第1話
「ジェームズさん! ジェームズさん!!」
ドンドンとドアを叩く音でアイリが飛び起き、その弾みにテーブルの上の資料を蹴り飛ばしてしまった。慌ててそれを拾い集めて机の上に直す。
そして朝になっていることに驚き、ソファの上で寝てしまったことに呆れた。まさかそこが今後自分の寝床になるだなんて夢にも思っていないアイリは、“起こしてくれればよかったのに”とつぶやく。
その間にもドアはドンドンと音を立てており、アイリは部屋の主を探した。しかしその姿は見つからない。
絶対に自分が出ていい相手ではないし、何より言葉が通じないのだから出ても意味はないと知っている。しかし、アイリは居留守に慣れていなかった。
音を立てまいとすればするほど体は強張り、移動しなければいいのに呼吸音が聞こえてしまうのではないかなんて馬鹿な思いにとらわれてそっと移動し始める。
そして足を何かに引っ掛けて派手に転び、大きな音を立ててしまうのだった。
「あ! やっぱりいらっしゃるんじゃないですか! 早く出てください、ジェームズさん!」
訪問者はさらに強くドアを叩く。
気まずい思いをしながらアイリが何に突っかかったのかと足元を見れば、ジト目でこちらを見つめるジェームズであった。
『きゃあ!?』
「え、女性の声……」
訪問者の声がしなくなり、ノックの音も消える。
「君のお陰で居留守を使えなくなった」
ジェームズはため息をつきながら起き上がると、身なりを整えてドアの前に立つ。
「隠れていたまえ」
けだるげに振り返り、手をパッパッと振る。
アイリが一瞬迷ったそぶりを見せれば、ジェームズは少しだけ考えてカーテンを指差した。
「あそこだ。あそこに隠れなさい」
指差す先のカーテンを見つめ、アイリは何も言わずにその中へと滑り込む。
それと同時に、アイリの耳にはドアを開ける音が届いた。
「あ、ど、どうも……朝から申し訳ありません」
ドアの向こうに立っていたのは若い警官だ。ジェームズはその警官が、少し困った表情を浮かべながら小さくため息をついたのを見逃さなかった。
「全くだ。君らスコットランドヤードは働く時間が決まっているのだろうが、私は自由職業だぞ。昨日の仕事は遅くまで続いて、今しがた寝たところだった」
薄っすら頬を赤くする警官を見ながら、ジェームズはなにやら勘違いをさせたようだと気づくも面倒すぎて弁解をしない。
「も、申し訳ありません……しかしグリーンスレード警部から急いで欲しいと言われていまして」
「君たちの都合で動くんだな。それで、用件は」
ジェームズが面倒くさそうにそう言えば、若い警官は気を取り直して居住まいを直した。
「それは署に来て頂いてからお伝えします」
一瞬静寂が訪れる。しばらく見つめあった直後、若い警官はハッとして再び顔を赤くした。
「あ、そ、そうでした。えーと、準備をして頂いて、それから署に、ということになりますね」
ジェームズではない誰かがいるのを思い出し、そしてそれが女性であることを思い出し、若い警官は慌てたように咳払いをする。
「なるべく早くにお越し下さい。例の件です」
その台詞にピクリとジェームズが反応したのを見て、若い警官はようやくホッとした。
グリーンスレード警部が“あれは適当な男だが、やる時はやるのだ”と評しているのを知っていたからだ。仕事モードに移ったのを知り、ようやく柔らかい笑みを浮かべながら去り際の挨拶をしようとした。
「それでは、後ほど――」
そこまで言って、若い警官の言葉が止まる。そしてみるみるうちに顔が赤くなっていくのを見て、ジェームズは若い警官の視線を追った。
「…………」
カーテンから覗く2本の白い足。
そう言えばアイリーンは丈の短いワンピースを着ていたなと思いながら、意外とその足が“女性らしい”ことに気づいて舌打ちをしそうになった。
「君はいつまでそうしているつもりだ」
「あ、いや! あの、す、すみません……! 失礼致しました!」
若い警官が慌てた様子で去っていくのを見送って、ため息をつきながら部屋のドアを閉めた。
その音と同時にカーテンの隙間からそっとアイリが顔を覗かせる。
「君の変装は実にヘタクソだな。そんなのでは私の相棒は務まらないぞ。もっとも君を危ない場所につれて行く気は微塵もないが」
心なしか言葉が通じないはずのアイリが申し訳なさそうな顔をしているのを見て、ジェームズはなんとも言えない表情になる。しかし言葉が通じていないのだから、と思いなおし、ジェームズは手をパンと打ち鳴らすと空気を変えるべく背筋を伸ばした。
「これからメイスン夫人に朝食を貰いに行こう。来なさい。君は私の小間使いなのだから、主に荷物を持たせるようなことをしてはいけない。少しずつここでの生き方を学ぶんだ。いいか?」
アイリに歩みよってそう語りかけ、その背に手を添えて外へと連れて行こうとする。
そこでふと立ち止まって視線を上の方へやった。
「そう言えば女性は他人に会うときには、馬鹿馬鹿しいほどに時間をかけて身支度するものだったな」
そうつぶやいて再び何かを考え始め、やがて小さく頷くとアイリをソファに座らせた。
「ここで待っていなさい。私が朝食を取ってこよう。いいか、これは今日だけだ。明日から私よりも早く起きて同じことをするように」
言葉が通じていないと知っていながらよく喋る人だな、と思いながら、アイリはその背を見送った。意外と紳士的であることに驚きながら、そっと立ち上がって窓の方へ寄る。
窓の外には見たこともない景色が広がっていた。まるで映画の中のようで、空は昨日と変わらず曇っている。窓にフーッと息を吹きかければ、窓が白く曇っていった。そこに“My name is Airi Katayama. I am Japanes.”と書く。
すると、突如後ろから手が伸びてきて、Japanes.の最後に“e”が付け足された。
「正しくはこうだ。君は文字が書けたんだな。と言うことは言葉もわかっているのか? 早く言いなさい」
挙動不審気味にアイリが目を泳がせる。
その後に上手く嘘をつきとおせる自信も無かったので、アイリは観念して小さくため息をついた。
「私は英語を話します。少し。それから、私は英語を書きます。少し。しかし、本当に本当に少しです」
「……酷い発音と文法だ」
手に持った朝食を見つめながらどうしたものかと考えたジェームズは、ぐうとアイリの腹が鳴ったのを聞いて手に持っていたトレーを差し出した。
「とりあえず食べなさい。これは君のぶんだ」
少し頬を染めたアイリが大人しく受け取り、2人は静かな朝食を取り始めた。
この時、ジェームズはまだ知らない。
グリーンスレード警部がどうして早朝からジェームズを起こすようなことをしたのかを。