1
青い絵の具でキャンパスを塗り込めたような空に、純白の綿に似た厚い雲が聳える。その足元には緑の峰が、地平線まで続いていた。
緑の峰の麓には、緑色の海が広がっている。
緑の世界を創りあげているのは水田だ。畦道で仕切られた田んぼに、瑞々しい稲が、すっくと伸びている。
空と山と田んぼの世界に、民家はぽつりぽつりと見えるだけだ。
水田を切り裂くように敷かれた車道を、駆を乗せた車は走っている。かれこれ三時間ばかりになるだろうか。
お盆の帰省ラッシュのピーク時間を避けるために、駆たち松崎一家は早朝六時に出発。一般道と高速道路を使い分け、途中休憩を挟みつつ、ようやく父の生まれ育った故郷の村に到着した。
(また、退屈な三日間が始まるのかあ……)
後部座席の窓から、田園風景をぼんやりと眺め、駆はもう何度目か分からないため息をつく。
毎年お盆の三日間は、父の実家で過ごすことになっている。母の実家は、駆の家からたった数キロ離れているだけなので、お盆に泊りに行くことはない。
帰省は、小学五年生の駆にとって、憂鬱な行事である。
村には、町育ちの駆が楽しめるものは、何一つない。ショッピングモールやコンビニは、車でなければ行けないほど遠い所にある。DVDのレンタルショップ、ゲームセンター、そんなものもあるわけがない。
日用雑貨や食品を取り扱う商店はあるけれど、子どもが遊べるような場所ではなかった。
あるのは、山と川と、見渡す限りの田畑だけだ。
暇つぶしのための携帯ゲーム機を、いくつかのソフトと一緒に持ってきたけれど、ずっとやっていればさすがに飽きる。飽きた時に、他の遊びがあればいいのだが、ここにはそれがない。
夏の遊びといえば昆虫採集だが、野山に分け入り虫を採る行為に、駆は興味をそそられなかった。
(だから来たくなかったんだ)
今回は母方の実家で待つから行かない、と両親に言ってみたのだが、その要望は通らなかった。逆に「今年は絶対参加」を言い渡されたのである。
春先に、曽祖父が亡くなった。病気ではなく、大往生だったそうだ。その曽祖父の初盆法要があるから、参加できる者は参加するように、との号令なのだった。
「もうすぐ着くって、兄貴に連絡しておいてくれ」
ハンドルをさばく父が、助手席の母に頼む。母はスマートフォンを耳に当て、間もなく電話に出た伯父と話し始めた。
駆はまだ十一歳だという理由で、スマートフォンもガラケーも買ってもらえなかった。ところが、同じ歳である友達の何人かは、もう持っているのだ。
自分だけの通信手段があれば、いつでも好きな時に、電話なりメールなり通信アプリなりを使って連絡を取り合えるのに。そうすれば、退屈を紛らわせられるのだ。
いろんなことが気に入らず、駆は一人、むっつりしたまま窓の外を見続けた。
外は風が吹いているらしい。冷房の効いた車内からは分からないが、蒸し暑い風に違いなかった。
吹く風に、田んぼの青い稲が揺れている。そのうねりは、まるで海原の白波のようである。
緑の波の上を、いくつもの小さな何かが飛んでいた。
風に乗って、つい、つい、と宙を滑り行くそれの正体がとんぼだと分かった時、車は一軒の農家の敷地内に入った。
父の実家の松崎家に到着した駆たち一家は、祖父母と、伯父夫婦に迎えられた。
従兄弟たちの姿はない。聞けば、大学生と高校生の従兄弟は、それぞれの友人たちと、旅行に行ったのだそうだ。
歳の離れた従兄弟たちとは、特別に仲がいいわけでも悪いわけでもない。が、会えばそれなりに相手をしてくれる。
彼らがいれば、遊び相手になっただろうに。あてが外れて、駆はひそかに肩を落とすのだった。
「まったく薄情やろうが、うちの子らは。ひいじいちゃんの初盆やぞ、みんなおった方がいいっちゅうのによ」
駆の伯父は、日に焼けた顔をしかめて唸る。
「その点、駆はじいちゃん孝行な子やぞ。いつも来てくれてありがとうな」
褒められた駆だが、そんなに嬉しくなかった。内心では、うまいこと法事を逃れた従兄弟たちが羨ましく恨めしかった。
本当は来たくなかったのだから、褒められても喜べるはずがない。むしろ昨日まで、なんとか帰省に参加せずに済むよう画策していた駆は、少しばかりの罪悪感を覚えたのだった。
初盆法要は、昼食後に始まった。
お坊さんの読経が、遠くの方で聴こえている。独特の抑揚がついた重低音の声は、ちょうどいい子守唄となって、退屈していた駆を、たやすく眠りに誘う。
こくりこくりと船を漕ぎ、本格的な居眠りに入る寸前、肩を強めに叩かれた。はっと我に返り、右隣を見ると、母が口だけを動かして「ちゃんとしてなさい」と叱ってきた。
駆はしぶしぶ姿勢を正して、お経を聴いているふりをした。
眠気は少し払えたが、今度は慣れない正座で足が痺れてきた。もぞもぞしていると、
「駆くん、足、楽にしとき」
後ろから伯母が、小声で言ってくれた。ほっとした駆は、ありがたく正座を崩し、あぐらをかいた。
(もう、早く終わってくれないかなあ)
しらけきった駆が願うのは、そればかりだ。
退屈しのぎに、家の中を見回す。
豪農だった松崎の家は、古くて大きい。古民家ってやつだな、と駆は思う。
クーラーがあるのは居間だけで、他の部屋には扇風機しかない。法要が行われている仏間にもクーラーがないので、障子と襖を開け放っていた。
外の熱気が、風と共に室内に吹き込み、扇風機によって拡散されている。おかげでみんな、背中や額に汗を滲ませていた。うるさいセミの声が、暑さを助長するようである。
しかし、法衣のお坊さんは、一粒の汗もかいておらず、涼しげな様子だった。
視線をぐるりと巡らせ、仏壇の上にかかった、モノクロの写真に目を留めた。在りし日の曽祖父の写真だ。
曽祖父の顔立ちは、その娘である駆の祖母に似ていた。よく見ると、父にも似ている。
駆と曽祖父は、ほとんど面識がなかった。物心ついた時には、曽祖父はすでに寝たきりになっていたからだ。
駆が覚えている曽祖父は、布団の中で眠っている、しわだらけの痩せた姿だった。会いに行ってもいつも眠っていたし、起きていても、言葉を交わすことはまずなかった。
駆は、曽祖父のことを、ほとんど知らなかったのだ。
よく知らない身内の初盆法要に、駆は参加しているのである。
法要が滞りなく終了し、みんなで揃ってお墓参りにも行って、ようやく一息つく。
大人たちは居間でくつろぎ、何やら駆には理解できない話題で盛り上がっている。
節電のためにクーラーは消され、障子が開け放たれていた。夏の外気はじっとり湿っていて、風が吹いても涼しいとは言えない。が、なんとなく田舎の暑さは、都会に比べて和らいでいるように、駆は感じた。
駆は一人、縁側に腰かけ、携帯ゲーム機で遊んでいた。脇に置いてある漆塗りの丸い盆には、よく冷えたラムネのビンと、おはぎが二つ載った小皿が並んでいる。ラムネは好きだが、おはぎは好きじゃないので、手をつけていない。
一時間ほど過ぎた。そろそろゲームにも飽きてきた駆だが、他にすることもないので、だらだらと続けている。
ふいに祖父に名前を呼ばれ、駆は振り返った。片膝を立てて上座に座る祖父は、ビールのせいで顔がサルみたいに真っ赤だった。
「駆、子どもがこんな昼間っから、そんな小せえ機械のおもちゃで遊ぶな。外に行って来んか?」
「でも、外に行ったって、どこで遊べばいいの?」
率直に疑問を口にすると、父を含む松崎の男たちが、けらけらと笑った。
「駆、お父さんたちが子どもの頃は、この村のあちこちで、駆けずり回って遊びよったんやぞ」
「だから、どうやって?」
田舎に帰ると言葉が訛る父に、駆は尋ねる。
「いろいろや。村の子どもらは、自分たちで、自分たちだけの遊びを作る。遊び道具は、自然の中にたくさんあるぞ」
その、自然の中での遊び方が分からないから困るのだ。と、駆は父に言いたくてたまらない。
そこへ、母が助け舟を出した。
「でも、結構危ないんじゃない? 川なんか特に。深い所に入り込んだりしたら大変よ。溺れたらどうするの」
(もっと言ってやってよ、お母さん)
駆は胸の内で母にエールを送るも、松崎の男衆には効果がなかった。
「自然を相手に遊ぶことで、自然の豊かさと怖さを、身体で知るんや。そうすりゃ、自然に対する敬いの気持ちも持てる。大事なんは、そういうことや」
伯父が訳知り顔で、父と頷き合う。
結局、説き伏せられた駆は、仕方なく近所を散策しに行くはめになったのだった。
母がついて来ようとしたのだが、駆はその申し出を断った。いくら気乗りしない村歩きとはいえ、さすがに十一歳にもなって、母親がついていなければ外で一人遊びも出来ない、などという目で見られるのは、かなり不名誉だ。
心配する母に、駆はしっかりと意思を伝えた。
「大丈夫だよ。遠くまで行ったりしないし。晩ご飯までにはちゃんと帰る。危いと思った場所には行かない」
自分の口からそこまで言ってしまったので、駆はいよいよ後に退けなくなった。
日避けに野球帽をかぶり、麦茶の入った水筒を肩から掛け、お小遣いをポケットに忍ばせて、駆は真夏の日射しの中に出て行った。