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第1話

『あれ、まだ帰ってないんだ……』


 昨日、ジェームズは「夕方までには戻るだろう」と言って外出した。

 しかし夕方になっても戻ってくることはなく、ハドソンが「まあ、よくあることさ」と言っていたので、アイリはそういうものかと思い先に寝たのだ。

 寝た、と言えばアイリの寝床についてであるが、アイリはここに来てからソファを寝床として与えられた。これは恐らくメイスン夫人もハドソンも知らないが、2人が知ればまず間違いなく「もっとちゃんとした寝床を与えてやれ」と怒る出来事であった。

 しかしジェームズはもちろん、当の本人も全く気にしていないので、この事実を知るものはいない。


『どこ行ったんだろう』


 ソファと言ってもどちらかと言えば“カウチ”に分類されるそれは、ところどころほつれて糸が出ているものの、しっかりとしたつくりでアイリの体が痛むことはなかった。だからアイリは何も文句を言わなかったのだ。寒空の下よりもはるかに良い。

 初めは「ここか……」と思ったものの、意外にその寝床は好ましいものであった。それにもし仮にここの主が「私はカウチで寝るから、君がベッドを使うといい」と言ったとしても、アイリはジェームズがこのカウチにはおさまるとは思えなかった。

 つまり、アイリにはぴったりのサイズであるものの、ジェームズには小さすぎるということだ。


『……とりあえず顔を洗ってご飯かな』


 大きく伸びをして顔を洗うために洗面所へ向かう。その途中で暖炉に火を入れていないことを思い出し、小走りで暖炉まで行くと手早く火をつけた。最初は火をつけるのも一苦労であったが、今ではもう特技の一つと言ってもいいほどである。

 薪にしっかり火がついたのを確認し、アイリは再び洗面所へと向かった。

 洗面所は凍えるほど寒く、その水道から出る水は非常に冷たかった。自分の呼気が白くなっているのを見て余計に寒くなったような気がしたアイリは、水に顔をつけるのを諦めてタオルを濡らして拭くことにした。


『今日はお出かけの予定がないからいいの』


 ブツブツと顔を洗わない理由について言い訳をしながら顔を拭い、ブルリと1回震えてタオルをリネンボックスへ投げ込んだ。そして意を決して両手に水をためると、口に含んで何度かうがいをした。

 次に、色々な汚れで曇った鏡を見ながらブラシで丁寧に寝癖を直していく。いつかこの曇りを取りたいと思ってはいるものの、もう少し温かい時期になってから水仕事をしようと放っているのだ。幸いにしてジェームズはこの手のところに頓着が無いらしく、アイリがサボったとて文句1つ言わなかった。

 曇った鏡に映るしかめっ面のアイリ。静電気で髪が顔にまとわりつくたびに顔をしかめ、片手で髪を押さえながら何度かブラッシングした。


『よし、こんな感じかな』


 まだ部屋は寒かったものの、それでも火を入れることによって少しは温かくなり始めていた。

 ノロノロと服を着替えながら、そろそろ洗濯物を洗わないと……と小さくため息をつく。この時期の洗濯は非常に辛い。手が荒れないようにとメイスン夫人がクリームをくれなければ、アイリの手はとっくに割れて血が出ていたに違いない。

 部屋中に散らばる洗濯物を集め終わると、ジェームズの部屋の前で立ち止まる。いつもは寝室のドアの横にリネンボックスが出してあるのだ。今日は主が帰ってきていないので出されていない。


『うーん……昨日は白いシャツを着ていたでしょー……その前はあのシャツで……昨日は洗濯をしていないし、おとといも雨でしてない……から……やっぱり部屋に入らないと駄目だよね……』


 アイリはしばらく悩んだ後、この部屋に入るなとは言われていないから大丈夫だと自分に言い聞かせ、4回寝室のドアをノックした。

 当然返事などあるはずもなので、そっとドアを開ける。


『わー……想像どおり……』


 部屋の中には様々な生物の剥製が並べられていた。何かの骨もあり、ホルマリン漬けの何かや本の山など、居間ほどではないがこちらも相当に散らかっている。入るなとは言われていないものの、掃除はしなくていいと言われているので手はつけていないし入ったこともなかったのだ。

 アイリは小さくため息をつきながら、必要最低限、洗濯が必要と思われる衣類を集めて回った。

 そして若干の罪悪感を感じながら慌てて部屋を出ると、リネンボックスを洗面所に集めて手を払う。


『ご飯だ、ご飯!』


 そろそろメイスン夫人がご飯を用意してくれているはず、と思いながら、アイリは小走りで部屋を出て行った。

 余談ではあるが、この下宿はなかなかにいい場所であった。予め前金を払っておけば食事もお茶もオヤツも用意してくれるし、別料金で洗濯や掃除もやってくれるのだ。

 食事に関しては数年先までジェームズがお金を払っているようで、毎食分取りに行けばいい。アイリが来た時からは、アイリの分も出していた。その代わり掃除や洗濯はアイリがやっている。食べなかった分の食費は戻すか繰り越すかを選べるので、住人には非常に好評であった。


「メイスンさん、おはようございます」

「あら、アイリーン。おはよう。ご飯ができていますよ」

「ああ~……あの、ジェームズさん、ない」

「ない? いらないの? 具合でも悪いのかしら」

「いいえ。昨日、家、出た。今日、家、ない」

「まあ、出かけてまだ帰っていないのね。アイリーンが来てからはそんなことが無くなったから良かったと思っていたのだけど、やっぱり我慢ができなくなったのね」


 まるで汚らわしいものを言うような反応にアイリが首を傾げれば、メイスン夫人はゆるく首を振って「あなたにはまだ早いわ」と言う。

 それでもブツブツと「お金はどこから来るのかしら」とか「あの子とのことは解決したのかしら」と言うものだから、アイリにもジェームズは女性関係がだらしないらしいと分かった。


「メイスンさん。ジェームズさん、女の人、好き?」

「……まあ……そう、ね。好きというか……まあ、その……とても人気があるわ」


 ああ、と何度か頷けば、メイスン夫人は手を打ってアイリの食事の準備を始めた。そして食事の準備をしながら、アイリに警告するようにさとす。


「アイリーン。あなたには早いと言ったけどね、注意しなくては駄目なことがあるわ。合意じゃなければ、どんな誘いも受けては駄目よ」

「誰の?」

「もちろんジェームズさんですよ。あなたは女の子なのにあんな狼と一緒に住んでいるのですから。いいえ、決してジェームズさんのことが嫌いでも憎んでいるわけでもないのですけどね、私はあの女性にだらしないところが少し心配だわ。探偵業はそこまで儲かるわけではないと言っていたもの。なのに食費も家賃も……アイリーンの世話代もまとめて払えるんだから、きっとスポンサーが――……ああ、言いすぎたわ。さあ、アイリーン。あなたのご飯よ」


 メイスン夫人が焦ったようにトレーを押し付ける。

 トレーには湯気を立てる野菜スープにトースト、目玉焼きとベーコンとマッシュポテトが乗っている。イギリスのご飯は……とよく言われるが、このメイスン夫人は非常に料理が上手であった。

 お菓子なんかも自分で作るので、アイリにとって今日のオヤツが何なのかを考えるのは毎日の楽しみになっていた。だから、ジェームズは今まで頼んでいなかった“オヤツのオプション”をメイスン夫人に頼むことにしたのだ。


「もし10時までにジェームズさんが帰ってきたら、まだ朝食があることを伝えてちょうだい」

「はい、わかりました。ありがとうございます」


 トレーに紅茶を乗せながら、アイリは部屋へと戻っていった。

 その背を見ながら、メイスン夫人は大きなため息をつく。メイスン夫人は、アイリのことが好きだった。もちろんジェームズのこともだ。しかし、この2人が何の関係もなしに同居するのには反対だったのだ。

 彼女は少し潔癖で、そして非常に常識的な考えを持つ聡明な女性だった。




* * * * * *




『……まだ帰ってこない』


 ジェームズに買ってもらった単語帳から顔を上げ、時計を見る。すでに時刻は昼を越えており、昼食も1人でとって一息ついていたところであった。

 まだジェームズは帰ってこない。

 掃除も洗濯も終わって、言葉の勉強をするために単語帳を開いてしばらく。どうにも同居人のことが気になってしまい、アイリは全く集中できずにいた。

 もう少ししても帰ってこなかったらハドソンにでも相談しようかと思い始めたときのこと。変化は唐突に訪れた。

 ふと、何者かの視線を感じたような気がしたのだ。その先を追えば本棚があるのみで、アイリは人などいるわけがないかと思い直す。

 さてまた勉強の続きでもと思い椅子に座りなおした時のことだった。


「ジェームズさん?」


 ノックの音と共に女性の声がする。


「いらっしゃるんでしょ? わかっているのよ。早く出てきなさいな」


 あまりにも親しげな口調にアイリの動きが固まる。

 もしかして非常にまずいことになっているのではないかと思った。仮にドアの外の彼女がジェームズととっても親しい間柄であれば、自分の存在は相手を混乱させるのではないかと思ったのだ。

 アイリは小さく舌打ちをして、足音を立てないようにコートを羽織った。そしてこの間見つけたとっておきの場所に身を潜めることにして、大急ぎで洗面所へと向かった。


「ジェームズさん! いらっしゃるんでしょう!?」


 ドアの外は大騒ぎだ。

 ノックの音はまだ上品であるものの、その音量と強さはにわかに怒りが滲み出している。

 アイリは慌てて洗面所に入るとドアを閉め、窓を開けてその隙間から外へと身を乗り出した。不安定な配水管に足をかけながら完全に外へ出て、その際に窓を足で閉め、窓枠に足を引っ掛けながら屋根の上へとよじ登った。


『……っと』


 そもそもどうしてここを見つけたかと言えば、ちょっと顔を出したときに登って下さいと言わんばかりの配水管の配置に思わず手を伸ばしたのが始まりであった。そしてそれは正解で、ところどころ登りやすいように杭が打ってあるのに気づいた。

 後々ジェームズに確認をしたところ、ニヤリと笑われたのであれはジェームズが杭を打ったのかと知った。

 つまり、ジェームズもこの非常口をよく利用するということだ。


『誰だったんだろう』


 ひとまずは下宿先の共有玄関から声の主と思われる女性が出てくるまで待とうと思い、アイリは身を乗り出して玄関の観察を始める。しかし、すぐに諦めて帰るだろうと思われた女性はなかなか出てこない。

 ふと通りの向こうを見ると、こっちをジッと見ている老人がいた。


『……なんか恥ずかしいな』


 いよいよ凍えてどうにもならないと思ったアイリは、自分が変なことをしている自覚もあったので“きっと女性は自分が屋根に登る間に帰ってしまったのだろう”と無理やり結論付け、部屋へと戻ることにした。


『よっ……』


 もと来た道を戻り、念のためにそっと窓から部屋の中へ滑り込む。

 朝はあんなに冷えると思っていた洗面所も、外から来れば温かいぐらいだ。窓をそっと閉めて、洗面所のドアを開く。隙間から部屋の中を見渡せば、そこには先ほどとなんら変わらない景色が広がっていた。

 あれだけ騒いでいた声も聞こえない。


『……うん』


 さっとドアを開け、安心のため息をついたその瞬間、かぎなれない臭いに気付いた。香水のようなそれは、ツンとアイリの鼻を刺激して思わず涙目になる。

 そして――


「なあんだ。ちゃあんと、いらっしゃるんじゃないの――あら?」


 女性の声に腰を抜かすほど驚き、後ずさった。

 声の方を振り向けば、洗面所のドアの死角に女性が立っている。羽飾りのついた帽子に毛皮のコート。イギリスのご令嬢といった出で立ちだが、アイリには少し派手な――悪く言えば娼婦のように見えた。

 コートの上からもその豊満なボディは良くわかる。口元のホクロとぷっくりした唇は酷く挑発的だ。


「なあに、あなた」


 キラリと光った女性の目の奥。

 アイリは、ごくりと生唾を飲み込んだ。

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