優しさに包まれて
「アンジェリカ? ぼんやりしてどうした?」
柔らかな声で名前を呼ばれて、意識を目の前に戻した。
飛び込んできたのは、晴れ渡った空を切り取ったような青い瞳。
短めに整えられた金髪に、男らしい精悍な顔立ち。
意志の強さを物語る強い視線。
彼はこの国の王で、アンジェリカの夫であるルーカスだ。彼との近さにアンジェリカは驚きのあまり固まった。彼は大きな体を屈めて、アンジェリカの目を覗き込むようにしていた。心の中まで見ようとする彼の熱い眼差しに、頭が真っ白になる。
「疲れか? 最近、公務が多いから」
ルーカスは体を起こし隣に腰を下ろすと、彼女の肩に腕を回す。力を入れて抱き寄せられた。彼の触れた場所が温かくなり、徐々に現実が戻ってくる。
「疲れているわけではないので……大丈夫です」
さりげなく姿勢を正して、距離を取った。少しの距離がアンジェリカを正常に戻す。気持ちも落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐き、テーブルへ手を伸ばした。
「もっと甘えてほしい」
「……これ以上甘えたら、王妃として駄目だと思いますわ」
残念そうな彼の呟きに、アンジェリカは内心嘆いた。
「そう? 私は甘え足りないと思っている」
「陛下の隣で胸を張って立っていたいのです」
何度も繰り返された会話だ。これは1年前に結婚してからずっと繰り返している。ルーカスの返事もいつも同じ、アンジェリカの反論も同じ。
「アンジェリカは立派に勤めを果たしているよ」
「そうでしょうか? 前王妃様はとても素晴らしい方だったとうかがっています。わたしなど、まだまだですわ」
「ふうん。そんなことを言うバカがまだいるのか」
少しだけひんやりとした声音に、アンジェリカははっと顔を上げた。先ほどまで甘ったるい表情をしていたルーカスが無表情になっている。
ちらりと部屋の隅へと視線を走らせれば、彼の側近の一人が何やら合図を送ってくる。これは取り成した方がいいということだ。
アンジェリカを非難する声は結婚当時から沢山聞こえていたが、その大半は強力なルーカスの権力によって潰されている。もちろん合法的に排除だ。ルーカスの手にかかれば、いくらでも排除する理由を作ることができる。
潰された貴族家は後ろ暗いことをしている人間であったが、それでもかなりの人員の入れ替えが行われた。今でも王妃であるアンジェリカに対する風当たりは強いが、彼女自身がやり過ごせる程度の風だった。
「違います。わたしが前王妃さまと比べて足元にも及ばないと思っているだけです」
「比べなくとも、アンジェリカは母とは違った素晴らしさがある」
やんわりと諭されて、アンジェリカはため息をついた。
「そうですが、前王妃様はわたしの目標ですから」
「あまり思いつめないように。何か悩みがあったら相談してほしい」
ようやくこの話題は終わったようだ。やや冷たさを強くした眼差しが緩み、甘く溶けた眼差しになる。先ほどとはまた違った危険をはらんだ甘やかな視線と艶やかな雰囲気に体が熱くなる。緩く回されていた腕に力が入った。
「あの、陛下」
「その美しい瞳を陰らせないでほしい。少しの憂いもなく輝いていてほしいと思うのは私の我儘かな」
そんな風に囁いて、ぺろりと目じりを舐められた。キスじゃなくて、舐められた。
恥ずかしさに固まるが、ここで茫然としているといつものようになってしまう。腹に力を入れて、目の前にいる美丈夫をきつく睨みつけた。
「へ、陛下! 今はダメですわ!」
「今でなければいいのか。では、夜まで我慢しよう。でも夜まで我慢するとすごく大変なことになるかもしれないね」
「そういうことではなくて!」
意地の悪いことを言われて、頭が混乱する。夜のことを匂わせられると、恥ずかしくて恥ずかしくて体中から火を吹きそうだ。そんなアンジェリカの様子を楽し気に見つめ、両手で頬を包み込まれる。大きな手のひらは少しごつごつしていて、自分の手との違いを意識させた。
「午後も仕事を頑張るから、力を分けてくれないか?」
掬うように顔を無理やり向けさせられると、ふわりと唇にキスが落ちた。
柔らかく触れた唇に、アンジェリカは本日の敗北を知った。
「夜、楽しみにしているよ」
そんな有害言語を彼女の耳に垂れ流して、ルーカスは側近に急かされてサロンから出て行った。
「き、今日も駄目だったわ」
出来る限り人前ではキスとか止めさせたい。だけど、アンジェリカには無駄に色気を振りまくルーカスに対応するすべを持たず、翻弄されるばかりだ。
「陛下の気持ちをお止めることは難しいのではありませんか?」
「でも、やっぱり恥ずかしいのよ」
真っ赤になった頬を押えながら、アンジェリカは悶えた。確かに誰が見ても愛されているのだろうとわかる態度は後ろ盾のない彼女にとってありがたいものだ。
だけど限度がある。場所をわきまえずに、ルーカスはアンジェリカに触れ、そしてキスをする。今日はまだ触れるだけの優しいキスであったが、気を抜けばあっという間に濃厚なものに変貌する。
「今日も素敵な花束ですよ。陛下自ら温室に赴いて選んでいらっしゃるようです」
気持ちを切り替えるためなのか、侍女がルーカスが会いに来た時に持ってきた花束を差し出した。アンジェリカはその花束を素直に受け取る。
ころころと丸いオレンジ色の薔薇を引き立てるように、淡いピンクと白の小さな花でまとめられている。その可愛らしい花束を見つめ、ため息をついた。
「陛下のわたしへの印象ってこういう感じなのかしら?」
「妃殿下は天使のようだといつもおっしゃっていますから」
「…………18歳にもなって、結婚して人妻なのに天使ってなしだと思うの」
侍女がアンジェリカの嘆きがわからないのか、何度か目を瞬いた。
「仕方がありませんわ。妃殿下のふわふわした淡い金髪と美しい緑の目は天使のようですもの。女のわたしでも妃殿下を何からも守って差し上げたいと思ってしまうほど、華奢で儚げで」
がっくりと肩を落とす。
華奢で儚くて、というのは民族的な特徴なので印象を変えることは諦めている。
アンジェリカの祖国はこの国よりもはるかに北にあって男女ともに色素が薄く、小柄なのだ。逆にこの国は男性も女性もとても体が大きい。
女性である侍女よりもアンジェリカは頭半分ほど低い。侍女が大きいだけならよかったが、その侍女がこの国の標準的な身長なのだ。女騎士ともなれば、頭一つ分ぐらい違うのではないだろうか。
夫であるルーカスは国王になる前は騎士であったため、体を鍛えており、頭二つ分近く高い。いつも見上げないといけないのだが、話をするときは表情が見やすいように少しだけ屈む。
覆いかぶさるように見つめられると、目を逸らせなくて本当に困る。顔だって勝手に赤くなるので、アンジェリカは自分自身の経験のなさに嫌気がさしていた。
華奢で儚げで守ってあげたい。
この国の人たちはそういうけれど、裏を返せば子供のよう。
体も小さいし、もちろん胸だってささやか。腰はキュッとしていると信じているけど、それだけだ。
ルーカスの愛情表現についていけず、頬もいつだって赤くなっている。
こんな子供っぽい自分が凄く嫌い。
夜会に行けばすぐにわかる。ルーカスにエスコートされてダンスを踊るまではいい。その後の社交の場で、アンジェリカとルーカスは一緒にいることは少ない。
彼の周りはいつだって、色っぽい体つきをした令嬢が侍っている。幸いなことに、この国は側室を認めていない。愛人にはなれるようだが、社会的な地位は何一つ与えられない。
もちろん、ルーカスはいつだって周りに誰がいようと関係なくアンジェリカに愛を囁くから、彼の寵愛は彼女にあると周囲は思っている。忌々しいと思っていても、どんな立場の女性も彼女に一目置く。
彼の言葉を信じて、笑顔を見せる。
何一つ持たない、小国から嫁いできたアンジェリカはルーカスから与えられる気持ちだけがすべてだった。
ルーカスを頼りにしているけど、聞けない疑問もある。アンジェリカにはルーカスが彼女に向ける愛情を受けるだけの理由が思い当たらない。
アンジェリカがルーカスと対面したのは、小国から嫁いできたときが初めてだったから。
結婚して1年過ぎても、ルーカスの誠実さを信じられても、囁かれる愛を信じることができずにいた。