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カイン・ジェームズ ― ロンドン探偵 ―  作者: 森野 乃子
奴隷商人と少女とヒモ男
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第2話

「ぐっ……!」


 アイリの手を引くジェームズが、建物の影から伸びてきた手に引っ張られて裏路地へと引きずられていったのは、奴隷商の男からアイリを買い取って5分もしないうちであった。

 壁にたたきつけられ、ジェームズが苦しそうな声を出す。引っ張られたアイリも転びかけ、慌ててジェームズの服へとしがみついた。


「おい、君はいつペテン師になったんだ? ジェームズ」

「人聞きの悪いことを言うのはやめてくれ、ハドソン君」


 ハドソンと呼ばれたまさにイギリス紳士といった容貌の男が、ジェームズを睨みつけながらその胸元を締め上げている。こげ茶色の髪に緑の目。口ヒゲは綺麗に整えられおり、ジェームズと違って清潔感がある。オールバックにした髪からは整髪量の良い香りがした。


「手を……離してくれ。君の力は強すぎる」

「なぜ少女を買ったりした!」

「あれが一番穏便に事を運べるからだと言ったのを聞いていなかったのか? だいぶ前から君が私の後をつけていたのを知っていたつもりだったが。君が警察に連絡してくれたのを知っているよ。礼を言おう」


 遠くに聞こえる“いつもとは違う喧騒”に口角をゆるく上げながら、ジェームズはハドソンを意地悪そうな眼で見た。


「ところで君が私をつけていた理由はあれだろう。君の部屋にある本を借りた時に染みをつけて返したのに気づいたから」

「違う! というか、そういうのは一言いってから返すものだろうが……!」


 大きなため息をつきながら、ハドソンがジェームズの胸元から手を離し、ジェームズは大きく深呼吸をして胸元を正した。


「私はまた君が面倒ごとに首を突っ込むのだと――いや、それはどうでもいい。それよりもその少女のことだ」


 2人の視線がアイリに集中し、アイリはわずかに肩を揺らす。


「奴隷商は確か言葉が通じないと言っていたな。どうするんだ、ジェームズ。アジア大使の娘さんなんだろ?」

「私が本当のことばかり言う男ではないのを、君はよく理解しているはずだが」

「……まさか」

「大使は確かに家族で訪れてはいるが、家族そろって英語が堪能だ」


 真上で繰り広げられる応酬に、アイリは冷や汗を流す。

 どうやら自分が助けられたらしいことはわかったが、それが一時しのぎであることも理解していた。なぜならジェームズとの面識が一切無かったからだ。それに値引きしたのをアイリは少しだけ恨んでいた。

 2人とも常識はありそうだが、万が一のことを考えると今すぐにでもここから走り去りたい気持ちでいっぱいだ。

 そう思って、少しずつ、少しずつ距離を離していった。


「待ちなさい」


 パシリとジェームズ手首をつかまれ、アイリは小さく飛び上がって驚く。


「いいか、ハドソン君。これは私の小間使いだ」

「君は奴隷推奨派と言うわけか!」

「そうじゃない。小間使いだ。しばらくの間、ということになると思うが」

「小間使いも奴隷も一緒だろうが!!」

「全然違うぞ」


 なにやら揉め始めた男2人を見ながら、アイリは可能な限り2人と距離を取った。なぜならこの騒ぎに何事かと覗き始めた野次馬の視線が気になったからだ。野次馬は次々と集まり始め、“なんだ、痴話喧嘩か? お巡りを呼ぶか? まだそこらにいただろう”という声まで聞こえてくる。

 しかし、この男達にはその声が全く聞こえていないようなのだ。


「ハドソン君。君は私が警察にこの少女を差し出すのを、本当に良いと思っているのか?」

「当たり前だ。親が捜しているはずだろうが」

「君は随分と楽観的だな」


 呆れたような物言いに、ハドソンの顔がしかめられた。しかし真面目な顔をしたジェームズを見て、きっと何か彼らしい理由があるに違いないと喉元まで出かけた言葉を飲み込む。


「彼女には恐らく家が無い」

「なぜだ? 身奇麗にしているだろう」

「そこだよハドソン君。足を見ろ。彼女は裸足だ。だがその割りにほとんど汚れていないし、傷もついていない」


 ジェームズがかがんでアイリの足をつかんだせいで、アイリはバランスを崩して前のめりになる。それを少し慌てながらハドソンが支えた。


「つまり?」

「奴隷商の男はこう言っていた。“急に目の前に現れた”とな」


 真面目な顔でそういうジェームズに、ハドソンは鼻白んだような顔を向けた。


「そんな馬鹿なことがあるか。魔法だとでも? 馬鹿馬鹿しい」


 アイリは内心で“たぶん、そのまさかなんだよなー”と思いながら、2人にばれないように小さくため息をついた。


「それを調べるのが我々の新しい仕事だ。仮に“急に目の前に現れた”のだとしよう」

「先に言っておくが私はこの“仕事”にはのらない」

「この国の言葉がわからない彼女の家は、この国にはないだろう。当然ビザも金も何もないはずだ。となれば、警察はこの少女をどうすると思う?」

「……まあ、ひとまずは施設に入れるだろうな。外向けように国外へ失踪者の案内を出すとは言うだろうが、探しはしないはずだ」

「それだと非常につまらないと思わないかね。いいかい、ハドソン君。これは今世紀最大の楽しい謎を秘めた事件だよ」


 前髪の奥の目がキラリと輝いたのを見て、ハドソンは大きなため息をついた。


「どうなっても知らないぞ」

「これからの生活が楽しくなりそうだ」


 スキップでもしそうな男を目の端で見送って、ふとハドソンの動きが止まる。


「待て」

「ぐっ……!」


 ハドソンの杖がすでに歩き出していたジェームズの喉を捕らえると、ジェームズは苦しげな声を出した。


「何をするんだ」


 喉元をさすりながら振り向くジェームズに、ハドソンは杖を突きつけながら畳み掛けるようにして言った。


「君はこのどこの誰とも知れない少女を私達の家に住まわせる気か!?」

「それ以外、どこにやると言うんだ。君はまさか奴隷制度反対と言っておきながら、“奴隷でもない小間使いの少女”を庭か物置に寝かせる気か?」

「そうは言っていない……! だが少女といえど彼女は女性で――せめてメイスン夫人に頼めないのか!?」

「おいおい、ハドソン君。君はまたメイスン夫人に迷惑をかけるつもりか? これ以上迷惑をかけるのは、紳士としてどうかと思うが」

「どの口が言うんだ? 迷惑をかけているのは概ね君だぞ、ジェームズ……!」

『あのぉ……』


 ピタリと男2人の動きが止まる。

 声の出所である少女に、2人の視線が集まった。


『あ……えーと……た、助けて頂いてありがとうございます』


 呼びかけたものの、アイリはなんと言っていいかわからずにひとまず御礼を言った。しかしその言葉は通じず、2人の男は顔を見合わせるとゴクリと生唾を飲み込む。


「残念ながら私には君の言葉が全くわからない。そしてそれはこの男も同じだろう」


 そう言ってジェームズがハドソンを差せば、ハドソンもぎこちなく頷いた。

 ここでふとアイリの中に1つの疑念が浮かぶ。

 そう言えばまだ自分の身の危険が去ったわけではないのだと。うっかり言葉を理解しているようなそぶりを見せればどうなるかわからないと思ったアイリは、言葉を知らないフリをした。

 簡単に言えば首をかしげたのである。そしてそれはとても効果的であった。


「ああ、やはり君もわからないか。だが安心しなさい。私が君を養ってあげよう」

「ヒモ男が誰かを養うとは興味深い」

「君は時々私の心をえぐるな」


 鼻で笑ったハドソンをジェームズがジト目で見つめるものの、ハドソンは少しばかり肩をすくめて視線をそらした。


「……まあいい。私の名はカイン・ジェームズ。これはジョアン・H・ハドソンだ。わかるか?」


 アイリは少し視線を彷徨わせた後、首をかしげる。するとジェームズは“わからんか”とつぶやいて何度か自分の名前を繰り返した。


「ジェームズ……ジェームズ、だ。君の名は?」

『ジェームズ、さん……』

「ああ、私はジェームズだ。これはハドソン。わかるな? さあ、君の名前を言いたまえ」

『片山アイリです』

「カタヤマアイリデス? 変わった名前だな。まあいい。カタヤマアイリデス。私達の家へと案内しよう。豪邸ではないが住みやすい良い場所だ」

『え? 違います……! 片山アイリ! アイリまでが名前!!』


 必死に呼び止めるアイリを見て、ハドソンの方が片眉を上げる。


「おい、“デス”はいらないようだぞ」

「なんだ、カタヤマアイリか。どちらにしろ分かりづらいな。よし君は今日からアイリーンだ」

『んな適当な……!』

「来なさい、アイリーン」


 すでに歩き出しているジェームズと、ため息をつくハドソン。

 その後をアイリが追っていく。

 やがて3人の影は人ごみの間に消えていった。

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