カットスペース
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
君は記録というものを、どれだけ信用しているかな?
スポーツのタイムでもいいし、備品の在庫数でも構わない。今、その時に生じている世界の足跡って奴だ。
たださ。自分のこの目と心で確かめたっていうならまだしも、他人から伝え聞いたり、紙や映像におこされたりしたものって、それが正しいものだと、本当に信じていいのかな?
欺瞞、改竄、ごまかし算。ちょっとウソをつかれただけで、簡単に計画がご破算する。
まるで、わずかなズレで真っ逆さまに落ちてしまう、綱渡りのようなものかな。それでいて、命綱でもあるんだから、なおのこと扱いには慎重になるよねえ。
紙に書く。データに打ち込む。いずれにせよ人の手による作業だ。ヒューマンエラーは完全に消すことはできない。仮に合っていたとしても、他人から執拗に、間違いを咎められたら、自分の判断を疑いたくならないかい?
ちょっと僕自身も、自分の認識を信じられなくなった体験がある。それについて、少し聞いてもらえるかな?
中学校に上がった時、僕は新しい校舎にいささか感動を覚えた。
当時の僕は12歳。小学校にいた時期は6年間。つまり、この時点での小学校の校舎は、これまでの生涯のおよそ半分の時間を過ごした、第二のホームに感じていたんだ。
そのがきんちょが新しい環境へ放り出されるわけだから、たいていの人に思うところがあるんじゃないかな? 君の場合はどうだったろう?
僕はしばらくの間、校舎の探索に精を出したんだ。教室の配置はもちろん、各フロアの廊下の柱の数や、窓の数、天井についている穴っぽこの数とかまでね。
そのことは、表立って誰かに話すことはしなかったよ。「そんなことして、何の役に立つんだ」と、いっちょまえに突っ込みを入れてくる連中が、周りにたくさんいたからね。
僕たちの校舎は、上から見るとL字型。そのLの長い直線の部分に当たる廊下は、曲がり角に至るまでに、柱の数が左右で36対ある。
いずれも、半ば壁に埋め込まれている直方体で、等間隔を空けながら、廊下へ向かって張り出していた。数十センチ程度の突出とはいえ、二メートル足らずの幅しかない廊下にとっては、十分な圧迫だ。
僕は移動教室の時も、何気なく柱を数えながら歩いていたんだけど、ある日、音楽室からの帰りに気がついた。
僕たちのクラスは校舎の一番隅っこにあり、音楽室は正反対の隅にある。必然、端から端まで歩くことになるんだ。
その日は、たまたまよく話す友達が、軒並み欠席。周りの話し声をBGMに、久々にぼっちを堪能しながら、ぼんやりと左右の柱を数え出す僕。けれど、自分のクラスの二つ手前まで来て、はたと足を止めた。
柱が34対しかない。思わずきびすを返すと、急ぎ足で音楽室まで向かい、もう一度数え直す僕。
廊下の突き当たり。緑色に染まる非常口のランプを頭上に掲げ、せり出す左右の柱が、あたかも門番のように寄り添う、鉄の扉。そこの柱が確かに、34個目の揃いのカップルだったんだ。あと2組、あるべき姿がない。
校舎が縮んでいる。反射的に、僕はそう感じた。
折しも、次の授業開始のチャイム。僕は普段の言いつけを破る全力疾走で、教室へと引き返したんだ。
放課後に改めて柱の数を数えてみたんだけど、今度はしっかり36対あったんだ。数え間違えたかと思って、もう一度やり直したけど、結果は変わらなかったよ。
その日を境に、僕は以前にも増して、校舎の柱の数を気にするようになった。自分の教室があるフロアのみならず、他のフロアも見て回ったんだ。
結果、不定期的に柱が2組ずつなくなることが分かった。でもそれはよほど気をつけていないと、見逃してしまうほどのさりげなさなんだ。
教室そのものがなくなっているわけじゃない。柱同士の間隔が広がったり、狭まったりしているわけでもない。ただ、二組の柱だけが姿を消してしまっている。一つのフロアが消えると、他のフロアの柱もなくなってしまう。
もし、エクセルのような表計算ソフトを使ったことがあるなら、指定の行の部分だけ削除してしまい、間を詰めたかのような、あの感じだよ。
そして、34対でいるのはまた限られた時間だけで、いくらか時間を置くと、柱は元の36対に戻るんだ。
戻る瞬間を、目にしたことはない。消えている間のこの空間で、何があったのか。それを知りたいと、思うようになってしまったんだ。
しかし、なかなか尻尾をつかめないまま時間が過ぎていき、とうとう夏休みに入ってしまったんだ。
僕の学校では、8月の初めに登校日があった。
ひとしきり先生の話を聞き、提出できる宿題は出して構わないということで、僕はささっと片づける。
あとは帰るのみだったのだけど、久しぶりに柱の数を数えてみようと思ったんだ。
すぐに帰ることができるように、一階の昇降口がある廊下で実行する。一番手前の物置に使われている教室から始めて、突き当たりの用務員室までだ。
一対……二対……。僕は足を速めながら、だいぶ慣れた柱数えをしていく。そうこうしていく間にも、昇降口には、次々と外履きを履いて帰っていく、みんなの姿が見られた。特に異状がなければ、僕もそのまま帰ってしまおう。そう思った。
校長室、職員室の前も通り抜ける。廊下の突き当りも、目視できる距離まで迫って来た。
どうやら柱は36対、しっかりあるようだったけど、最後までたどり着かないと、気が済まない。これまではなくなるばかりだったけど、今度は最後の柱の陰で、増えるという可能性も考えられたからだ。
でも、やはりこの時の僕はどこかマズい考えを持っていたのかもしれない。
僕が最後の柱の前に立った時。それは用務員室の前に立った時。
唐突に扉が開いたかと思うと、僕は出てくる人影に突き飛ばされた。しりもちをついた僕は、人影に手をつかまれる。
用務員さんだった。あまりお世話になったことはないけれど、ニ、三度は顔を合わせたことがある。僕の手を右手で掴み、左手には黒く細長い丸太のようなものを握っている。
「――見たのか?」
浅黒い顔からは、今一つ機嫌をうかがい知れない。何を、と言い返せる雰囲気じゃなく、僕はためらっていた。
「まあいい。その顔からして、見たんだな?」
仕方のない奴だ、と用務員さんは強い力で、僕を強引に引っ張っていく。ちょうど、僕が歩いてきた道をたどるようにして。
「――この学校は昔から、取引をしている。ここは元より、良からぬ者たちが集まるところだったらしい。だが、初代の校長先生がどうしてもと、無理に押して作ってな。事情は知らないが、これまで大きな事故がなく過ごせてきているのも、その取引のおかげなのだとか」
用務員さんが足を止める。そこは生徒指導室の前で、ここも部屋の入口の両脇、数十センチのところで廊下側に柱が飛び出しているところだ。
「取引の中身。それは空間の貸与。この丸太で叩かれたもの同士と、その間にあるものはな、『ぎゅっと』圧縮されて消えてしまうんだ。そして、ぱっと見には気づくことができないほどの、かすかな手掛かりしか残さない。用心深く、世界を眺める者でなくてはな」
用務員さんは僕を引きずったまま、生徒指導室の両脇にある柱を「トン、トン」と順番にこづいていく。
それだけ。何か劇的な変化が起きたようには見えないが、用務員さんはニヤニヤと笑ったまま、僕に促してくる。
「数えてみるか?」と。
僕は用務員さんに捕まったまま、また用務員室の前から柱を数えていく。
生徒たちの声は、もう聞こえてこない。職員室でも、先生方がもくもく仕事をしているのか、閉じ切った扉の向こうからは、ガンガンにつけた冷房の音しか聞こえてこない。
僕は一対ずつ、慎重に数えていく。まさか、まさかという気持ちを抑えられず、脚が震えそうになる。
昇降口を過ぎる。校門前に立ちはだかる桜の樹の影が伸びて、この廊下まで届いており、思いのほか涼しげだ。けれど、僕の背筋に走った冷たさはそればかりじゃない。
34対。それしかなかったんだ。先ほどは確かに36対あった校舎が、一瞬で二対の柱を失った。
僕は思わず、用務員さんの手をもぎ放ち、逃げ出そうとしたけれど、あの黒い丸太がずいっと、踏切のように僕の前へ立ちふさがった。
「理解できたろう? この丸太の効果を。そして、知ったお前も、このままにしておけない」
立ちふさがる丸太が向きを変えたかと思うと、その先端が瞬く間に、僕の頭と両足のつま先を押したんだ……。
気がついた時。僕は保健室で寝かされていた。
廊下で倒れていたところを、先生のひとりが気づいて運んでくれたんだ。
僕は叩かれた頭と両足に手を当てたけれど、特に痛みも違和感もない。すぐにベッドから立ち上がることができたけど、心配してくれる保健の先生に用務員さんのことを尋ねてみると、不思議な顔をされたよ。
用務員さんは、今日は急な用事が入ってしまい、朝から学校に来ていないとのことだった。もしや、と思って用務員室に向かったけど、鍵がかかっていて開かない。
僕は空間の取引については伏せたまま、用務員さんに捕まったことを話したけれど、今一つ信じてもらえず、もう少し保健室で休むかい、ともすすめられてしまったよ。
さすがに、これ以上この校舎にいたいとは思えない。僕は断って帰ることにしたんだけど、つい気づいちゃったんだよ。いつもの習慣で。
この校舎の柱。変わらず34対しかない。あの用務員さんが手を下した証拠が、ここにあったんだ。
それから僕は、その学校に通い続けたけれど、柱は34対から増えることも減ることもなかった。用務員さんも見知らぬ人になっていて、あの話はずっとすることができずじまいだ。
卒業まで、校舎の柱はずっと34対だったよ。
あの36対あった校舎は何だったのか。いや、そもそも僕はどちらの人だったのか。
時々、分からなくなってしまうんだ。