第3話(終)
「あら、そちらはどなた?」
アイリがベイカー通り221Bに連れて来られ、ドアの外に立った瞬間、あまりにも有名なその住所を見てアイリは眩暈がした。まさか自分は過去に飛ばされてしまったのかと絶望していると、女性の声が聞こえてきたのである。
「やあ、メイスン夫人。丁度今紹介しに行こうかと思っていたところだ。我々の新しい同居人であるアイリーン。アイリーン、こちらはメイスン夫人。我々の下宿先の女主人だ」
「まあ、なんてこと! 女の子を泊めるだなんて頭でもおかしくなったの!?」
「メイスン夫人、これには深いわけが――」
「いいえ、ハドソンさん。言い訳は聞きませんよ。この子の両親はどちら? どうみても外国の方のようですけど、一体なぜこんな事になったのか説明して頂きましょうか。いいこと? 必要なのは言い訳ではなく説明ですからね」
アイリは気づいてしまった。
ジェームズが小さく“また面倒なことを”とつぶやいたことに。
「メイスン夫人。この子の両親は亡くなっている」
そう言いながらジェームズが痛ましげな顔をすれば、メイスン夫人はわずかに顔をゆがめた。すると再びジェームズが小さく“……疑っているな”とつぶやく。どうやら普段の行いが悪いらしいと知ったアイリは、心中で盛大にため息をついた。
「友人が旅行先で出会ったらしいのだが、両親を不慮の事故でなくして記憶が飛んだらしい。だから多少おかしな行動をすると思うが、どうか大目に見て頂きたい。当然言葉もわからないから、暇があれば教えてやってくれると大変に助かる」
「よくもまあそうスルスルと嘘が出るな」
小さくつぶやいたハドソンに、ジェームズの肘鉄砲が入る。
「あら、あなたにハドソンさん以外のご友人がいたとは驚きですこと。それでどうしてそのご友人とやらが面倒を見ないのかしら? それよりも施設に預けるのが先ではなくて?」
「それは我々も考えたのだが、彼女に施設の職員を見せたところ、相当に怯えて失神した。彼らと話し合って私が引き取ることにしたというわけだ。どうも彼女の過去が深く関係しているらしい。それから私の友人は引き取れない事情がある。なにせ友人は既婚者だからな」
チクリとした嫌味に動じることも無く、ジェームズはしれっと嘘をつく。
しばらくジェームズの目をジッと見つめていたメイスン夫人は、やがて小さくため息をつくと組んでいた腕を下ろした。
「少しでもこの子が危ない目に会いそうだと思ったら、私はすぐにでも警察なり施設職員なりに連絡をしますからね。いいこと? 絶対に、ここで問題を起こさないように」
「よく心得ている」
「よく言う」
ジェームズは恭しく礼をとると、玄関ドアをくぐって行った。
* * * * * *
『まさかシャーロックホームズの住んでいる住所と同じだなんて……英語圏だとは気づいていたけど、イギリスだったなんて思わなかった。一体どうなっているの……?』
部屋に通され、アイリはソファに腰掛けて頭を抱えていた。
2人は“個人的な話”をするために部屋を外しており、今このゴチャゴチャとした部屋の中にはアイリしかいない。床にも机の上にも資料が散乱しており、ジェームズには身振り手振りで“消して触るな”と言われた。言葉は理解していたので頷けば、安心したように出て行ったというわけだ。
部屋の棚には動物の標本や骨などが置いてあり、鉢植えには見たこともない植物が植えられている。
『でもシャーロックホームズは架空の人物だから、ここはただの過去ってことになると思うんだけど……現にあの人の名前は違うし。ここは過去ってことでいいんだよね? 見た目が今のイギリスとは全然違うもん。問題はなんで過去に飛ばされたか、なんだけど……しかも言葉はわかるのに話せないし。いや、全くわからないよりはいいんだけど……向こうは私の言っていることがわからないみたいだしなあ……』
飛ばされた切欠は全くわからなかった。目を閉じて開いた次の瞬間には、あの場所に立っていたのだ。直前の行動はよく覚えている。駅に向かう途中、忘れ物をして家に取りに帰ったのだ。玄関で鞄を置いてうつむきながら靴を脱いで、顔を上げて瞬きをした。これだけだ。
『うーん……取りあえずは旅行と思って楽しむしかないのかなあ……あのメイスン夫人って人も優しそうだったし……』
そう言ってため息をついた。
ソファに寄りかかって天井を見上げる。焦げた跡がいくつもついているのを見つけ、アイリは少しだけ不安になった。
『……私、大丈夫かなあ』
アイリの意識が少しずつ不明瞭になっていく。
やがてまぶたが重くなっていくのを感じ、“ああ、こんなところで寝ては駄目だ”と思ったときには全てが遅かった。
* * * * * *
「だからそれはアイリーンに聞かないとわからないと何度も言っているだろうが! というか、そもそも言い争うのも無駄なくらい、君の責任の方が大きいと思うのだが。第一、私は新婚だぞ。良い年の少女をそう何度も預かることはできない。なんだったら彼女の意見も聞くか? おい、アイリーン。君は――」
声を荒げながら部屋に入ってきたハドソンは、ソファの上で丸くなっているアイリを見つけて慌てて口を押さえた。
「どうした――なんだ寝ているのか」
突然口を押さえたハドソンを見ていぶかしげな顔をしていたジェームズは、同じくソファの上で寝ているアイリを見て呆れたようなため息をつく。
「アイリーンはなかなかに図太いようだ。奴隷商に捕まったのに泣きもしていなかったのを不思議に思ってはいたが」
「疲れたんだろう。だが、これで聞くまでもなくなったな。彼女は君のソファがお気に入りらしい。アイリーンの寝床は今日からここだ」
「おい、冗談はよせ。この手のことはお前が得意だろうが」
「ジェームズ。まさか自分で連れてきたことを忘れているのか?」
見つめ合う2人。
しばらくそうしていたが、やがてジェームズが口を開く。
「表だ」
「では裏を」
ジェームズによって投げられたコインは宙を舞い、目をつぶったハドソンがそれをキャッチする。その手に2人の視線が集まる中、ハドソンはそうっと重ねられた手をどけていく。
「決まりだな」
どけられた手には裏返ったコインが乗っていた。
「ジェームズ、アイリーンは君が引き取れ」
「…………」
不満げな顔をするジェームズの肩を叩くハドソン。
「そんな顔をするな。これは君がまいた種だ」
「だがこれは私と君の事件だ。それに何も私はずっと君に引き取ってもらいたいと言っているのではなく、週何回かお願いしたいと言っているんだ」
「君が懸念していることを言い当ててやろうか? “女が連れ込めなくなる”この一言だ」
「…………」
図星を言い当てられて不満げな顔をするジェームズに、意地悪そうな笑みを浮かべたハドソンは再びポンと肩を叩くと部屋を出て行った。