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父の故郷は、山に囲まれた盆地だ。ビルのような高い建物がなく、田園風景が延々続いている。
村は、大きな川を挟んで、二つの地域に分かれている。村の入り口の、国道に面した地域を“川前”、川を越えた山沿いの地域を“川奥”と呼ぶ。松崎の家は川前にあり、ここらでは一番大きな家だった。
川前には、特に見るものがない。田畑を縫って敷かれた道の所どころに、大小さまざまな地蔵があったり、何の記念碑か分からない、文字を刻んだ古い巨石があったりするが、小学五年生の興味をそそるものは一つもなかった。
道行く人も、あまり見かけなかった。畦道を歩く人や、畑にうずくまって作業している村人を数人見かけた程度だ。
今は夏休みなのだから、村の子どもたちが遊び回っていてもおかしくない。しかし、その姿を見ることはなかった。
稀にすれ違う村人は、「この子はどこの子だ?」という目で駆を見る。よそから来たのだということが、彼らには分かるらしい。駆が村の空気に馴染んでいないことを、一目で見抜いてしまうようだ。
村人以外で、動いているものといえば、田畑の上を滑空するたくさんのとんぼくらいだ。
セミの合唱響き渡る炎天下、遊べる場所を探してひたすら歩く。さっきは、都会に比べて暑くないと感じたが、それは、コンクリートに囲まれた場所と比べれば、照り返しがないだけましという程度のものだったのだと分かった。田舎であろうと暑いものは暑いのだ。
「どこでどうやって遊べって言うんだよ~」
吹き出す汗を手の甲で拭い、駆は文句をたれた。
学校の友達の中には、夏休みに家族で、ハワイやグアム、香港にシンガポールといった、海外旅行をする予定の子たちがたくさんいた。
友達の華やかなバカンスに比べて、自分はなんてついてないんだろう。落胆せずにいられない。
「行ってみたいなあ、ハワイとかさあ」
海外旅行は、駆の憧れの一つだ。だが、両親が提案する連休の過ごし方に、海外へ行くという選択肢が加わる可能性は低いと思われる。両親が海外旅行にあまり、興味を持っていないからだ。二人とも、国内旅行の方が、安全で安心できると主張して憚らない。
その意見には、駆も全面的に同意だ。しかし、たまには冒険してもいいではないか。
「大人になって、自分でお金稼いで、好きな所に行ってやる。絶対に」
小さな胸に、大きな野望を抱きつつ、駆はだらだらと歩き続けた。
川に差し掛かったので、橋を渡った。川奥地域に行くのは今日が初めてだ。だから、橋を渡るのも、これが初である。
橋の半ばで足を止め、川を眺めた。川幅は広く、透明で冷たそうな清水が、豊富に流れている。川上に目を向けると、これまで見かけなかった村の子どもたちが、水に入って遊んでいた。川下に石を積んで流れを堰き止めた、天然のプールである。
なるほど、村の子どもたちは、自然の中での遊び方を心得ているらしい。
涼しげで楽しそうな様子を、駆は羨望の眼差しで見つめた。
(あの川プール、楽しそうだな。水に入ったら、気持ちいいだろうな……)
でも、面識のない子どもたちに「仲間に入れて」と言う勇気はなかった。断られた時は、ショックを受けるに違いないのだ。
あきらめて、また歩き出す。
しばらく道なりに行くと、前方に神社が見えてきた。
雑木林に囲まれた、静かな場所だ。敷地の入り口に、古そうな石の鳥居が構えており、難しい漢字が書かれた青い幟が立てられている。
鳥居をくぐり、境内に入った途端、ひんやりした空気が、駆の火照った肌を撫でた。生い茂る木々が落とす影が、この場所を涼やかにしているのだろう。
地面は白っぽい小石で埋め尽くされ、歩くたびに、じゃり、じゃり、と音が立った。
ぐるりと辺りを見回したが、人の気配はない。セミたちだけが、ここでも元気な声を響かせている。
特に注目すべき所のない、平凡な神社である。社殿以外の設備は、手水舎と絵馬掛所だけで、社務所はなかった。
(ここでちょっと休もう)
もっと涼しい場所はないかと思い、社殿の裏手まで回ってみた。そこには堀池があり、濁った水の中で、黒い鱗の鯉たちが、のんびりと泳いでいた。石の上に亀の姿もある。その脇をアメンボが横切り、小さな水紋を残していった。
堀池の真ん中あたりには、まるで小島のようにこんもりした場所があった。
「なんだろう、あれ」
近づいて見てみると、小島はツツジやクチナシなどの常緑低木が生え、転がる石を苔が覆っていた。広さは大人が一人か二人、やっと立てる程度しかなく、板型に切り出した石を倒しただけの簡素な橋が架けられていた。
その小島には台座らしき御影石があり、その上に、茶色くて長い物体が、横向きに置かれていた。
物体は金属製のようだが、ずいぶん長い間野晒しだったようで、全体がすっかり錆びてしまっている。
なんだかロケットに似ているな。ぼんやりとそんなことを思いつつ、じっとそれを眺めている時だ。
駆の目の前を、一匹のとんぼが横切っていった。
とんぼは空気の中を滑るように飛び、旋回したあと、錆びた金属の物体の上に着地した。
何故だか駆は、そのとんぼから目が離せず、じっと見入った。すると。
「爆弾だ! 近づくな!」
突然、背後で大声がして、駆の心臓は飛び上がった。
「うわああああ!」
身を縮こまらせ、勢いよく振り返ると、いつの間にか一人の青年がそこに立っていた。
年は二十歳になるかならないか、くらいだろうか。タンクトップに、膝下丈のカーゴパンツ、スポーツサンダルという出で立ちである。むき出しの両手足は日に焼けていて、細いながらもしっかりと筋肉がついている。刈り込んだ短髪頭も手伝い、溌剌とした健康的な印象を受けた。
「だっ、だ、誰?」
おっかなびっくり、駆は誰何する。青年は小麦色の顔をほころばせ、愉快そうな笑い声を上げた。
「すまん。そんなに驚くとは思わんかった。許せ」
謝りはするが、少しも悪びれていない様子だ。
「お前、松崎んことの子やろう」
「え……っと、あの、いや、僕は」
いきなり馴れ馴れしい態度で訊ねられた駆は、返答に窮した。
見知らぬ相手に、自分のことをすんなり話してしまうほど、駆は人懐っこくなかった。最近は、いつ、どこで不審者が現れてもおかしくない。知らない人から声をかけられても相手にしないよう、両親や先生から言われている。田舎の人間であっても、油断してはいけないと思った。
青年は、駆が構えていることを察したらしく、苦笑いを浮かべた。
「近頃はいろいろ物騒で、町の子どもは気を張らんといかんから、気の毒やな。こういう狭い村に住んどると、村の子どもの顔と素姓くらいは、だいたい覚える。そもそも人数少ないしな。覚えるに苦労はせん」
「はあ……」
「お前はどう見ても村の子やないし、松崎の家に知らん車が停まっとると話に聞いた。やから、お前は松崎の筋の者やろうと見当つけただけや」
青年は、説明しながら駆の横を通り過ぎ、小島の石橋を渡って、台座の前に立った。
駆の、彼に対する警戒心は取り払われていない。が、あの物体の正体が何なのか、という好奇心に推されて、つい質問してしまった。
「あの、それ、爆弾……なんですか?」
「おう。村に落とされたやつの一つや。心配せんでええ、不発弾やし。ここ見てみろ」
青年は立ち位置をずらし、爆弾だという物体を指差した。駆は恐る恐る橋に進み出て、青年の指の先を見やる。
物体の表面の一部が切り開かれていて、内部の錆びついた機械部分があらわになっていた。
あのとんぼは、いつの間にかいなくなっている。
「な? 信管はとっくの昔に抜かれとる」
「もう、爆発はしないってこと?」
「爆発せんようになった上に、何十年も雨風に晒されて、すっかり錆びとる。もうどうにもなりゃせん。何なら上に乗ってみるか?」
青年の提案に、駆は全力で首を振った。例え不発弾であろうと、爆弾の上に乗る勇気はなかった。
その代わり、もう一つ尋ねる。
「爆弾、落とされたって、本当?」
「ああ。もう、ずっとずっと昔にな」
青年の答えはそれだけで、詳しい説明はなかった。
境内側に戻ると、今度は彼が駆に質問した。
「お前こんな所で、一人で何しよったん」
ごまかしの言葉がとっさに思い浮かばなかったので、駆は正直に答えた。
「えっと、ゲームばっかしてないで外で遊んで来いって言われて」
「ゲームか。最近の子どもは、そんなんばっかしよるよな。この村の子にすら、そういうもんを持つ者が増えよる。それで、遊び場を探して、うろうろしとったってことか」
「うん……」
素直に頷くと、青年は朗らかに笑った。
「お前は根の真っ直ぐな子やなあ。そんなら俺が、暇つぶしの相手しちゃる。来い」
言って青年は、駆の返事を待たず、すたすたと歩き出した。きっぱりしたその態度は、駆に反論する余地を与えなかった。
彼の足取りがあまりに決然としていたので、駆の足は、勝手に彼を追いかけ始めた。見えないロープに引っ張られているかのようだ。
駆がちゃんとついて来ていることを確認するためか、青年が肩越しに振り返る。
「俺は政蔵や。お前は?」
「ま、松崎駆」
「かける、か。男らしい、いい名前やな」
青年――政蔵は破顔し、駆の頭を、野球帽の上から撫でる。
たくましくて、大きな手だった。