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町へ帰る八月十五日。
いつもなら「やっと帰れる」とせいせいする駆だが、今年はこれまでになく、この地を去りがたく感じていた。
お昼ごはんを早めに済ませて、神社まで走る。息を切らせながら境内に入ると、政蔵が社殿の階段に座っていた。
駆に気づいた政蔵は、すっと立ち上がり、歩み寄る。
「来てくれたか」
「政蔵さん。あの、僕、お礼言いたくて」
「俺に礼を?」
「遊んでくれてありがとうって。僕、今まで、お父さんの田舎に来るの、そんなに好きじゃなかった。けど、政蔵さんが遊んでくれたから、ここにもいい所があるって分かった。政蔵さんがいなかったら、ずっとここが好きじゃないままだったと思う」
自然の中で遊ぶことで、学べたことがある。ゲームでは絶対に出来ない経験だ。これまで小さな画面だけを相手にしてきた駆に、政蔵と自然は、大切なものをたくさん教えてくれたのだ。
「お前は本当に、根の真っ直ぐな子やな」
政蔵は朗らかに笑った。
「礼を言いたいんは俺の方や。お前のおかげで、今年はいい時間を過ごせた。そいつも連れて来てくれたしな」
「え?」
政蔵の言葉の意味が分からず、駆はきょとんとなった。
すると政蔵が、顎をしゃくって、駆の背後を示す。振り返ると、見知らぬ男が一人、ぽつんと立っていた。
白いシャツに茶色のズボンを履いたその人は、泣きそうな顔で、じっと政蔵を見ている。
駆は、痩せぎすのその男と、どこかで会ったことがあるように錯覚した。
「やっと来たか。この俺を随分と待たせてくれたのう」
少し意地の悪い口調で、政蔵が言う。痩せた男の人は、身体をわななかせ、
「黒木少尉殿……」
と答えた。
「芳次、潮時や、もう行こうや」
今度は優しく話しかける政蔵。芳次と呼ばれた青年は、しゃくりあげながら頷く。
芳次、という名前に覚えがある駆は、その名を聞いてどきっとした。彼の正体を政蔵に尋ねようと思ったが、自分が口を挟める雰囲気ではなかったので、質問を喉の奥に流した。
「少尉殿。自分は、自分は、ずっと悔いておりました。みんなより先に飛んだにも関わらず、一人だけ生き延びてしもうた。少尉殿やみんなは、立派に務めを果たされましたのに、なぜこんな自分だけが生き延びたか……」
芳次青年の語る内容は、駆には理解出来ない。だがこの人が、心に大きな後悔と傷を負っていることは分かる。駆は、黙って二人を見守る役に徹した。
「少尉殿をお待たせしたことは、大変申し訳なく思っております。しかし、こんな自分がのこのことそちらに参ることが申し訳なく……今日までぐずぐずしておりました」
「誰もお前を責めとらんぞ、芳次。俺たちはみな、お前だけでも生きていてくれて、心底嬉しかった」
政蔵の言葉は力強い。
「一人で謗りを受けるのは辛かったやろう。よう耐えてくれた。ツユのことも感謝しとる。お前は本当に、ようやった」
「少尉殿。も、もったいないです」
「俺はもう少尉やない。昔みたいに呼んでくれんか」
芳次の双眸から、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。頬を流れる雫を無造作に拭い、芳次は少し笑った。
「政兄い」
喉から絞り出したような声で、芳次がそう呼ぶと。政蔵は満足げに頷いた。
芳次が、政蔵のもとへと歩いていく。
駆の横を通り過ぎた時、芳次は足を止めて振り向いた。
「駆」
芳次に名前を呼ばれ、駆は、はっと息を飲んだ。
彼を知っているかもしれないという錯覚が、にわかに現実味を帯びた。
彼は知らない人だ。だが同時に、よく知っている人物でもある。
「お前には何もしてやれんで、すまんかった」
駆は首を振った。
(僕こそ、何もしてあげられなくて、ごめんなさい)
そう伝えたかったのに、胸が詰まって何も言えない。
「悔いなく生きろよ」
優しい手つきで、駆の頭を撫でたあと、芳次は背を向けて歩き出し、政蔵の隣に並んだ。
二人の姿は、駆が見守る中、徐々に薄れていった。
「また会えるの?」
消えゆこうとする二人に、駆は問う。
政蔵と芳次は答えなかった。けれど、最後に微笑を浮かべ――。
夏草の匂いを孕んだ風の中へと消えた。
*
松崎宅に帰った駆は、居間にいた祖父母に訊いてみた。
「黒木ショウイさんって、知ってる?」
すると祖父母は、両目を開いて顔を見合わせたのである。
「ひいおじいちゃんの友達だったの?」
更に質問を重ねると、眉をひそめた祖母に、尋ね返された。
「駆、あんた、その人のこと、誰に聞いたん?」
さすがに本当のことは言えず、黙るしかなかった。しばらくすると、祖母が腰を上げ、居間から出て行った。
祖母が戻って来た時、その両手には、つやつやした黒い箱が抱えられていた。
箱は座卓の上に置かれ、蓋を開けると、中には古い書類や手紙が詰まっていた。
祖母は書類の束から一枚引き抜き、駆に差し出す。それは古い古い写真で、所々に折れ目が付いていたり、かすかに破れていた。
写真に写っているのは、二人の若者だ。どこかの民家を背景に、軍服を着て立つその二人が誰なのかは、教えられなくても分かる。
政蔵と芳次だ。
祖母はほっそりした指で、写真の若者を一人ずつ差す。
「こっちが黒木政蔵さん。こっちのひょろっとした方が芳次さん。駆のひいおじいちゃんやね」
おばあちゃんは柔らかな口調で、駆にも理解できる言葉で語り出す。
その昔、世界で大変な戦争が起きた時。
国中から若い男が集まり、兵士となって戦場へ向かった。
この村の男たちも、たくさん兵士になった。
駆の曽祖父、松崎芳次と、川奥生まれの黒木政蔵は、戦闘機乗りになった。
戦争末期、二人は最後の任務のために、沖縄の海に飛び立つ。
芳次の機体は、途中で不具合を起こし、引き返さなければならなかったが――。
黒木政蔵は、戻らなかった。
戦争が終わったのは、それから間もなくのことである。
「ひいおじいちゃんはね、戻ってきてからも辛い思いをしたんよ。生きて帰ったことを、ずうっと後悔しよったって。でも、それでも歯を食いしばって生きてったって」
駆は黙って話を聞く。おばあちゃんの言葉は静かに、けれどしっかりと、駆の心に滲み込んでいった。
「政蔵さんは、ひいおじいちゃんを弟みたいにかわいがってたんよ。面倒見が良くて勇ましくて、そりゃあいい男やったって、ひいおじいちゃん、よう話してくれた。政蔵さんを置いて一人で帰ってきたひいおじいちゃんは、長いことなあんにも手につかんかった。けど、お嫁さんをもらってからは、しゃきっと姿勢を正してね。人が変わったみたいに、よう働くようになったって。ひいおじいちゃんのお嫁さん――駆のひいおばあちゃんやね、その人は政蔵さんの妹さんなんよ」
政蔵の妹の名前は、ツユというそうだ。
家を継ぐはずだった政蔵を失った黒木家は、ツユが出産して後、遠くの親戚のもとに身を寄せた。お墓もそちらに移したのだという。
川奥に、黒木という家は、もうどこにもない。
その名残は祖母の、父の、伯父の、そして駆の中で生きている。
芳次とともに。
祖母に差し出された古い写真を、駆は手にとって見つめる。そうしているうちに、目の奥がひりひりしてきて、目尻からぽつりと雫が垂れた。
駆の雫は写真に落ちて、ビー玉のようなきれいな珠になった。
*
茜色に染まった道路を、駆を乗せた車が走る。
車窓の外に目を向ければ、過ぎ去っていく田園風景の中を飛ぶ、たくさんのとんぼの姿が見える。
少し前までは、父の田舎が好きではなかった。この景色に興味はなかった。
でも、今は違う。
来年もきっと来よう。その次の年も。そのまた次の年も。
あの人たちにまた会えるのかは分からない。でも、お盆は亡くなった人が還ってくるのだというから、どこかで会えるに違いない。
(大人になって、自分でお金を稼いで、好きな所へ行けるようになったら)
きっとその頃には、彼らのことをもっとよく理解出来ているはずだ。だから。
沖縄の海へ行こう。そこでもきっと会えるから。
遥か上空。二匹のとんぼが、駆の乗った車を追いかけている。
車が国道に乗ると、その後ろ姿に手を振るように、並んで旋回した。
車は遠くへ遠くへ、みるみるうちに去って行く。
見送り届けたとんぼたちは、透き通った翅を羽ばたかせ、天高く飛び上がる。
やがて小さな二つの影は、夏草香る風の中へ溶けていった。