆いかぶさるように見つめられて息をのむ。何故か、獣のようなギラギラとした目で見下ろされていた。その捕食するような強い眼差しに、アンジェリカは硬直した。
愛されていないのでは?
先ほどの悲しい気持ちと現実がうまくかみ合わない。混乱するアンジェリカをよそに、ルーカスは破顔した。
「こんなに嬉しい日はない。私も愛しているよ」
噛みつくようなキスで返事ができなかった。ルーカスはキスしたままアンジェリカを抱き上げ、寝室へと入って行く。アンジェリカは彼の唇が離れた時に声を上げた。
「ちょっと待ってください!」
「何?」
「ルーカス様は他に愛する人がいるでしょう?!」
「何を言っているんだ? 私が愛しているのはアンジェリカ、君だけだ」
信じられない言葉を聞いて、愕然とした。
「え、え? どうして? わたしは隠れ蓑の王妃で」
「……どこでどうそんな勘違いをしたのかわからないが、愛情表現が足らなかったようだ。愛し合っている時にずっと気持ちを伝えていたと思うが」
「だって、キーランに妃になってほしいと……」
呟くような言葉にルーカスの動きが止まった。恐る恐るその顔を見れば、記憶を辿っているのかどこか思案気だ。
「ああ、何かの会話の一部を聞いたのだな。まあ、追及は後にしよう」
「どういうこと?」
「それよりも先ほどの好きというのは偽りなのだろうか?」
「偽りじゃありません。でも、信じられない……」
ルーカスは混乱したアンジェリカをじっと見つめていたが、突然ふっと笑顔を見せた。
「信じられるまで努力しよう」
翌日、アンジェリカは寝室から出ることができなかった。朝には気持ちの悪いほど上機嫌なルーカスが仕事に出かけて行った。




