第2話
「お嬢ちゃん、お名前は? それとも言葉は国のものしかわからないかしら?」
アイリは口を何度かパクパクさせると、搾り出すように言葉を発した。
「わ、私は……メイドです」
「メイド?」
疑わしげな声と共に片眉をピッと上げ、「ジェームズさんがメイド?」と再度つぶやく。
「……まあ、お付き合いしているわけではないようねぇ」
上から下までジロジロと見られて居心地の悪さに視線をそらせば、女性は「いいわ」とつぶやいて“アイリの寝床”へと腰掛けた。思わず顔をしかめるも、すぐにそれを取り繕う。
「ねぇ、お茶もらえる? あと、外から来たから寒いの」
「は、はい……」
腑に落ちない何かを感じたまま部屋を出ると、ドアのすぐとなりにメイスン夫人が怒ったような表情を浮かべて立っていた。
「あの女は?」
メイスン夫人にしては珍しく攻撃的な表現だと驚きながら部屋の中を指差すと、さらに驚くべきことにメイスン夫人が舌打ちをした。アイリが驚いて目を見開いているのにも気づかず、「どうせお茶がほしいと言ったのでしょう」とお茶の乗ったトレーをアイリに持たせた。
「この女、誰ですか?」
「“この”ではなく“あの”ですよ、アイリーン。あれはたまにこの部屋を訪れる、ジェームズさんの“スポンサー”の1人です。アイリーンは深入りしなくていいですから、お茶を出したら関わらないようにしなさい。私の部屋に来てもいいですからね」
いまだ眉間のしわはとかれないまま、メイスン夫人は部屋へと戻っていった。
『……スポンサーねぇ』
不可侵領域であることはわかっていた。
だが要はヒモである。
そのスポンサーのお陰で自分も生活できているのかと思うと、情け無いやらなんやらで何ともいえない気持ちになる。しかしスポンサーであるとハッキリわかったのだから、機嫌を損ねないようにもてなすことにした。
「どうぞ」
お茶と一緒にひざ掛けを渡し、暖炉へと薪を追加する。
棚に置いておいたクッキーも一緒に出すと、女性は「ありがとう」とされることに慣れている高慢な笑みを浮かべた。
「ジェームズさんはいつもどるのかしら?」
「わかりません。消えましたので」
「消えた?」
女性はガチャリとカップを鳴らしながら乱暴に置く。
しばらく顎を撫でて何かを考えていたものの、やがて立ち上がると足早にドアへと向かった。そして出て行く直前、思い出したかのように振り返ってアイリを見つめる。しかし視線は合わず、アイリのもっと奥を見ていた。何かあるのかと振り返るも、そこにはただの本棚しかない。そこに“男女の秘め事”という派手な本が置いてあったので、アイリはジト目になりながら今はいない主を恨んだ。
「……ねぇ。貴女ならジェームズさんのハーレムに来るのを歓迎するわ。私はローリーよ。ジェームズさんが帰ってきても、私が来たことは伝えなくて大丈夫。さようなら、子猫ちゃん」
魅惑的な笑みを浮かべてローリーが出て行く。ジェームズを探しに来たのであれば、訪問したことは伝えておいた方がいいのではないかと首をかしげた。しかしローリーは一度も振り返ることなく出て行ったので、まあいいかと思いなおす。
特に何をしたわけでもなかったものの、アイリは酷く疲労感を感じていた。
部屋には濃厚な香水の香りが残っている。
『はー疲れた』
ため息と共に窓を開け、換気する。
何気なく窓の外を見れば、ローリーがアイリの方を見ていた。だらけた顔を引き締めれば、ローリーはニヤリと笑って投げキッスをする。
『…………』
かろうじて笑顔で礼を取り、アイリは部屋の中へと引っ込んだ。そして“寝床”をバタバタと手で払い、勢いよく座る。
「……彼女はとっても……女性のような女性です」
「随分と良く言ったものだ。だがそれを言うならば、女性らしい女性、だな」
聞きなれた声に弾かれたようにして立ち上がる。
後ろを振り向けば、ちょうど老人の格好をしたジェームズが本棚の“中”から出てくるところであった。
『隠し扉……!?』
「言葉」
ジェームズは鼻の前で手を振ると、すでに開けられた窓以外の窓も開けていく。冷たい冷気が流れ込み、アイリはぶるりと身を震わせた。
「いつ? ジェームズさん、そこいつ?」
「昼過ぎからいた。アイリーンが単語帳をひらいたくらいからだ」
「言って……! ジェームズさん、ただいま、言う! ただいま、ない、悪い子!」
「いや、アイリーンに私の完璧な変装と潜入がどこまで通用するのかと思っただけだ。結局ローリーにしかバレなかったが。君が外に出たとき、私も外に出たんだ。下から私が君を見ていたのに気付かなかったのか? しかし君が屋根にのぼっていたおかげで、君が無事にローリーから逃げられたとわかった。まあ結局無事ではなくなったが」
そこまで言われて、アイリはようやく気づいた。
あの時、ローリーは“派手な本”ではなくジェームズを見ていたのだと。だから訪れたことを伝えなくてもいいと言ったのだと。
そしてあの謎の視線や老人はコイツだったのかと。
「……あの人、何? メイスンさん、ジェームズさんのスポンサー、言う」
「スポンサー? なるほど、実に的を射た言葉だな。確かにローリーから金銭を受け取ることはある」
なんだやはりヒモか、と思いながら顔をしかめ、そしてそこから自分の生活費も出ているのだと思い心の中でローリーに合掌する。
「それで、君は私のハーレムに入るのか? アイリーン」
アイリが盛大に顔をしかめると、ジェームズは楽しそうに声をあげて笑った。
「ジェームズさん、昨日、ただいまない。どこに行きましたか?」
「ああ、そう、それだ。私は昨日実に面白い体験をした。あまりにも興奮が冷めなかったのでつい帰るのを忘れてしまったが、今はその反動でクタクタに疲れている」
そう言いながら部屋を横切ると、戸棚からアイリのオヤツであるチェリーパイを取り出してアイリを見つめる。
きっと欲しいのだと思って何度か頷くと、ジェームズはニッコリ笑ってそれを一口で食べた。そしてアイリが飲みかけていた紅茶を飲み干し、小さくため息をつく。
「夜ご飯は朝と昼を抜いた分、豪華にしてもらうとしよう。さて、私はしばらく睡眠をとる必要がある。急ぎの用事はあるか?」
「いいえ」
「では夜まで起こさないでくれ。ああ、だがナンシー・エミンとうい“男”が訪れたら起こしてくれ。いいか、男だぞ。間違えるなよ」
少し早口でそう言うと、ジェームズは寝室の中へと消えていった。
『男……? ナンシーは女性の名前だよね? この時代のイギリスにも変な名前をつける人がいるんだなあ……』
アイリはあまり深く考えなかった。それよりも無事にジェームズが戻ってきたことの方が嬉しかったのだ。メイスン夫人もきっと心配をしているだろうと思い、アイリはメイスン夫人へジェームズの帰宅を告げるべく部屋を出て行った。