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ラファエルは夕食が終わっても、私が湯浴みを終えても、寝台に横になっても帰って来なかった。
ーー帰って、来なかった。
「 忙しいんだろうね、きっと 」
夕食までに戻って来たら、他の女と一回寝たくらい目を瞑ってやろう……いや、やっぱり湯浴みを終える前迄に戻って来たら、寝台に横になる前に戻って来たら………そうやって、何度も何度も言葉を変えて、自分が許してあげる時間を無駄に伸ばしてみたって、彼の特徴ある靴の音は聞こえて来ない。
「 堅物は忙しいんだな、うん 」
さっきからもうずっと、私は誰を励ましているんだろう。 誰を慰めて、誰の不安を除こうとしてるんだろうか。
でも、ラファエルは帰ってくる。
私が眠る前迄にはきっと、疲れた顔を浮かべながらも優しい微笑みで『 ただいま 』 と言ってくれるはず。
ーーー
ーー
「 うん、まだ眠ってないしね… 」
時計の針は、アレから何回示す数字を変えたんだろう。
ーー夜中になっても、ラファエルは帰っては来なかった。
そっと、瞼を閉じた時に脳裏に響いて来たのは過去の記憶。
『 俺さ他に好きな女が出来たんた 』
『 ポチ、本当ごめん、本気で好きな子が出来たんだ 』
『 ごめんなポチ、あの子って俺が守ってやらなきゃって思うんだよ、お前は素直で良い子だけどあの子は違うんだ 』
そんなしょうもない台詞を吐いてたのって、どいつだったっけ? ……忘れちゃった、何もかも。
ねぇ、ラファエル、貴方は今誰のそばにいるの? この三日間で完全に貴方の気持ちはあの女の人に染まっちゃった? ……だから、帰って来ないのかな。 あの人の手を選んだのかな。
私は、やっぱり駄目だったのかな。
「 ……っ、外が明るくなる迄なら許してあげるからさ 」
あぁ、私は誰を慰めているんだろう。
ーーー
ーー
『 他に好きな女が出来た 』
あれ、コレってデジャヴ? ……なんだ、そう言うことか。
繰り返されるんだよね、結局。
「 ……明るく、なってきちゃった 」
窓の外は暗闇が段々と薄れて、とうとう優しい色に移り変わってきた。 そのうち小鳥の囀りも聞こえて来るだろう。
ーー帰って、来なかった。
その事実だけが、鋭利な刃物になって私の心を引き裂く。 三日間も部屋を共にした男女が、四日目も帰って来ないなんて大人の私にはその意味は憎たらしいほど分かる……朝まで帰って来なかった意味なんて。
彼は、あの女騎士さんを選んだ。
ただ、それだけじゃないか。 何時だって繰り返されて来た私の男との結末じゃないか、嘆くことはない。 それがやっぱり私には相応しいんだろう。
『 本当の名を教えろ 』
でも、椿として受け入れてくれたのはラファエルの癖に。
「 ……っ、 」
一人で生きてきた私の鎧を、強くなる為に捨てたはずの感情を私に教えてくれたのはラファエルだった癖に。
『 私がずっとそばに居る 』
『 お前を死なせたくない私の為に、生きろ 』
温もりを、誰かが自分だけを見つめてくれる喜びを教えてくれたのは貴方のくせに、私を一人で歩けない様にしたのは……誰かに手を添えてもらって人生を歩く心強さを、甘え方を教えてくれたのはラファエルなのに。
どうして、諦め方を教えてくれなかったの。
「 …っ、どうしたら良いのさ 」
こんな時、どうしたら良いんだろう。 心が潰されて、もう、どうして良いか頭が追いつかない。息の仕方さえ忘れてしまいそう。
『 お前が生きてくれるならば、それだけで 』
ああ、そっか。
あの人はもう一度私に生きる為の命を与えてくれたんだっけ。 諦めようとした私を救ってくれたのはあの人だった。
私はもう、充分過ぎるものを貰ってたんだ。
「 生きてたら、きっと…っ、また良い事あるよね? 」
鼓動を刻む心臓に手を添えると、ボロボロと涙が溢れて来る。 ラファエルは私にとって正真正銘の初恋だった……初恋は実らないって誰かが言ってたよな。 そっか、だから仕方ないんだ。
なら、笑ってサヨナラをしよう。
「 ……っ、 」
そう思うのに、どうしても心がそれを認めたがらなくて私に反抗してくる。 離れたくない、そばに居たいって泣きながら訴えて来る。 でも、あの人には幸せになってもらいたい……本当は、私がそれを出来れば良かったんだけど、やっぱり私にはそんな凄い力は備わってなかったんだな。
「 ……っ、…エル 」
あの日、私の幸せをお前が決めるなって怒ってたラファエルの言う通り、私が幸せに出来るならなんておこがましい事考えちゃいけなかった。 彼の思う幸せなんて、彼にしか分からない。
『 ああ、私もだ 』
幸せだと言った私に、そう言って泣いてくれたのが少しでも本心だったならそれだけで充分なのかな。
「 ……エル、っ、ラファエル! 」
もう、高望みしちゃいけない。
彼の幸せを望むなら、私は清く身を引いてあげなきゃいけない。
「 ……っ、ラファエル‼︎‼︎ 」
未練がましい女なんてこの世で一番嫌いだったのに、それになってしまったなんて屈辱だわ。 私ってば、そんだけ彼に溺れてたんだな。
本気で、好きなんだな。
「 ……っ、ラファエル‼︎‼︎ 」
呼んだって彼はもう抱き締めてくれない。 寒空の下に素肌で放り出された気分だ、明日からどうやって生きて行こうって。
「 ……っ、嫌だラファエル‼︎‼︎ ずっと貴方のそばに居たいのにっ、他の女の所に行っちゃ嫌だよ!…っ、嫌だよ…… 」
何を叫んでるんだろう。 私はなんでこんなに泣いてるんだろうか。
あぁ、失恋ってこんな辛いなんて知りたく無かったのにな。
ーーー
ー
頭がまだボーッとする中、私はそれでも何とか体を動かして寝衣を脱いで生まれたままの姿でノロノロと力なく鏡台の椅子に近寄る。
「 あの女の人には、こんな醜い跡なんて無いんだろうな… 」
鏡台に映る私が、ヘソの辺りを押さえた姿で情けなくまたボロボロ泣いてしゃくりあげている。
「 …っ、ポチ? 私はそれでも椿として頑張って生きて行くから…っ、一人なんて慣れっこだし、また前に戻るだけだよね、簡単よね 」
唇を噛んで震えてる私の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちて来てて、何かもうどうして良いかよく分からない。
よく分からないけど、あの人の前では笑っていなきゃって思う。
「 ……っ、あいつは優しいもんね 」
言えなかったんだろう。
あんなに私に誓った後で心移りしてしまった事を、どうしても言えなかったんだ……彼は、優しいから。
だから、笑ってあげなきゃ。




