第1話
「アイリーン、紅茶を頼む」
金曜日の悪魔事件が終わった翌日。
アイリは昨晩の解雇宣言とも取れる発言から、朝起きたら家を追い出されるのだろうと思っていた。しかし、ジェームズはあくびをしながら寝室から出てくると、寝床を整えているアイリに向かって紅茶を所望したのだ。これはアイリにとって驚きであった。
「へ?」
「紅茶だ。目が覚めるように濃いのを」
ポツリとそう言って再びあくびをする。
しばらくジッと見ていたものの、どうやら追い出されるようではないと気づいた。そもそも自分は小間使いとしてここにいさせてもらっているので、あの現場に出るという仕事はオマケのようなものであった。それを思い出し、アイリは無理やり“今すぐ追い出されることはない”と思うことにした。
紅茶を持ってくるべく、アイリが部屋を出て行く。
その後姿を横目に見ながら、ジェームズは小さくため息をついた。
「……まったく」
実のところ、昨日はちょっと怖い声を出しすぎたかもしれないと気にしていた。
ジェームズはアイリに対して怒っているわけではない。アイリの行動を予測できなかった自分に怒っていたのだ。
よくよく考えれば、若い女児が犯人のところへ行って何かをするとなれば、問題が起こらないわけが無い。怖がって取り乱したり、突飛な行動を取るなど少し考えればわかるようなことであった。
しかしジェームズは何を思ったか、あまりにもアイリがしっかりしているものだから大丈夫だろうと思ってしまったのだ。
本当は謝りたかった。しかし、人付き合いが異常に苦手なジェームズは、どう切り出したものかと迷っているのだった。
「いい年をした男が謝罪の1つもできないとは。まあ、簡単に謝罪ができれば、世の中はもう少しマシになるだろうな」
ぼうっと窓の外を眺める。
今日もロンドンは曇っており、今にも雨が降り出しそうな空だ。こうなると気分もどんどん下がっていき、まるで自分が絶望のふちに立たされているような気すらしてくる。
「ジェームズさん、茶」
「ああ、ありがとうアイリーン」
反射的にそう言い、なんだお礼はちゃんと言えるのかとホッとする。
そう思うと、ジェームズは急に先ほどまで悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「わっ」
ぐいとアイリの腕を引き、立ち去ろうとしていたのを引き止める。急に引き止めたものだから、よろけたアイリとジェームズの距離は随分と縮まった。アイリは思わず額がぶつかるんじゃないかと恐れて身を固くしたほどだ。実際に、あと少しで打ち合うところであった。
しかし別のことで緊張しているジェームズは、そのことに微塵も気づかない。ちゃんと謝罪ができるかどうかの方が重要であった。
「アイリーン」
「はい?」
「その……昨日は、すまなかった。怖い目に合わせてしまって。もうアイリーンをあんなめにあわせないためにも現場に連れて行くことはできないが、ここで小間使いは続けてほしい。その……ハドソンやメイスン夫人が言うには、私は放っておくと死ぬくらいに生活能力がないらしい」
ジェームズの顔が痛ましそうに歪む。しかし反対に、アイリの顔は徐々に赤くなっていった。
ジェームズの表情を見たアイリは悟ってしまったのだ。この男が、自分のせいで1人の女性を殺されるかもしれない状況に追い込んだと、酷く後悔しているのだと。その証拠にジェームズの顔は明らかに気まずげで、しかられた子供のような表情になっている。
そしてそれが自分に向けられていると気づいたアイリは、“まだ私はここにいて欲しいと望まれている”という思いとともに、じわりじわりと胸のうちに温かい何かが満ちていくのに気づいた。ジェームズと、少しではなく結構距離が縮まったような気がしたのだ。
「ジェームズさん……」
アイリの目に喜びの色が映っているのを見て、自然とジェームズの口角も上がる。
「もちろん、君がまだここにいて、いい年をしたおじさんと共同生活を送りたいと望むならだが」
『あたりまえですよ!! いさせて下さいよ!』
「言葉」
ジェームズにはわからない言葉で何かをまくし立てるアイリ。何度も“ステラレルカトオモッタ”と叫ぶのを聞いて、ジェームズは何を言っているのかわからないなりに、アイリが喜んでいるのを悟った。
「アイリーン。私に君の国の言葉を教えてくれ。その言葉は恐らく今後の調査で役に立つはずだ。君を現場に連れて行くことはできないが、事件解決は何も現場だけで行なっているわけではない。むしろこの、私の居間で解決できることの方が多いのだ。ここは完璧とは言えないが安全地帯であることに変わりはない。ここでの調査にはぜひ君も参加してほしい」
「ジェームズさん……!」
「私とハドソン、それから君だ、アイリーン。1人より2人、2人より3人。3人で知恵をしぼれば良い案も浮かぶだろう」
「たとえそれが羊の頭でも?」
「私は自分の頭を羊だと思ったことは無い」
自信たっぷりにそう言うジェームズに、アイリはフッと笑顔を浮かべた。
「なんだ、仲直りしたのか」
突然聞こえた声に、アイリが振り向く。すると、紅茶を運んできたときに開けっ放しにしていたドアからハドソンが顔を覗かせていた。
テーブルに茶器を置いてからドアを閉めようと思っていたのに、すっかり忘れていたのだ。
「仲直り? 雇用内容の見直しだ」
「またそんな屁理屈を。仲良くしたいんだろ? どうせ一緒に住むんだし。君がそういう性格なのは私が一番よく知っている。なにせもうずっとアイリーンと同じ目にあっているんだからな。アイリーン、安心しろ。こいつは手の内に入れたものはそう易々と手放さないさ」
「別にそんなつもりは無い。例えば君との関係だって明白じゃないか。君は私が謎を解くための“道具”でしかないのだから」
「はいはい」
面倒くさそうにそう言うと、ハドソンは扉を4回ノックした。
「今更だが入っていいか? ちょっと面白い新聞記事を見つけた。君の意見を聞こうと思ったんだが」
「ああ、もちろん入ってくれ。どういった記事だ?」
床に散らばる本や資料を器用に避けながらハドソンが入ってくる。ここは前からゴミゴミしてはいたが、居間はお客さんが来るときにだらしないと思われたら困るからと、アイリが必死に片づけをしたのだ。
そのかいあって、物は多いけど整ってはいる状態まで持ってきた。ハドソンとメイスン夫人はこのアイリの功績をこっそり称えているが、アイリ自身はそんなことを知るよしも無い。
「これだ」
テーブルに置いた新聞記事。
そこには“アジア客船沈没事件 ― 深海に沈んだはずの生存者の行方。その正体は人魚姫か? ―”と題された記事があった。もちろんアイリには少しも読めなかったが、そこに目を通したジェームズの顔は次第に歪んでいった。
「この記事を書いた奴は相当にロマンチストだな」
「私も全く同じ意見だ」
「何? 何?」
読んで欲しいという思いをこめて新聞記事を指差せば、ジェームズはハドソンをチラッと見て全ての説明を任せた。
「結果だけで言えば、アジア最大の豪華客船と言われたサクラ号沈没事件に、生存者がいるのではないか……という記事だ」
「ふーん。いつ? いつ、船が海の下?」
「う、海の下? 沈んだかってことか? 沈んだのはもう何年も前さ。だが、あの事件に生存者はいないはず。ところが、沈没直後に海から突然顔を出して陸まで泳ぎ、フラフラとさ迷い歩きながら森の中へ消えていった女を見たという人がいてね。それが今更話題になっている」
ハドソンの説明にアイリは何度か頷くと、不思議なこともあるものだと思考をめぐらせる。しかし、しばらく考え事をして、2対の目が自分に向いていることに気づいた。
「……あ! 違う! 私、船、違う!」
自分がなにかしらの関係者ではないかと疑われているのに気づき、アイリは慌てて否定する。
「まあ、そうだろうなとは思った。しかしあまりにも色んなことがアイリーンにあてはまるものだから、興味をひかれたんだ」
ハドソンはそう言って鼻で笑った。
「あの船は沖からかなり離れた場所で沈んだのさ。行方不明者はとうとう見つかることはなかった。そして事件から数ヶ月に生存者はゼロと判断される。当時の目撃者は、小さな女の子だったと言っていたんだが、その時には誰も気にとめなかった。ところが、今になってその女の子の母親と名乗る人物が、消えた女の子の行方探して懸賞金をかけたってわけだ。それも一生仕事をしなくても生きていけるくらいに莫大な金額をな」
「お、おお……」
「ちなみに“事件”と言われているのは、色々理由がある。船のスクリューに事故ではありえない仕掛けがしてあったことが一番大きいが、乗員乗客全員の遺体から、高濃度の毒物が検出されたのが一番大きい理由だ。恐らく、沈む前から全員殺されていたのだろう、とね」
「母親は娘、なに? 髪型? 目?」
「何をもって娘と判断するのか、か? 新聞にあるのだと――日本人、黒髪、現在の年齢は生きていれば19歳、名と特徴的なホクロに関しては、実際に会ってから確認させて頂く、とのことだ」
部屋は静まり返り、ただパチパチと薪のはぜる音だけがあった。
「そ、それは……えーと、女の子、悪い子? 船、沈めた?」
「そういう声もあった。だが実際は子供ではなく大人だったのではないか、とか。色々な憶測があったのさ。目撃者の話も曖昧でなあ。真相は闇の中ってわけだ」
「まあ、私たちが何に引っかかったかと言うと――」
黙っていたジェームズが突如口を開く。
一体何を言うのだろうとアイリが生唾を飲み込めば、事件を解いているときと同じように真剣な表情を浮かべたジェームズがわずかに口を開いた。
「これはアイリーンを探している人物からのメッセージじゃないか、ということだ。そだろう? ハドソン君」
「その通り」
あまりにも突飛な結論にアイリが笑う。
しかし、2人が真剣な表情でアイリを見るものだから、アイリはやがて顔を引きつらせながら黙った。
「身に覚えは?」
「ない……たぶん……」
「船は全く関係ない可能性もある。だが向こうは君が記憶喪失になっている可能性を指摘している。記憶喪失というのは実に便利で――もちろん都合のいいように物事を動かしたい人物にとってだが。つまり、それを利用しようとしている」
ジェームズは相変わらず真剣な眼差しをアイリに向け、組んだ腕を口元にあてている。
「さて、アイリーン。君は奴隷商につかまる前、どこで何をしていた?」
問われても全く記憶が無い。気がついたらあの奴隷商の部屋にいたのだ。
正確に言えば瞬きをした次の瞬間に、だが。その前の記憶は……と言われると、今更ながらに何も無いことに気づいた。
2014年の日本から来た19歳のアイリである、ということは覚えている。だけど、もしかしたら自分は2014年の日本から来た19歳のアイリだと思い込んでいるだけかもしれないのだ。なにせ乗っていた船が沈没したなんて事件に巻き込まれていたとすれば、ショックで記憶を失ったり頭がおかしくなって妄想を現実だと思う可能性だって十分にある。
現代にいたという証拠が何一つ無い状況でそんなことを言われてしまえば、アイリには何ひとつとして弁解することはできなかった。
「わからないようだな」
「…………」
ジェームズもハドソンもアイリを疑っているわけではないと言うのはわかった。しかし、アイリはこの2人をやっかいなことに巻き込んでしまうのではないかと心配になってしまった。
「アイリーン」
「はい……」
「私は常々脳をフル回転させ、刺激を与える事件を望んでいる。これは私にとって実に興味深い事件だ。君にとっては歓迎できない事件かもしれないが、私は非常に興奮している。私は君と生活を共にすることができて非常に幸せだ。君を買い取ったのは正解だったな」
目をキラキラと輝かせるジェームズに、思わずアイリが一歩引く。すると即座にハドソンからのフォローが入った。
「アイリーン。あまり気にするな。お前はまだジェームズと付き合いが浅いからあえて言うが、これは人付き合いが苦手なものだから、興奮して饒舌になると“普通の人は常識的に気を遣って言わないであろうこと”まで言ってしまう癖がある」
「は、はい……」
わりと酷いことを言っているのに対し、ジェームズはもう思考を謎解きに持っていってしまい聞いていなかった。
これがそこらの謎と違ってすぐに解けるものではないことは、ジェームズを始めここにいる全員が知っていた。