旅のはじまり
さわやかな風が吹いていた。
平地よりやや遅い春の訪れ。
高山の植物たちはみな、いっせいに芽吹き、つつましい小さな花を咲かせている。
白や黄色、ピンクに赤と、色鮮やかなかわいらしい花々が絨毯のように地を覆う様は、楽園のように美しい。
そんな美しい景色の中で、のんびりと寝転ぶ人影が一つ。
足首ほどの高さしかない花々に埋もれるようにして寝転んだ姿は、草色の長い長衣で身を包んでいるせいか、違和感なく風景に溶け込んでいる。
ちょうど子供と大人の中間くらい。
ほっそりとした体つきをした、あどけない寝顔の少女だった。
ロープのように細く長く編まれた髪は、白を混ぜたやわらかそうな茶色。
肌の色は黄色味を帯びたクリーム色で血色も良く、頬はほんのりと赤みを帯びており、みるからに健康そうだ。
少女の外見は、この地方に多く住んでいる黒い髪と目をした濃い肌色の人達とはだいぶ違っていたが、よそ者には当然の警戒心が全く感じられない。
着ている服も、下着のようにも見える丈の短い上下に薄手の長衣をひっかけただけ。
膝上までを覆う革の長靴も、遠くからの旅人にしては傷みもほとんどなかった。
持ち物もなく、ちょっとした散歩程度の軽装に見える。
「素芽」
ふいに少女が寝入っている花の絨毯のような場所からほんの少し離れた所から、声が発せられた。
崩れかけた建物の残骸と、その周辺を土地の人々は『遺跡』と呼び、あまり近づきたがらない。
しかし、声はその『遺跡』の中から聞こえて来るようだ。
「素芽」
それは明らかに少女に向けられた呼びかけだったが、当の少女が夢の世界から出てくる様子はない。
暖かな春の陽射し。
風に吹かれ、木の葉が揺れるサラサラという葉ずれの音。
かわいらしい鳥達の歌。
こんな場所での昼寝は、さぞ気持ちの良いことだろう。
しかし、少女を呼ぶ声の主には少女をこのまま寝かせておいてやろうという気はないらしい。
「素芽!」
ボリュームを上げた声の最後が、不安定に裏返る。
それに反応したのか、閉じられていた少女のまぶたがゆっくりと開かれる。
姿を現わした瞳の色は、萌え出たばかりの春草のような色。
やわらかな色をした少女には、この上なく似合いの色だった。
寝起きのぼんやりした表情で雲一つない青空を見上げる少女の顔に、ふいに人影が落ちた。
「そ、素芽」
足音も立てず、少女の頭近くに立った少年が呼ぶのは少女の名のようだ。
「起きろよ」
不安定な声を抑えるように喉に手をやって、少年は素芽と呼んだ少女の顔を覗き込んだ。
変声期なのだろう。
咳ばらいをしつつ言った少年の声は、不自然にかすれている。
青年になりかけの肉の薄い頬を赤く染めて、少年は怒ったように素芽に言う。
「起きろって」
ぶっきらぼうに言う少年を見上げた素芽は、事情を理解しているのだろう。
気を悪くするでもなく、幼児のように無防備な笑顔を見せる。
「・・・J」
そんな素芽にJと呼ばれた少年はため息をつき、ボソッとつぶやく。
「見つけた」
短い一言に素芽は眠そうにしていた目を見開くと、パッと弧を描くようにして足先から飛び上がり、ほとんど音も立てずに地面に降り立った。
「どこ?!」
まだ素芽のものと変わらない指先が向けられたのは、さっきまでJがいた遺跡の方。
指差しただけで動こうとしないJの腕を素芽が軽く押すと、同じようにJが押し返す。
催促するようにもう一度押すと、また同じことの繰り返し。
ふっ、とどちらからともなく笑いが生まれ、あはは、と大きな笑い声になった。
これは何度も繰り返されて来た、2人の遊びなのだろう。
2人はじゃれ合い、笑い声を上げながら、遺跡へと走り出す。
そうして着いた遺跡の崩れかけた壁の前で足を止めると、笑い始めた時と同じようにどちらからともなく笑いが消える。
「ここ」
神妙な面持ちで告げて、片膝をついたJが指し示した壁面に彫られているのは、2人には読むことのできない忘れ去られた古代の文字。
自分が指し示したその中の1つを素芽の目が捉えたことを確認すると、Jは着ていたシャツの襟元をぐっと後ろ側に引っ張った。
「どうだ?」
言われた素芽はJのくすんだ金髪をかき分け、首から肩へと繋がる皮膚の上に刻まれた印を確かめる。
濃い青色をしたそれは、この少年の名。
ただ1つ、読み方を教えられた古代の文字。
「うん」
示された壁の文字がJの首筋にある見慣れた印と同じであることを再確認して、素芽はしっかりと頷いた。
「同じだ」
嬉しそうに笑った素芽とは正反対に、暗い表情で目を伏せたJは沈んだ声で小さく言った。
「・・・そうか・・・」
晴れた日に似つかわしくない沈黙が流れ、重苦しいため息が吐き出される。
どれくらいその沈黙が続いただろうか、難しい顔で何かを考えこんでいたJの横ですっくと素芽が立ち上がった。
「J」
呼ばれて顔を上げると、素芽は眩しげに手をかざし、太陽を見上げていた。
「行こう」
小さな手を差し出して、背中で輝く太陽のように素芽は笑った。
「行こう、J」
その笑顔にしかめていた眉を解き、ほんの少し唇を曲げてJも笑う。
「ああ」
差し出された手を握って立ち上がり、素芽とJは並んで壁の文字を見下ろす。
探しに行こう。
この文字が、刻まれた理由を。
今ここにいる理由を。
押しつぶされそうな不安を感じたけれど、なぜか、この手があれば大丈夫だと思えて。
2人はどちらからともなく、繋いだ手をぎゅっと強く握りしめた。