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政蔵青年に連れられて、駆は村のあちこちを巡った。
何も見るものがないと思っていた村内だが、政蔵に案内されてみれば、いろいろと面白そうな所があったのである。
樹齢八百年といわれている、村で一番背の高い、立派なクスノキ。
鬼を閉じ込めた穴を塞いでいるという、奇妙な形の大岩。
狐が化かし合戦をしたと言い伝えられている“化かし塚”。
不思議な由来を持つ場所が、村には多数あったのである。
これまでの帰省で、父や伯父や祖父たちが、村を案内してくれたことは何度もある。けれど駆は、何を説明されても上の空で、ほとんど覚えていなかったのだ。
政蔵は、里山の生き物たちとの触れ合い方も教えてくれた。バッタやカエル、ザリガニ、名前も知らない小魚などは、駆の住む町でもよく見かける。が、捕まえて手に乗せたりなどしたことはなかった。
とりわけ、見たこともないほど大きなウシガエルには、心底驚かされた。政蔵の掌よりも大きくてふてぶてしいそいつは、名前の由来にもなった牛に似た鳴き声で、駆を威圧してくるのである。
駆は今まで、虫などの生き物に、大した興味を持たなかった。見た目が可愛くないし、足がたくさん生えているのは気持ち悪い。
けれど、政蔵と一緒になって生き物に触れているうちに、だんだん彼らに対する気持ちに変化が起きた。幼い駆の掌に収まってしまうほど、小さくて儚い命だが、懸命に生きているのだ。
その姿に、いじらしさと愛おしさを覚えた駆は、いつしか自ら生き物に触れるようになったのだった。
政蔵は、従兄弟たちよりも駆に優しく接してくれた。気さくで面倒見がいい彼の性格は、人見知りな駆の心を、たちまち開かせた。
会って間もない政蔵に対して、従兄弟たち以上の親近感を抱くのに、大した時間はかからなかった。
途中、商店に立ち寄り、二つに割れるアイスキャンディーを買った。お金を持っていないという政蔵の代わりに、駆がお小遣いで支払った。
割った片方のアイスを渡すと、政蔵は「子どもに奢らせてすまん」と頭を下げつつも、嬉しそうにそれを受け取るのだった。
道路に沿って歩き続けていると、山を背にした小学校に行き着いた。夏休みだから、校庭に子どもたちの姿は当然ない。
代わりに大人たちが集まって、何やら大掛かりな作業をしていた。校庭の真ん中に大きな台を置き、紅白の幕と提燈を、校庭を囲むフェンスに飾っている。
「明日の盆踊りの準備しよるなあ」
と、政蔵。
「明日?」
駆は、政蔵の日に焼けた顔を見上げる。そう言えば、学校で盆踊りをやるぞと、祖父が言っていたような気がする。毎年行われているはずだが、村に興味がなかった駆は、これまで盆踊りがあるかどうかなど、気にもしなかったのだ。
政蔵が頷く。
「おう。昔は十三、十四の二日間でしよったけどな。村人口が減ったから、祭りも一日減った。お前、来るか? 少ないけど出店も立つぞ。綿菓子とか、風船釣りとか、お面屋とか、かき氷とかな」
「うーん。どうかなあ。分かんない。政蔵さんは?」
家族以外に知る人のいない祭りに出かけるのは気が進まないが、政蔵がいるなら行ってみてもいい。そう思って尋ねたのだが、意外にも政蔵は首を横に振った。
「俺は行かん。あそこには用がない」
政蔵なら、はりきって参加しそうなのだが。案外と、騒がしい場所は苦手なのかもしれなかった。
セミたちの乾いた歓声に見守られ、二人の散策は続く。やがて野原にたどり着くと、そこには、たくさんのとんぼが飛んでいた。
「とんぼ、多いね」
とんぼたちを目で追いかけ、駆は空を見上げる。澄んだ青空と雲を背景に滑空するとんぼたちの姿は、小さな小さな飛行機の群れのようだった。
「八月になると、一気に増える」
駆の左に立つ政蔵が、呟くように言う。彼もまた、とんぼの大群を見つめていた。
「あいつらは、命を燃やして飛びよる」
山から吹き降ろす風に乗り、とんぼたちが空へ舞い上がる。青々と茂る夏草が海のように波立ち、緑の匂いが駆と政蔵を包み込んだ。
夕方五時、太陽は西に沈みつつある。あたりはまだ明るいが、家族が心配するからと、政蔵が早めの解散を言い出した。
別れ際に二人は、明日も一緒に遊ぶ約束をした。
明日はもっといい所に連れて行ってやる、着替えを持って来い。そう言い残して、政蔵は去って行った。
祖父母の家に帰った駆を、母親が出迎えた。母は息子を見るなり、驚いたような喜んだような、なんだかおかしな顔をした。
手を洗いに洗面所へ行き、鏡を見てようやく、母の反応の意味が分かった。
駆はすっかり日に焼けていたのである。政蔵みたいだ、と、ちょっと嬉しくなった。
お風呂に入った時、湯が肌にピリピリと沁みてすくみ上がるはめになったものの、心はどこか誇らしい駆だった。
あれほど外出をしぶっていた駆が、日に焼けるほど、どこでどんな風に遊んできたのか、家族はかなり気になったようだ。あれこれと質問してきたが、駆は「いろいろね」とだけ答えた。
政蔵のことは、黙っていることにした。知らない人物について行ったことがバレるのは怖かったし、政蔵が家族から不審者扱いされるのも嫌だったのだ。
自分一人だけがよそ者のような気がしていたところに、村人の遊び仲間が出来た。それも、ちょっと不思議な感じの、年上の人である。
自分だけの秘密として、もう少し家族には内緒にしておきたい駆だった。
翌日。約束の時間に神社に行くと、すでに政蔵が待っていた。昨日と同じような、タンクトップとカーゴパンツにスポーツサンダルという格好だ。
「着る物の代えは持ってきとるな」
「うん」
頷いた駆は、背負ったリュックを示す。
「ようし。じゃあ行くぞ」
そうしてまた、昨日と同じように、政蔵が先頭に立って歩き出す。
「政蔵さん、いい所ってどこ?」
「この時期にはぴったりの場所や」
政蔵が向かったのは、川の上流だった。川幅は下流よりも広く、底が深い。青緑の澄みきった水が、穏やかに流れている。岸辺に大きな灰色の岩や石がごろごろ転がっており、その対岸は山の岸壁である。
川の上には、山道へと続く橋が架かっていて、政蔵は橋の中央あたりまで、駆を連れて行った。
駆は欄干から少し身を乗り出し、下を覗いた。川面までの距離は五メートルほどだろうか。この高さからでも川底が見えるほど、水が透き通っていて、かなり深いであろうことが窺える。
政蔵が、おもむろにタンクトップとサンダルを脱ぎ捨て、カーゴパンツ一枚になる。ぎょっとする駆の視線にもかまわず、引き締まった上半身を惜しみなく晒した政蔵は、ひょいと欄干に登った。
「え、政蔵さん。まさか、ここから飛び込むの?」
「まさかも何も、そのためにお前をここへ連れて来たんぞ」
政蔵のとんでもない提案に、駆はぶんぶんと首を振った。
「僕もやるの? 出来っこないよ、すごく深そうだし」
「平気やって。村の子どもはみんな飛べる。お前もやれる」
「僕、ここの子じゃないよ!」
「この土地の者の血を引いとろうが。なんも危ないことはない、俺がおる」
「で、でも」
「泳げんのか」
「お、泳げるけど」
「怖けりゃ無理すんな。俺は行く」
政蔵がにやりと、いたずらっ子のように笑った。彼の身体が宙に躍り出る。瞬き一つの間に、青年は飛沫を上げて水中へと消えた。
数秒後、政蔵が水面から顔を出した。器用な立ち泳ぎで、橋上の駆を見上げ、駆を呼ぶ。
「来んのか? 気持ちええぞ」
決心がつかない駆をよそに、政蔵はすいすいと泳ぎ始めた。その姿がとても気持ちよさそうなので、駆の恐怖心は、徐々に収まっていった。
駆は五メートルの高さと政蔵とを見比べた。まだ完全に恐怖を克服したわけではない。でも、飛べないまま、政蔵に「いくじなし」だと思われたくなかった。
勇気を奮い起こしてリュックを降ろし、両頬をパンパンと叩く。Tシャツとサンダルを脱ぎ捨て、欄干に登った。
欄干の上から見下ろす川は、遥か彼方にあるように感じられた。真っ直ぐには立てず、へっぴり腰で飛ぶタイミングを計る。政蔵の視線が気になり、彼を見やる。政蔵は、しっかりこちらに身体を向けて泳ぎ、駆を見守っていた。
「……ようし」
大きく深呼吸し、心の中でカウントする。一、二の、三。
目をつむり、「えい!」と声を上げてジャンプした。身体が空中で踊り、風が耳元で鳴く。
落ちる、と思った次の瞬間には、駆は水の中にいた。
ぐん、と水底に向かって沈む駆。閉じていた目を開け、手足をばたつかせた。
深すぎて、当然足はつかない。駆は「落ち着け」と自分に言い聞かせ、水をかき始めた。
光の射す水面を目指して泳ぐ。顔を出した途端、むさぼるように呼吸した。
政蔵が泳いで近づいてきて、濡れた駆の頭をがしがしと撫で回す。
「ようやった!」
褒め言葉は、たったそれだけだ。でも、その短い一言の中に、政蔵の大きな労わりの思いを感じて、駆は嬉しかった。
初めての川泳ぎはちょっと怖かったけれど、やがて楽しさに変わっていった。澄んだ水に身を任せ、魚たちと戯れる。部屋にこもって携帯ゲームをやっているだけでは、絶対に出来ない体験だった。
やがて泳ぎ疲れた駆は、川べりの大岩の上で一休みすることにした。政蔵も隣に来て、ごろりと仰向けになる。
「政蔵さんは、この村で暮らしてるんだよね? 大学生なの?」
「いや、違うが、村には住んでない。毎年この時期に帰って来よるだけや」
「お盆だから?」
「ああ。けど、今年は少し違う」
政蔵は身体を起こし、片膝を立てる。
「人を迎えに来たんや。そいつが来るのを待っとる」
「誰を待ってるの?」
「仲間や」
短く答えた政蔵は、すっくと立ち上がる。
「俺は、明日村を出る。それまでにそいつが来てくれることを願うしかない」
「明日帰っちゃうの?」
「ああ」
「僕も、明日帰るんだ」
「そうか。寂しくなるな」
呟く政蔵は、駆を見下ろし、軽く笑う。
「明日の昼、神社に来れるか」
「たぶん大丈夫。おじいちゃん家を出るのは、夕方くらいだと思うから」
「分かった」
政蔵は頷き、顔を空に向けた。
「お前が来るまで待つ」