不調和
「陛下が夕方に戻られるようです」
その驚きの連絡を侍女から伝えられたのは、アンジェリカが来月に行われる夜会用のドレスの仮縫いをしている時だった。全く予定を聞いていなかったので、ルーカスを出迎える準備をしていない。
ルーカスが視察に行ってから実に20日間、城を留守にしたことになる。それでも中枢機能はしっかりと動いていた。彼を支える者たちが優秀だから、これだけの期間、外に出ることができる。
「え? 今日の夕方?」
「そのようです」
侍女たちも若干焦りがあった。夕方と伝えられているが、すでに昼を過ぎている。曖昧な言葉からはどの程度余裕があるのかわからない。アンジェリカの支度やルーカスを迎え入れる用意など、侍女たちがやらなければならないことは沢山ある。
「困ったわ。仮縫いはあとどれくらいで終わるかしら?」
ドレスの仮縫いに来ていた仕立て屋の女性に尋ねれば、彼女は今日は終わりにしましょうと笑った。手早くドレスを脱がせ、道具を片付け始める。予定していた半分の時間で帰すことになってしまい、アンジェリカは申し訳なく思う。それに間に合うのか、という不安もあった。
「残りの調整は後日、また伺います」
「そうしてもらえると助かるわ」
「まだ日程には余裕がありますから、問題ありませんよ」
仕立て屋はアンジェリカの不安を感じたのか、そう言い残して退出した。
侍女たちはルーカスを迎えるためきびきびと片づけ、同時にアンジェリカの身支度を始めようとした。あわててアンジェリカは拒絶する。
「わたしの着替えはいらないわよ。迎え入れる準備を優先してちょうだい」
「迎え入れる準備は他に応援を頼みます。久しぶりの陛下のお戻りです。きっとあんなことやこんなことになると思いますので、是非ともしっかりとした身支度を」
「そうですわ。お預けを食らっていた陛下が我慢できるとは思えません」
露骨に夫婦の閨のことを言われて、アンジェリカは真っ赤になった。もっと余裕のある行動をしたいが、この顔を晒しておけずに両手で隠してしまう。耳の裏まで熱くなっているのがわかって、ますます恥ずかしくなる。
「どうして貴女たちはそんなにあっさりと恥ずかしいことを口にするの?」
「妃殿下に意識してもらうためです。陛下は妃殿下が恥ずかしがっている顔を見るのがとても好きみたいなので」
しれっと言われて、さらに項垂れた。侍女たちは連携して大人しくなったアンジェリカを逃げないように両脇から固めると、そのままぐいぐいと浴室の方へと導いていく。
「え、ま、待ってちょうだい! 本気なの?」
「もちろんです! 気を楽にしてわたしたちにお任せください!」
「陛下の好きな香料を肌に擦りこみましょう! 絶対に喜ばれます!」
気合を入れた3人の侍女はそれぞれ分担しながらアンジェリカを磨いた。
アンジェリカの準備に2時間ほどかかった。ドレスも新しいものを身に纏い、化粧も薄く施される。侍女たちが宣言した通り、肌に鼻を近づけると仄かに花の香りがした。この絶妙な香り具合がいいらしい。
支度だけですっかり疲れてしまったアンジェリカは体を長椅子に預けて、柑橘系の香りのするお茶を口に含んだ。少し熱めのお茶は疲れた体に染み渡る。
「陛下がお越しになりました」
「え?!」
ようやく侍女たちから解放されてゆっくりし始めたところにその連絡をもらい、アンジェリカは慌てた。手に持ったカップをテーブルに置き、立ち上がろうとしたときにはルーカスはすでに部屋の中に入ってきた。
自室にも戻っていないのか、外出着のままだ。いつもは隙のない格好をしているのだが、上着のボタンが数個外され、髪は乱れている。初めて見る姿に、何故か胸がどきどきした。
「アンジェリカ、そのままでいい」
「おかえりなさいませ」
「ああ、ようやく帰ってこれた」
その声に疲れがにじみ出ている。
アンジェリカは思わず立ち上がると、ルーカスの側に寄った。ルーカスは何のためらいも見せずに彼女を抱き寄せた。
久しぶりの抱擁にじわりと胸の奥が温かくなった。抱きしめられて全身に伝わる熱と彼の使っている香料の香りがルーカスの存在をさらに意識させた。恥ずかしさを誤魔化すためにアンジェリカは少しだけ彼の体を離そうと押した。
「つい先ほど帰ってきたばかりですもの、とてもお疲れでしょう。少し体を休めた方が……」
「アンジェリカに早く会いたかったんだ。アンジェリカは私がいなくて寂しくなかったのか?」
「それは」
ここで寂しかったと言っていいのだろうか。
思わぬ言葉に動揺した。ルーカスはキーランという最愛がいる。アンジェリカが寂しいと素直に口にするのはどうしても躊躇われた。ルーカスはアンジェリカから答えを待つように、じっと彼女の顔を上から見つめていた。強い眼差しに当てられて、徐々に顔が赤らむ。
「そうやって恥ずかしがるアンジェリカは本当に可愛いな」
「わたし……こんな自分が嫌いです」
「どうして? すごく可愛い」
「だって子供っぽいです。もっと大人の女性になりたいのに」
彼とは目を合わせないようにうつむいたまま、拗ねたことを呟いた。くくくと声を殺して笑われたが、気の利いた返しなど浮かばず無視するぐらいしかできない。
「アンジェリカ、顔を見せて」
耳元で名前を呼ばれ、背筋がぞくりとする。気にしていないと思われたくて、顔を上げた。真正面から彼を見つめれば、彼は屈みこんだ。
唇に温かいものが触れた。最初はそっと合わせただけ。次は少しだけ強めに押し付けられた。吐息までも飲み込んでしまいそうなキスにアンジェリカは酔いそうになる。
「このまま寝室に連れ込んでしまいたいが」
苦し気に呼吸をするアンジェリカを気遣うように唇が離れた。アンジェリカは荒い呼吸を整える。
「少しだけ膝を貸してくれ。疲れた」
「ルーカス様?」
疲れたと零した彼の顔をじっと見た。目の下にはくっきりとした隈ができており、肌がかさつき、頬もここけている。アンジェリカが思っていたようなキーランと濃厚な蜜月を過ごしてきたようには思えない。
「では、寝室へ」
「明るいうちに良いのか?」
「違います。ちゃんと休んでください。酷い顔色をしています」
揶揄われているとわかっているが、真面目に返す。ルーカスは疲れに対して自覚があるのか、ため息をついて大人しく寝室に入った。ルーカスは面倒くさそうに上着を脱ぎ、シャツのボタンを外す。
ルーカスの希望通りに二人で寝台に上がり、彼に膝枕をした。
「夕食は一緒にとろう。時間になったら起こしてほしい」
「わかりました」
ほどなくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。よほど疲れているのか、微動だにしない。膝に乗せた頭がぐっと重くなった。その重さを心地よいと感じながら、眠りを妨げないようにそっと彼の髪に指を通した。優しく髪を何度も梳いた。
彼の寝顔を見つめて、そっと息を吐く。
キーランを愛しているのなら幸せになってもらいたいと思いながら、アンジェリカはルーカスを愛していることを自覚していた。
ルーカスのいない夜はとても寂しかった。そしてルーカスとキーランのことを考えると胸が苦しい。もう自分の気持ちを無視することはできない。大きくはないけれど、ルーカスへの愛は育ち始めている。
「愛するだけなら、いいのかな」
愛を返してもらわなければ、今と同じ。
伝えなければ気がつかれない。
ルーカスはアンジェリカを大切に思ってくれているのだから、与えられる優しさを享受するだけなら許される気がした。
*****
なんだかおかしい。
そう気がつくのに、時間はかからなかった。
違和感は戻ってきた翌日の朝にすでに感じていた。ルーカスと結婚してから、朝、彼の護衛につくのは必ずキーランだった。それが初めて、違う護衛騎士がやってきた。もちろん見知った護衛騎士である。キーランも一緒に視察に行っていたので、休みなのかもしれないとその日は勝手に納得していた。
ところがこれが5日も続けば、疑問に思う。
朝、迎えに来る護衛騎士は固定されていないが、一度もキーランは顔を出さなかった。どうしてだろうと思いながら、直接聞くことが躊躇われた。
よほどアンジェリカが変な顔をしていたのだろう。
朝の見送りの時に、ルーカスがぽんぽんと頭を撫でた。その撫で方が子供にするように感じて、少しだけむっとする。
「何か聞きたそうだが?」
「聞いてもいいのですか?」
「もちろん。何でも聞いてくれ」
許可が出たので、思い切ってキーランのことを聞いてみた。
「視察から戻ってきてからキーランが一度も迎えに来ないので……。このようなことは初めてでしたので、何かあったのかと」
「ああ、そのことか。説明していなかったな」
ルーカスにとっては不思議でも何でもないことのようだ。理由がちゃんとあるのなら、とほっと息をつく。同時に別の心配が頭をもたげた。
「まさかケガをしたのですか?」
「違う。怪我も病気もしていない。別の仕事をしている」
「え?」
驚きに声を上げれば、ルーカスが苦笑した。
「本来なら彼がする仕事ではないんだが……私と一緒にいたくないのかもしれない」
「……そうなのですか」
それ以上、事情を聴くわけにもいかず曖昧に頷いた。
「今日の予定は何が入っている?」
「ビアンカが次のお茶会の打ち合わせに来ますわ」
「ああ、そうだったな。よろしく伝えておいてくれ」
頷いてから、彼を見送った。一人部屋に残されて、アンジェリカは笑みを消した。
どういうことなのかしら?
蜜月どころではなかったらしい。だからあれほどまで疲れた顔をしているのだ。もう戻ってきて5日も経っているのに、覇気がない。愛しい人との間にすれ違いがあれば、当然だろう。
二人の間の決定的な意見の食い違いには心当たりがあった。アンジェリカが初めて二人が愛し合っていると、アンジェリカは隠れ蓑だと知ったあの話だ。視察に行く前もそのことで、二人ともかなり感情的になっていた。アンジェリカに気を使うことのない視察であったはずなのに、仲を深めるのではなく拗れてしまったようだ。
「二人とも真逆の願いを持っているものね」
ここはやはりアンジェリカが仲を取り持つべきなのかもしれない。
二人では拗れてしまう事でも、第3者が入れば幾分、冷静になる。感情抜きで話し合えば、折り合いの付く場所を見つけるのも可能だろう。
幸いなことに、今日はビアンカが打ち合わせに城にやってくる。
茶会の相談ついでに、こちらも聞いてもらおう。
やるせない表情をしたルーカスを思い出して、ぐっとお腹に力を入れる。
くよくよしてはいけない。ルーカスが王妃としてアンジェリカを大切にしているのは間違いない。事情を知らなければ勘違いしてしまうほど、愛を囁かれているのだから。
でもそれは、公の立場としての愛情で。私人としてのルーカスには心から愛している人と穏やかな時間を過ごしてもらいたい。
そのためなら、いくらでも辛さを飲む込めるはずだ。




