事の起こりは些細なことから。
「安イヨ安イヨ~!」
天候は曇り。太陽の光は一切見えない。
木材でできた市場の並び。軒先に吊るされた商品。配管から噴出す水蒸気。
地面を走り回る鶏を、店員らしき男が追っている。あちこちで呼び込みの声や怒声が飛び、辺りは誰ひとりとして自分以外の声を認識できずにいた。言語は英語であるが、訛りが酷かったりしてよく聞き取れない。
それもそのはずで、ここはチャイナタウンと呼ばれる多民族が集まる場所であった。でかでかチャイナタウンと書かれた看板は雨風にさらされて痛んでおり、またここら一帯の空気も酷く悪い。誰もが大声で会話をし、数分もここにいれば自分の耳が馬鹿になるであろうことは容易に想像がつく。そんな場所。
下町と言えばまだマシではあるが、いわゆる闇市の集合体のような場所であった。ここロンドンで起こる犯罪のほとんどは、こういった場所で起きているといっても過言ではない。
現に籠につめられた鶏や軒先に吊るされた肉などは、店員がちょっと気を抜くだけであっという間に消えていくのだ。しかし誰も店員に注意を呼びかけたりしないし、店員も警察にいちいち駆け込んだりしない。なぜなら“自業自得”だからだ。
そんな中にぽつりと日本語が現れた。
『これ、やばいパターンだ』
しかしその小さな声は辺りの喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことは無かった。
声を発したのは1人の少女。年は19歳で、名は片山アイリという。セミロングの黒髪で、前髪は右側を分けて眉下でそろえていた。服装は極々一般的な花柄のワンピースに裸足である。だがその“極々一般的”と言うのは、あくまでもアイリの中での一般的であり、この街ではあてはまらない。ここだとちょっと良いところの商人のお嬢さん、くらいには見えるのだ。
そしてこの少女、この時代の人間かと言われれば答えは“ノー”であった。彼女の生まれは日本の東京。それも元号が平成に変わってから生まれており、今目の前に広がる景色は映画の中でしか見たことがなかったのだ。
そんな少女が、なぜか1800年代のロンドンにいる。そして首と腕と足を鎖でつながれていた。
『やばいなー。本当にやばい。売られる』
そもそもどうしてこんな事になったのかと言えば、物語はアイリが瞬きをした瞬間に奴隷商の秘密部屋にいたところから始まる。
アイリにとって運の悪いことに、部屋にいた奴隷商は奴隷を1人失っていた。折檻しているうちに死んでしまったのだ。そしてそれは自分よりはるかに偉い人から“これでもってお前の商才を見てみたい”と渡された奴隷のうちの1人であった。
欠けた商品をどうしたものかと思案しているところに突如現れた身なりの良い少女。
男は非常に頭の回転が悪い男だったので、“これでいいか”と思ったのだ。だからアイリに向かって“お、こいつを死んだ奴隷の代わりに売り飛ばすか”と言った。そんなことをしたらどうなるかなんて考えもしなかったし、商品に欠陥があるかどうかも調べなかった。
男の中では金さえ入ってくれば何でも良いという考えになっていたのだ。だから実際に売りに出して欠陥がわかれば引っ込めて後で殺せばいいし、仮に欠陥があったとしても相手が騙されて購入すれば問題は無い。結果さえ出せばボスを納得させることができると信じていたが、ここが商才の無さ(ひいては人間力の無さ)を表しているなどとは微塵も思わなかったのだ。なぜなら男の言う“結果”について、奴隷の平均額がいくらかを知りもしなかったのだから。
間抜けを体現したようなこの男は、自分がどれほど愚かなことをしているのか全く気づいていなかった。
『やっぱコイツ悪いやつだったなー……なんで抵抗しなかったんだろう』
アイリは椅子に座ってため息をつく。
横で奴隷商の男が客の呼び込みをしているのを見ながら、少女はあれよあれよと拘束されていった自分を思い出していた。混乱している間に無抵抗のまま拘束され、そしてすぐにここへとつれてこられてこのザマだ。
自分がどうされるかなんて“ハッキリと”わかっていた。
そう、ハッキリと――……
『ちょっとオジサン! この鎖外してよ!! だいたい死んだ奴隷の代わりに私を売るってどういうことなの!? 適当すぎでしょ! 警察どこ!? 警察ー!』
「うるせぇ! 騒ぐな! なんて言ってるか知らねーが、大声出したらブン殴るぞ!」
そう、アイリは言葉が理解できたのだ。話せはしなかったが、状況を理解するだけならそれで十分であった。
しかし男にはこちらの言葉が通じないようで、意思疎通はできなかった。アイリは“これはいずれ困ったことになる”とは思ったものの、ひとまずは“自分が奴隷として売られようとしている”という現状把握ができたので良しとした。
ところで、少女は男よりも少しだけ頭が良かった。男のつけた銀色の手錠が、ちょっと力をこめたり金具を押したりするだけで簡単に抜けることに気づいたし、男が足を痛めているらしいことにも気づいていた。
『隙を見て逃げるしかないか……逃げられる絶好のチャンスと言えば、私を誰かが買おうとした時。きっとこの時、この男は油断するはず』
ブツブツと小さくつぶやきながら、少女は灰色の空を見上げた。その目に映った空が揺れる。
今にも雨が降り出しそうな空を見ながら、少女は小さくため息をついた。