クラスQとクラスAの実力差について
――たまに自分の存在が分からなくなる。
存在というか、輪郭というか、居場所というか…兎に角、自分が何者なのか分からない事がある。
今日も当たり前のように目を覚ます。脳が、細胞が、意識が徐々に覚醒を始める。
つい先ほどまで見ていた夢の記憶は宇宙の彼方へと飛び立ち、今はただ、これから始まる現実の扉に手を掛けていた。
不思議だと思う事自体が不思議なのだろうか。
そんな、どうでもいい事を思いながら、洗面台の鏡に映る自分の顔を確認する。
――お前は誰だ?
私の目の前で、私の知らない私が問い掛ける。
(サラサQだ。メシア女学園に所属するクラスQのメシア使い)
生まれ付きの褐色肌に何の混じり気のない純白の髪、赤い瞳、特に変わった所は見当たらない。今日も正常だ。
3日前までアマリリス部隊・最北支部でTVの殲滅作戦に参加していたが、殲滅に一定の目途が立った為、サラサQは皆よりも一足先にメシア女学園に帰還していた。
久々の学園だから、今日くらいはゆっくりと過ごせるのかと多少の期待をしていたのだが、メアリー学園長から直々に呼び出しを食らった。
寝巻を脱ぎ捨て、自分の小さな胸を改めて確認し、残念そうに溜め息を漏らす。
そんな日課を済ませると、顔を洗い、ボサボサの短髪を整える。
サラサQ自身は自分の身だしなみを気にするタイプでは無いのだが、今は亡きクリストファー教諭の言葉が脳裏を過る。
「どんなに多忙でも、身だしなみは常に完璧でなければならないわ。残念ながら、人間の印象は見た目で決まってしまうものなのよ。ましてや、奴隷出身という過去を持つあなたたちならば尚更ね」
そんなクリストファー教諭の教えがすっかりと身に付いていた。
そんなクリストファー教諭の顔を思い浮かべながら、改めて鏡に映る自分を確認する。
――お前は誰だ?
先ほどよりは幾分かマシになった顔をした自分が再び問い掛ける。
(私は、私だ!)
きっぱりと言い切れたならば準備は完了だ。
サラサQは着馴れた漆黒色を基調としたメシア女学園の制服に着替えると、名残惜しそうに見つめてくる部屋を後にした。
広大な敷地を様々な校舎や研究施設が建ち並ぶメシア女学園。
故に、普段から校内の施設など全く使用しないクラスQ所属のサラサQからすれば、馴染みの無い広大な敷地から代表室まで向かうのに、案の定というべきか完全に迷っている最中だった。
しかも周囲には緑色を基調した制服を着ている一般生徒ばかりだから、漆黒色の制服を着たサラサQの存在は随分と際立っていた。
(こんな時の案内図だ)
周囲に目立っている事に全く動じない冷静なサラサQは廊下の隅に設置されている校内の全体図が描かれた案内を睨みながら、現在地と代表室を線で繋ぎ記憶する。
「え~と、この赤い点が現在地だから… この先の建物を…」
「あなた、もしかしてサラサQですか?」
道順を必死で覚えている最中、不意にサラサQの背後から凛々しい女性の声が聞こえてきた。
(折角、道順を覚えているのに… 誰だ?)
不機嫌そうにサラサQが振り返ると、そこには灰桜色を基調した制服を着た金髪が綺麗な美人が立っていた。どこかで見た顔にサラサQは必死で思い出そうと首をひねる。
「生徒会長のユーフェミアAです」
「そうか、どうりで見た事があると思った…そんな生徒会長さんが何か用?」
能天気なサラサQに対し、ユーフェミアAがため息を漏らす。
「その黒い制服を着ているという事はあなたも代表室に用事があるのでしょ? 私もこれから向かう所だから付いて来なさい」
「なんで私が代表室に向かう事を知っている? 生徒会長はエスパーなのか?」
サラサQの台詞がボケなのか、天然なのか、図る余地もないユーフェミアAは再び溜め息を残してそれ以上は何も言わず代表室に向けて歩き始める。
そんなユーフェミアAの冷めた態度に肩を竦めるサラサQだったが、後に付いて行かない理由はない。
ユーフェミアAとすれ違う生徒たちは今日も憧れの眼差しで挨拶を交わす。しかし、その後を付いて歩く黒い制服を見て生徒たちはあからさまに不快な表情に変わる。
「何故、ユーフェミアAの後をあんな汚らわしい者が歩いているのですか!?」
「ユーフェミアAが汚れてしまいますわ」
「そもそも“クラスQ”は別館でしょ? 何故、こちらの本館に居るんですか!」
…などなど様々な陰口が容赦なくユーフェミアAの耳にまで届いて来た。
「あなたたち、如何なる差別もメシア女学園の生徒として許せませんよ!」
正義感の強いユーフェミアAが溜まらず一層すると、周囲の陰口は一斉に鳴り止む。
しかし陰口を浴びていた張本人であるサラサQは顔色一つ変えず、初めて訪れる本館の装飾を物珍しそうに眺めていた。
「別に良いよ。生まれた時からこの調子だ。逆に、お前は上辺の笑みを絶やさず歩く事に疲れないのか? そっちの方が哀れに映るぜ」
「な、何をそんな事…」
思いがけないサラサQの言葉にユーフェミアAは思わず動揺する。
「それよりもさっさと行こうぜ。学園長様がお待ちかねだ」
ざわつく周囲を余所にサラサQはユーフェミアAの背中を押して代表室に向かわせた。
※※※
代表室の前まで到着すると、室内から大きな声がはっきりと聞こえてきた。
「私は納得できません! 何故、汚らわしい“クラスQ”の生徒と同行しないとならないのですか!」
書記を務めるモーラAの幼い声だ。
驚いたユーフェミアAはノックも忘れ、慌てて代表室の扉を開く。
すると想像通り、ユーフェミアAたちよりも先に着いていた書記のモーラAが顔を真っ赤にしてメアリー学園長に抗議している最中だった。
その隣には長身で思わず美少年と勘違いする程にボーイッシュな容姿をしたルーチェルAが少々面倒そうに苦笑いを浮べていた。
「何かあったのですか?」
状況が把握出来ないユーフェミアAは代表室に入るなり尋ねるが、メアリー学園長は何も言わず肩を竦めると、代わりに未だに興奮が治まらないモーラAが自分の主張を話し出す。
「生徒会長! 私はこのメンバー編成に納得できないのです! 何故、実力も地位も底辺のクラスQと私たちクラスAが同行しなければならないのですか!?」
強い口調と共にメンバーが書かれた紙を突き出す。
「どれどれ…」
ユーフェミアAの背後に立っていたサラサQが興味深そうにモーラAが突き出した紙を奪い取り内容に目を通す。
「あっ! その汚らしい黒い制服! あなたが噂のサラサQですね!」
ようやくサラサQの存在に気付いたモーラAは興奮した様子でピョンピョンと跳ねながら今までで一番大きな声を上げて指を差す。
「なるほど。この件で私を呼んだ訳ですか、学園長様?」
「そうです。今回のマギーQ捜索には、あなたのメシアが必要になるでしょう」
勝手に話を進める2人にモーラAの怒りが更に増す。
「だ・か・ら、私は認めません! 殺人容疑のクラスQ捜索に共犯かもしれないクラスQの手など必要ないです。なんだったら私一人で充分です!」
主張を曲げないモーラAはまるで聞き分けのない子供みたいに地団太を踏む。
そんなモーラAの様子を見て根負けしたメアリー学園長は溜め息交じりにある提案を出す。
「分かりました。そこまで言うのであればモーラA、これからサラサQと一戦交えなさい。それであなたが勝てばメンバーの再構成を考えましょう」
その提案を待っていたように不満そうな表情だったモーラAから不敵な笑みが生じる。
「ちょっと待ってください。本当に良いのですか、学園長?」
戸惑うユーフェミアAが改めて問い質すが、メアリー学園長も不敵な笑みを浮かべていた。
「これは良い機会です。あなたも『クラスQ』が今回のマギーQ捜索の参加する事に抵抗があったのでしょ?」
「そ、それは…」
完全に心の中を見透かされていた。流石は実の母親と言った所か。
「これから1時間後、第2闘技場で試合形式のメシア開戦を行います。お互いに準備を済ませておくように」
他ならぬ、メアリー学園長の命令とならば逆らえない。
「面倒だな~。別に私抜きでマギーQの捜索に行けばいいじゃない…」
「お黙りなさい! そもそも、あなたが居なければ何の問題も無かったのです!」
不満そうに後頭部に両手を添えるサラサQに対し、対抗心を剥き出しにするモーラAは戦闘の準備を行う為に代表室を後にする。
「ルーチェルAはモーラAのサポートに付いてください」
「了解です」
「ユーフェミアAはサラサQに付いてください。恐らく、試合形式のルールなんて知らないでしょうから教えてあげてください」
メアリー学園長の言葉を疑うユーフェミアAは目を見開き驚く。
「ルールを知らない!? そんな素人を相手にクラスAと戦わせるのですか? 下手をすれば、死にますよ?」
そんなユーフェミアAの忠告にも似た疑問に対しても、メアリー学園長はただ微笑を浮べるだけだった。
1時間後――
モーラAとサラサQの対戦は瞬く間に学園中へと知れ渡り、第2闘技場には噂を聞き付けた多くの生徒たちが詰めかけていた。
しかも、その観客の全てはモーラAを応援する生徒たちばかりだった。
これから奴隷出身のメシア使いが無様に倒される姿を見たくて集まった生徒が大半を占めている会場は、前回の春季メシア競技評価大会とは異なり、応援というより滑稽な見世物を待っているような盛り上がりを見せていた。
会場に集まった生徒たちの雑音が微かに聞こえる会場内にある控室では、面倒そうな表情を浮かべながらも屈伸をして身体を解しているサラサQの姿があった。
そんなサラサQの姿を不可解そうな表情で眺めるユーフェミアAは顎先に手を添える。
本来、メシアと呼ばれる武器は特殊な透明素材で出来ている。しかも色は赤と青の2色と決まっている。しかし、会場の控室で既に準備を終えたサラサQが取り出している武器は、日本刀のような形をした琥珀色のメシアだった。
(あんな色のメシアがあるのかしら?)
初めて目にする色のメシアに対し、多少の疑問を抱くが当のサラサQ本人は特に気にする素振りも見せず、軽く身体を動かし準備運動を始めた。
「ルールは分かりましたか? 背中を床面に付いて10カウントを取られるか、関節技を掛けられてギブアップをしたら負けです。基本的に場外負けは無いので、逃げるにしても場所を考えながら…」
ユーフェミアAが必死に説明やらアドバイスを並べるが、サラサQは特に聞いている素振りも見せず準備運動を終えた。
――うぁーーーーー!!
会場から大きな声援が沸き起こる。どうやら、モーラAが先に入場した様だ。
「兎に角、危ないと思ったらすぐにギブアップしてください。モーラAはあの容姿ですが、メシア・フォーエバーマークの防御性能は学園内でも最高峰です。私のマリアライトでも全力を出し切って何とか貫けた程の…」
「ありがとな。優等生クラスは嫌な奴ばかりだと思っていたけど、あんなは良い奴だ」
まだ話している途中のユーフェミアAの言葉を遮るように、サラサQはユーフェミアAの肩に軽く手を添え、ゆっくりと闘技場に向かった。
サラサQが闘技場に入って来ると、モーラAの時とは対照的に会場が静まり返る。それはサラサQに罵声を浴びせたい所だったが同時に入場してきたユーフェミアAにまで罵声が掛かってしまう恐れがあった為に控える事しか出来ない、何とも複雑な気持ちを含めた沈黙だった。
円型の白いタイルで出来た闘技場の中央でモーラAが既に大きな盾を構えて待っていた。
「よくぞ逃げずに来ましたわね。それだけは褒めて差し上げますわ」
「そりゃあ、どうも」
減らず口を叩くモーラAに対して、既に飽き飽きしているサラサQは持っていた琥珀色の刀を面倒そうな仕草で肩に乗せる。
「それよりも何ですか、その薄汚い色をしたメシアは? 奴隷出身だと、まともなメシアも持たせて貰えないのですか。哀れ過ぎて少し同情してしまいますわ」
「そりゃあ、どうも」
挑発のつもりで並べたモーラAの言葉に対しても、サラサQは特に気に留める素振りを見せず適当に聞き流す。そんなサラサQの態度に対し、モーラAは益々機嫌を損ねて行く。
ユーフェミアAの先導でサラサQは大きな欠伸をしながらゆっくりとモーラAが待つ闘技場の中央まで歩み寄ると、モーラAの隣には既にルーチェルAが付き添っていた。
「大体のルールは聞いたかい?」
怒りに満ちたモーラAとは対照的に、爽やかな笑顔を浮べるルーチェルAがサラサQに尋ねる。
「確か、審判のはじまりの合図で始まるんだろ。それで審判は?」
「僭越ながら僕が任された」
そう言いながら、爽やかな笑みを絶やさないルーチェルAが肩を竦める。
「そうかい。だったら早くはじめてくれ」
「ちょっと、まずはメシアの確認を…」
急かすサラサQをたしなめるようにユーフェミアAが口を挟むが、サラサQは終始ユーフェミアAの言葉を聞く耳を持っていなかった。
「あなたって人は…大怪我をしても知りませんわよ」
「心配無いさ。仮に怪我をしても救護班がしっかりとスタンバイしているからね」
呆れた表情を浮かべるユーフェミアAに対し、ルーチェルAは得意げな表情で親指を立てる。
確かに、会場の端では救護班が常に待機しているのだが…
ユーフェミアAは呆れた表情のまま、戦闘の邪魔にならないように会場の隅まで移動した。
「それじゃあ、モーラAも準備は良いかい?」
「もちろん、ですわ」
怒り寄りの自信に満ちたモーラAの表情と、面倒そうに大きな欠伸をするサラサQの表情を確認したルーチェルAが右手を高く上げる。
「はじめ!」
ルーチェルAの号令と共に会場に試合開始を告げる鐘が鳴らされる。
「この学園に入学して以来、ずっと疑問に思っていましたわ。どうして、気品と誇りに満ちたメシア女学園にあなたたちみたいな汚れた存在を受け入れるのか。メシア女学園唯一の間違いを私がここで証明して“クラスQ”の存在意義を考え直して貰いますわ。メシア・フォーエバーマーク!」
モーラAの声に応える様に左手の青い盾が輝きを放ち始めると、その輝きと共に盾の中から剣が現れる。
その光景を見た会場中からは再びモーラAを応援する声が沸き起こる。
「圧倒的な力を持ってあなたを倒させて頂きます」
盾の中から現れた光り輝く剣を右手に持つと準備が完了する。
「う~ん…」
そんなモーラAを見てサラサQは冴えない表情で悩んでいた。
「どうしました? 私のメシア・フォーエバーマークを見て、怖じ気づきましたか。それも仕方がありません。この高貴なメシアは…」
「いや~、流石に救護班が居るとは言え、殺した人間までは生き返らせられないな。と思ってさ」
「何を言っていますの?」
首を傾げるモーラAに対し、サラサQは琥珀色の刀を見つめる。
「クリス先生はさ、いつも難しい事を言っていたから正直、私は殆ど先生のいう事を理解できなかったんだけど、一つだけ理解していることがあるんだ…如何なる理由があっても、人間を殺してはいけない」
そう言った後で微笑を浮べたサラサQは琥珀色の刀を構え「TVと違って人間相手だと、調整が難しいんだよな」と呟く。
「何をゴチャゴチャと言ってますの! あなたが来ないのなら、こちらから行きま…」
――ド――ン!!
まだモーラAが話している最中だった。
一瞬にしてルーチェルAの側に居たはずのモーラAの姿が消えると同時に、競技場の隅から砂埃が派手に上がっている。
「それじゃあ、帰るね」
「ちょっと待ちなさい… どこに行くつもりですか。まだ戦いは…」
何事も無かったように競技場から去ろうとするサラサQを呼び止めるユーフェミアAだったが、審判を務めるルーチェルAはすっと右手を挙げる。
「モーラA戦闘不能。従って勝者・サラサQ!」
審判をしていたルーチェルAがその凛々しい声で高らかに宣言すると、ルーチェルAは急いで会場の隅で待機していた救護班を呼び出し、砂煙の中へと向かわせた。
「まさか…」
次第に砂煙が治まるとそこには競技場の壁まで吹き飛ばされたモーラAが意識を失い倒れている姿が晒される。
「……………!?」
ユーフェミアAだけでなく会場中の生徒たちは言葉を失い、先ほどの声援が嘘だったかのように静まり返っていた。
この会場内に肉眼でサラサQの動きを確認できた者は居ないように思えた……いや、一人だけ冷静に試合を判断できた者が居る事をユーフェミアAは思い出す。
審判を務めていたルーチェルAだ。
(参ったね…まさか、サラサQの攻撃が速過ぎて、メシア女学園でもっとも洞察力に長ける私の眼を持っても残像を負うのが精一杯だった…そりゃあ、ユーフェミアA含め、この会場に居る誰もが何が起きたのか理解できないだろうね。
しかも一撃でモーラAを吹き飛ばす程の強力さ…圧倒的な速さと強さを兼ね備えたサラサQ。そんな彼女を今回のメンバーに加えたという事は…これから捜索するマギーQの実力はそれと同等かそれ以上という事なのかな?)
未だに意識を取り戻さないモーラAを救護班は担架に乗せ、急いで治療施設のある別館に運び出された。
未だに騒然とする会場に居る生徒たちは動揺と恐怖心を抱きながら、会場を去るサラサQに視線を注いでいた。
「はい、はい、試合は終わったよ。君たちも教室に戻って授業を受けてね~」
平然を装うルーチェルAが会場中に呼び掛けるが、それでも多くの生徒たちの足は会場から動けないでいた。
⇔
マギーQたちは2日半を費やして目的地であるメデジン地区に到着した。
道中、舗装の悪い凸凹道をずっと走っていたせいでマギーQの腰と背中は悲鳴を上げている。
上空には茜色と青藍が混ざり合い夜の帳が降り始めていた。車外に出ると乾いた心地の良い潮風がマギーQの髪を靡かせる。
そんな風に乗って、遠くの方から太鼓や笛の軽快なリズムを刻む音色が聴こえて来た。
そんな陽気な音に誘われるように、大通りに多くの人が混み合っていた。
人手不足で深刻なAC時代において、こんなにも多くの人混みは珍しい。
「姉さん、今日はイースター祭でっせ。この人混みだと車じゃあ進めません」
イースター祭…TVが大量発生し、多くの人々が犠牲になった直後からキリスト教から派生して誕生した比較的歴史の浅い宗教“イースター教”が主催する祭だ。
その目的は、やはりTVで犠牲になった人々の霊を慰める鎮魂祭だ。
「イースター祭…」
クンの言う通り、マギーQも街の様子を車窓から眺めると、多くの親子連れやカップルで大通りを占拠し車が通る隙など見当たらない状態だった。
遠くの方に見えるメイン会場には大きな焚火を起こし、その周りを黒装束に身を纏ったイースター教の信者たちが囲んでいた。そして信者たちは皆その場で跪き手を合わせると天に祈りを捧げていた。それに釣られて私服の一般人たちも手を合わせ各々の形で祈りを捧げている。
未だにTVが発生している情勢下で大規模な祭りが出来るという事は、このメデジン地区の治安がよほど良い事を示している。
――確か、南米支部にメシア使いは3名しか配置されていないはず。それほど小規模なアマリリス部隊が、膨大な南米という土地全域を網羅できるとも思えないわ。
ましてや、このメデジン地区は南米支部からかなり遠い場所にある。普通に考えればアマリリス部隊がこのメデジンの治安を完全に守る事は不可能だろう…だとすれば一体、誰がこの街の治安の維持に務めているのかしら?
そんな素朴な疑問を抱くマギーQだったが、今は全く進まないこの状況を何とか打破する事が先決だ。
「仕方ないわね。歩いてホテルに向かいましょう」
遠くの方から爆竹や花火が上がる騒々しい音が鳴り響くと、その度に観衆の悲鳴にも似た歓声が沸き上がる。
多くの屋台が道を沿うように永延と並び、芳ばしい焼き魚の匂いや甘い綿菓子の匂い、賑やかな装飾で行き交う人々を誘惑していた。この街もメリダと同じく海から近い事もあり屋台の多くには新鮮で豊富な種類の魚がたくさん並んでいた。
加えてこの地域は年間を通じて温暖な気候の為、未だにフードを深く被っているマギーQの姿は周囲から随分と浮いた存在となっていた。
この先も他の土地に移動するのであれば、そろそろメシア女学園の制服では何かと都合の悪い事態に陥る事も考えられる。
そろそろ私服の購入時かと思いつつも、この時間帯では服を売っているような店は閉まっているだろう。明日にでも街に溶け込むような私服を買いに行った方が良さそうだ。あまり目立つ事を好まないマギーQは深く被ったフード部分がズレないように手で強く握ったまま、今晩宿泊する予定のホテルへ向かう為、大通りからひとつ外れた閑散とした道に抜ける。
皆が無言で歩いている中、マギーQのお腹が空腹を訴える控えめな音を鳴らす。
(そう言えば、車の中に乗っている時から全く食事を摂っていなかった…)
「何か晩飯になるものを買ってきて欲しいのだけれど」
小腹を治めようとマギーQは後ろから来ていたサンタナとフルームに指示を出す。
「この街だと魚がメインみたいですが、それで良いっすかい?」
「構わないわ。悪いわね」
「姉さんの頼みなら、お安い御用でっせ」
サンタナとフルームは楽しそうに屋台が並んでいる大通りへと引き返して行った。あの様子を察するにマギーQの夜食を買うついでに自分たちの酒やつまみを購入するのだろう。
「それじゃあ、俺たちは一足先にホテルを目指しましょう」
クンとポートが先導する形でホテルへ向かう為に再び歩き始める。
騒がしい大通りから遠ざかるにつれ、海から磯の香りと穏やかな波の音が聞こえて来る。
そんな潮騒を聞いていると、マギーQは不意にクリストファー教諭と共に過ごした日々を思い出す………
まだマギーQがメシア女学園に入学して間もない頃の話し。
メシア女学園内の専用施設は奴隷出身であるクラスQには使用許可が下りなかった為、マギーQたちは学園郊外にあるメリーランドという海岸でメシアの授業を受けていた。
その時も心を和ませるような穏やかな波が立っていた。
メシアを扱うという事は一般人から逸脱した強力な能力を手にする事を意味する。その為にメシアの概念や仕組み、基本操作はもちろん、メシアを扱う者としての人間性、特に道徳心といった部分をクリストファー教諭は重点的に教え込んだ。
訓練は随分と厳しかった。体力的にキツかったのは当然だが、精神的にもキツかった。
しかし、そんな苦もサラサQを始めクラスQの仲間たちと協力し合う事で乗り越える事が出来た。
何より奴隷という身分から解放され、クリストファー教諭の役に立てる、或いは新たな挑戦が出来る事に対しての充実感に満ちていた。
初めて自分の未来に自由という名の光りが射し込んだように思えた喜び。本当の意味で生きているのだと実感できた。
授業が終わると海に沈む夕日を眺めながらよく会話をした。主にクリストファー教諭の人生観やこの世界の仕組みについてだ。
難しい話しは苦手だったが、マギーQはクリストファー教諭と一緒に居るだけで幸せだった。7才だった自分を奴隷から解放し、更に自分の人生に価値を見出してくれた。恐らく自分の人生全てを賭けても返せない程の恩をこの女性から受け取ってしまったのだとマギーQは信じて疑わなかった。だから『私はクリス先生の為に生きる』と若干13歳の少女だったマギーQは密かに決意した。
「良いですか、マギーQ。あなたは奴隷出身のメシア使いです。その事実は変わりません。その事で世間から不当な差別を受ける事もあるでしょう。しかし、それは決して恥ずかしい事ではありません。寧ろ、奴隷出身だからこそ見える景色があるのです。だから、如何なる時でも誇りなさい。そして未だにこの世界に居る奴隷をあなたが導くのです」
そう言いながら、クリストファー教諭は穏やかな微笑みを浮べマギーQの頭を優しく撫でた。
その時の大切な思い出も、永遠に途切れる事の無い穏やかな潮騒が子守唄のように響いていた。
だから潮騒を聞く度に優しいクリストファー教諭の顔を思い浮かべてしまい、自然と瞳が潤んでしまう。
涙が零れない様にと、マギーQはそっと空を見上げる。
「今宵の月は笑っているわね」
雲ひとつ無い夜空には多くの星々を見守ると同時に地上の全てを見下している月が怪しく輝いていた。そんな月は嘲笑いながらマギーQの心を見透かしている様で、慰めのつもりかウィンクを投げ掛ける。そんな憎たらしい月に負けない様にとマギーQは無理矢理ながら張りぼての笑みを返す。
マギーQの笑みに満足したのか、もう少しで満月を迎えそうな月はお返しとばかりに蒼い光を海に注ぐ。月の光に照らされた海は白波の輪郭を縁取りながら輝きを増していく。
「ありがとう」
月にそっとお礼を言ったマギーQは幻想的な海岸通りを黙々と歩き続ける。
20分ほど歩くと白とピンクで彩られた建物が一棟だけポツンと建っているのが見えて来た。
「あの建物かしら?」
「そうです。確か、ホテル・メモリーとかいう名前です」
小高い丘の麓に淡いピンク色のネオンライトが輝く、ホテル・メモリーはメデジンの街並みを一望できた。
3人がホテル・メモリーに到着し、入口の前に立つと独りでに白い大きな扉が開いた。
誰に招かれるでもなく、しかし何者かに誘導されるように建物の中に入ると、大きな黄金のシャンデリアが吊るされた豪華な受付ロビーが出迎える。
まるで異国に迷い込んだような錯覚に陥りながらも更に歩みを進めて行くが、赤い絨毯に金色の装飾は随分と使い古された事を感じさせる程に痛んでいた事で多少の現実感を取り戻す。恐らく西暦時代から代用品が無く、渋々ながら使い続けられているのだろう。
受付には1人の黒人女性が無愛想な顔で何を言うでもなく立っていた。
「先日に予約したクンなんだが…」
そんな黒人女性の表情を気に留める事無く、クンがチェックインの手続きを始める。
マギーQたち以外の客は見受けられず、ロビーは不自然なほど静寂に包まれていた。階段の踊り場には無数の真っ赤な薔薇が咲き誇る油絵が金色の額縁に入れられ飾られている。
マギーQは油絵を見る度にサラサQの顔を思い出す。何故だか理由は分からないが、サラサQは異常なまでに絵画に興味を示す事がある。しかも花の絵画となると更なる興味を示し、数時間も絵の前に立ちじっと眺めている。
――この絵を見ても、じっと眺めるのかしら?
そんな事を思いながらマギーQも階段の踊り場に立ち、腕を組み、しばらく薔薇の油絵を眺める。
「姉さん、4階の部屋だそうです」
チェックインを済ませたクンの声で我に返る。
不思議な物だ。この赤い薔薇の油絵からは、情熱よりも哀愁のような枯れた感情を訴えて来る。絵画とは、写真では決して映らない、描いた者の感情まで描かれている気がする。もしかすると、サラサQは画家の感情を覗き込もうとしていたのかもしれない。
クンが先頭に立ちマギーQを宿泊する部屋まで案内するが、このホテルも例外無く電気不足のためエレベーターは設置されていたが電源が入っていない。3人は薔薇の油絵が飾られている階段を使い最上階の4階まで登る事にした。
「どこかの王様でも宿泊するの?」
マギーQは部屋に入るなり目を丸くして驚く。
それは子供が十人くらいは裕に寝転がれる程の大きなベッドと8人程が同時に座れる程の大きなテーブルが置かれていたからだ。
「それじゃあ、俺たちは横の部屋に居ますんで」
そう言うとクンとポートは早々に部屋を出て行った。
パタンッと扉が閉じた瞬間、不意に静寂が訪れた。
――そう言えば、久々に独りになれたわね。
安堵すると同時に少しばかりの孤独を感じたマギーQは今までずっと着ていた茶色いローブを脱ぎ捨て、メシア女学園の制服姿のまま大きなベッドに倒れ込む。そして胸に仕舞っていたクリストファー教諭からの手紙を取り出した。
今まで何度この手紙を読み返した事だろうか…その度に何度となく同じ疑問を思い浮かべる。
「好機が訪れるその日までって… 何時なのかしら?」
それに“自分の組織を形成する”という意味が未だに理解できていない。
マギーQが様々な憶測を巡らせていると、部屋の外側から粗っぽいノックが響く。
「姉さん、新鮮な魚をたくさんと仕入れましたぜ!」
嬉しそうな声を弾ませながら部屋に入って来たのはサンタナとフルームだ。
マギーQは頼んでいた事と自分の空腹をすっかりと忘れていた。
「悪いわね。美味しそうな魚はあったかしら?」
「へっへっへっ。この辺の魚はどれでも新鮮で有名でっせ」
自信に満ちたサンタナは袋に入った焼き魚をテーブルに次々と並べ始めると、焼き魚の芳ばしい香りが部屋中に充満する。
そんな匂いを嗅いだマギーQの小腹が急激な食欲に支配された。
――腹が減っては何とやら……
それにしても料理の量が多過ぎる。とても一人では食べ切れそうにない。そう判断したマギーQは隣の部屋に居るはずのクンとポートを呼び、一緒に食事を取りながら明日以降の予定を話す事にした。
「姉さん、申し訳ねぇ。俺とポートはこれから馴染みの酒屋に行って情報屋仲間を訪ねます。そこで新たな情報を入手してきますんで、その情報次第で明日の行動を決めましょう」
そう言いながら部屋に入って来たクンは既に他所行きの洒落たスーツに着替えていた。
いい加減な顔をしている割に計画的な行動ができる男だ。マギーQは内心でクンの事を少し見直した。
「それで良いわ。気を付けてね」
クンが深々と何度も頭を下げながら部屋を出て行った。
「それじゃあ、3人で食べましょうか?」
サンタナとフルームに食事を誘うが2人とも気不味そうな表情を浮かべる。
「それが姉さん。俺たち何かあっちゃあ不味いと思い、一足お先に外で済ませちまったんすよ」
「そうなの。それは残念」
「俺とサンタナは隣の部屋に居ますんで。何かあれば呼んでください」
そう言うと2人も早々に部屋を出て行った。
またしても訪れる静寂にマギーQは気にする事無く食事を済ませる。
外からは未だに花火や爆竹の音が聞こえる。
早々に食事を済ませたマギーQは窓を開けて外の景色を眺める。
相変わらずの月が穏やかな海と祭に浮かれる街全体を蒼く照らし出していた。温かくも冷たくも無い心地の良い潮風が磯の香りと共にマギーQの髪を優しく靡かせる。同時にクリストファー教諭の優しい笑顔も思い出させ、マギーQの心はセンチメンタルに染まる。
どうする事も出来ない感情…生きる目的を失った自分の人生に何の意味があるのか? あるのは愛する者が残した手紙のみ――最近になり、クリストファー教諭と最後に話した時の事を思い出す。
あれはクリストファー教諭が殺害される前夜、彼女の寝室で2人きりで話していた。
「あなたの心も、常に私の心と繋がっているのよ。その真意をあなた自身が本当の意味で気付いた瞬間、きっと、あなたも私の苦悩が分かるはず…」
どこか切なく、哀しそうな彼女の表情を今でもはっきりと覚えている。
あの時の彼女の言葉が意味しているものが未だに何か、まだ分からない。
あぁ…クリス先生、あなたは何処までこの世界の真実を知っていたのだろうか?
願わくば、あなたの海馬に乗り、あなたの思考の海を泳ぎたい。
そうすれば、あなたの理想郷に辿り着けるのだろうか。
そうすれば、本当のあなたに少しは近づけるのだろうか。
そうすれば、本当の意味であなたは私を抱きしめてくれるだろうか。
幾度の夜があなたと私の距離を遠ざけたのだろうか。
こんなグロテスクな夜を剥がし取れば、私はこの苦悩から解放されるだろうか。
残酷で崇高なる睡魔よ、どうか私の脳を安らかに停止させておくれ――
マギーQは早々にベッドへと潜り込むが、頼りの睡魔は一向に訪れる気配を見せなかった。
そういえば、寝付けが悪い夜はよくクリストファー教諭の寝室に向かったものだ。すると、クリストファー教諭はいつもと変わらぬ優しい微笑みと既に温もった布団で迎え入れてくれた。
そんなクリストファー教諭の笑みを思い浮かべるとマギーQの心は余計にセンチメンタルに支配されるばかりだった。