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第2話

「……ん……ん? わっ!」


 寝起きに大声を上げてベッドから転がり落ちたのは、この部屋の主であるハドソンであった。

 そのベッドの傍らには浮浪者が立っている。垢まみれの老人はニタニタと笑みを浮かべており、ボサボサの頭からは嫌な臭いがしていた。


「おはようごぜぇやす、旦那」

「なんだ! どこから入り込んだんだ!」


 老人はシッシッシと気味の悪い笑い声を上げると、腕をずいと突き出してハドソンの目の前に拳を出した。その手には鍵が握られている。


「ハドソン、悪いがアイリーンの面倒を見てやってくれ。アレは朝に弱いらしい」

「……え? な……ジェームズか?」


 その浮浪者の声は確かにジェームズであった。しかし、あまりにも風貌が変わりすぎていたので、ハドソンには自信がなかった。何せ汚いだけではなく、かなりの年上に見えるのだ。


「まだ寝ぼけているのか、ハドソン。アイリーンのことは起こすだけでいい。その“だけ”が非常に難しいが、この難問をクリアできたら2人で朝食を取って待機しておいてくれないか」

「わ、わかった……本当にジェームズなんだな?」


 いまだ疑いの目を向けるハドソンに、ジェームズはニヤリと笑ってこう言った。


「3年前に君が酒場で女に騙されて財布を奪われたことがあったが、この私が見事取り返した事件のことは今でも忘れられないよ」

「ジェームズ、なんだな……」


 大きなため息をつくハドソンに対し、ジェームズはシッシッシと気味の悪い笑い方をしながら部屋を出て行った。


「まったく……」


 しばらくボーっとベッドへ座り込んでいたものの、そう言えばアイリを起こしてほしいと言われていたのだったと思い出し立ち上がる。適当に服を羽織ってジェームズの部屋の前まで行き、ふと気づいた。

 相手が小さいながらも“レディ”であることに。


「……入るわけにはいかないじゃないか」


 部屋の外でどうしたものかと思っていると、中から物が倒れる音がした。びくりと肩を震わせて、すぐに扉をノックする。


「おい、大丈夫かアイリーン? 私だ。ハドソンだ。ここを開けられるか?」


 そう呼びかけるも、返事は無い。ハドソンは急に心配になってきた。急病で倒れているのではないか、それとも強盗でも入ったりしていないか。

 不安要素は山ほどある。何せ急病も強盗もありえないことはないのだから。


「アイリーン?」


 耳をすませるも部屋の中はしんと静まり返っており、返事は一切返ってこない。ハドソンは、先ほどよりも力をこめてノックした。


「アイリーン、いるなら返事をしろ! アイリーン!」


 これ以上叩けばメイスン夫人が飛び起きてやってくるだろうと思われるほどに叩いていると、ハドソンも予期しないタイミングでそのドアが勢いよく開いた。ハドソンが間一髪のところでそのドアを避け、危ないじゃないかと一喝するために部屋の中へ視線を向けた瞬間――


「ぐあっ!」


 顔面に強烈な衝撃をくらい、ドサリと音を立てて地面へ倒れこんだのだった。

 グラグラと揺れる脳をなんとか押さえつけて頭をふる。何度か頭をふってようやく視界が安定してきたハドソンは、目の前に見たこともない程に凶悪な顔をしたアイリが立っていることに気づいた。


「ア、アイリーン……?」

「…………」


 アイリは答えない。

 しかし、やがてその目に“生気”が戻り、徐々に困惑と罪悪感の色が見え始めた。

 そして跪き、地面に額をこすりつけ、手を前に突き出して「ごめんなさい!」と叫んだのだ。いわゆる土下座であったが、ハドソンにはこれが何なのかさっぱりわからなかった。

 しかし、アイリが非常に悔いて謝罪していることは伝わってくる。恐らくは国の謝罪の仕方なのであろうと思ったが、この珍妙なポーズはいまだハドソンがお目にかかったことの無い謝り方であった。

 女性をそのままにして置くのも……と思い慌てて立ち上がらせたものの、アイリは今にも泣きそうな顔で“ごめんなさい”を繰り返している。


「落ち着け、アイリーン」

「ご、ごめんなさい……たくさん、ごめんなさい……私、起きる、朝、嫌い……」

「もしこの部屋に暴漢が押し入っても、それが朝ならば君が見事に撃退できるであろうことはわかったよ」

「ごめんなさい……」


 ハドソンは苦笑しながらアイリの背を軽く叩き、一緒に朝食をとる提案をした。

 今だうつむいてはいるものの、ハドソンをもてなそうと慌てて朝食の準備に取り掛かるアイリ。

 2人がようやく朝食を取り始めたのは、このちょっとした騒ぎから15分後のことであった。


「アイリーン、私の分の朝食はあるか?」


 気まずい雰囲気を打ち破ったのは、上機嫌な声色を浮かべるジェームズであった。

 その姿は相変わらず浮浪者老人であったが、アイリは特に反応するでもなく何度か頷いて外へと出て行く。


「彼女は君を見てもちっとも驚かなかったな。一度でもその変装を見たのか?」

「いいや? だがアイリーンは肝が据わっているから、多少のことでは驚かん」

「そういう問題なのか……?」


 不思議そうに首をひねるハドソン。

 やがて手にジェームズ用の朝食を抱えたアイリが戻ってきて、その頃にはジェームズもすっかり元の紳士へと戻っていた。


「しかし、今日の朝の散歩は非常に有意義なものとなったよ」

「どこまで散歩に行っていたんだ、ジェームズ」

「たいしたことは無い。地下室がありそうな家だ。まあ、全て洗い出す時間はなかったがな」

「恐らくは金曜日の悪魔についての調査だろうが、私にはさっぱりわからん」


 お手上げ、といった風にハドソンが肩をすくめれば、ジェームズは少しだけ眉を上げた。


「なんだ、自分で考えないのか? いいか、ハドソン。物事と言うのは多方面から見なければいけない。重要ではないと思われる情報も、別の方向から見れば“なぜこんな大きなことを見落としていたのか”と後悔するほど重要だったりするものだ」

「それはわかる。だが私は君が探しているものが全く理解も想像もできないんだ。まあ、強いて言うなら昨日の目撃者探し、とかか? でもそれは警察もやっているはずだ。それに、なぜこの話に地下が出てきたのかも謎だな」


 小さくため息をついたハドソンは、紅茶をすすると腕を組んで椅子に背を預けた。

 実のところ考えるのも面倒くさくなって種明かしだけ聞きたい気持ちでいっぱいであったが、常々“自分で考えて発言しろ”とジェームズに言われているため、一応考えているそぶりを見せているのだ。

 これが“そぶり”であることはジェームズもよく理解しているが、結局はジェームズも事の顛末を話してしまう。

 しかし、今日は違った。


「いつもならば君にも解き明かしをするのだが、今回はまだ黙っているとしよう。しかしヒントを与えるとしたら、私が探しに行っていたのは君の言うとおり不審者の目撃情報だ。そしてそれは“一切なかった”とだけ言っておこう。それから、奴隷を定期的に購入している男もいない」

「なるほど……わからんな。なぜ奴隷の話が出てきたんだ」


 少し不満げなため息をつくハドソンを見て、ジェームズはわずかに口角を上げた。


「アイリーン。手伝ってくれ。ああ、もちろんハドソンもだ。もし君たちが今日特に予定もなく、私を手伝ってくれる気になればだが」


 ジェームズ独特の言い回しに思わず苦笑する2人。1回だけ頷けば、ジェームズは嬉しそうに笑った。


「アイリーン。君の容姿は目立つ。だから表立って動く必要は無い。君の役割は警察署へ行ってグリーンスレード警部にこの手紙を渡すことだ。いなければグレイソン警部でもいい。むしろ彼であれば君にとっても私にとっても都合が良いな。彼は金髪で背が高く、ひょろっとしている碧眼の男だ。右目に従軍時代の傷が縦に入っているからすぐに分かるだろう。そこの箱に変装道具が入っているから、髪の毛と顔を隠して行きなさい」

「あい!」

「ハドソン。君は浮浪児を10人ほど雇って“地下室がある家”を探すように言ってくれ。一番多く見つけたものには追加で料金を渡すとも」


 そう言いながらハドソンにお金をいくつか渡す。ハドソンはそれを受け取りながら少し渋い顔をした。


「浮浪児? 大丈夫なのか?」

「ああ、彼らは警察よりも優秀に働くときがある。今度正式に私の部下として雇おうかと考えているところだ。13時まで探してもらったら、私のところに報告するよう言ってもらえるか? その間に私は最終調整へと入ろう」


 銃を取り出して胸ポケットへとそれを突っ込むと、ジェームズは暖炉前に椅子を引っ張ってきてその上へと座った。そして椅子のふちへ足を乗せ、鼻の下で組んだ手で鼻をいじりながら深い思考へと入っていく。

 こうなるともう他人の声など聞こえないことはハドソンが一番と言っていいほど理解していたので、ハドソンは何も言わずに部屋を出て行った。

 そしてアイリも空気を読んで足音を立てないように部屋を移動し、指定された箱をそっと開ける。

 その中には男児用の服が一式そろっていた。それを取り出して体に当てると、驚くほどぴったりのサイズである。一体どこから持ってきたんだと思いながらも、トイレにこもって服を着替えた。


『凄い、なんかの衣装みたい。こういう服ってなかなか着ないからなあ』


 シャツにサスペンダーつきの半ズボン。靴下に革靴といった典型的なイギリス少年の服装だ。ハンチング帽の中に黒い髪の毛を全て押し込むと、それを通常のかぶり方よりも深くかぶってつばで顔を隠した。そして首には襟巻きを巻き、口元を隠す。防寒のコートを着込んで手袋をはめれば、どこからどう見てもただの少年であった。


『こんな感じかな!』


 自分が思っていたよりも“少年”に見えることに満足したアイリは、クルッと回って着こなしに問題が無いかチェックする。そして一通り見終わると、トイレから出てジェームズに一声かけた。


「ただいま」

「それは帰ってきたときに言う言葉だ。正しくは“行ってきます”」


 視線はこちらにない。ジェームズから返事が帰ってきたことに驚きながら、アイリは小さく“行ってきます”と言って部屋を出た。

 部屋はしんと静まり返り、ただ薪の燃える音しかしない。いつもであればアイリが“酸素!”と叫びながら定期的に窓をあけるものの、今日はその騒がしい小間使いもいない。

 ジェームズは静かな部屋で、今までと同じように考え事へふけった。




* * * * * *




「こんにちは。ジェームズさんの小間使いです。グリーンスレード警部、お願いします」


 アイリがやや緊張した面持ちで受付の女性にそう言えば、「どういったご用件でしょうか」と困惑したような返答が返ってくる。

 顔を隠した子供が警部を呼べばそうなることはわかっていたものの、英語がまだ上手に話せないこともあり、アイリはつい挙動不審になってしまった。


「え? 手紙です……」


 慌ててそれだけ言えば、受付の女性は片眉を上げて困ったような表情になる。


「あのね、坊や。約束が無い人は会えないのよ。それともその手紙は、予めここに届けられると手紙の主が連絡を入れているのかしら?」

「わかりません……」

「困ったわねぇ」


 言われて見れば極々当たり前のことであるものの、アイリは自分が失念していた事実に愕然とした。あの異常に頭の回転が早い男をがっかりさせてしまうのではないかと思うと、酷く心苦しい何かを感じるのだった。

 どうしたものかと思い辺りを見回すも、都合よくグリーンスレード警部が現れるわけもなく、アイリは失意に満ちたまま小さくため息をついた。


「もう一度、その手紙の主に聞いてきたら?」

「……ジェームズさん、忙しい」


 ポツリとつぶやかれたセリフに、受付の女性はふとある思いが思い浮かんだ。そして相手が子供であることもあり、受付の女性はとても正直にその口を開いたのだ。


「あなた、もしかして変わり者のジェームズさんちの子?」

「え?」

「ほら、あの探偵よ。警察が頭を悩ませてるところに颯爽と現れて、とっても正直にものを言う探偵。最近外国人の子供を預かったようだって噂をしていたわ」


 評価は散々であるものの、恐らく受付の女性が言っているのはまさしく依頼主であるジェームズだと思ったアイリは、一度だけ頷いた。すると受付の女性は苦笑しながらも電話を取り、どこかへ電話をかけてから受話器を置く。


「今グリーンスレード警部に内線をかけたから、そのうち来るわよ。出たのは別の人だったけど、伝えてくれるはずだわ」


 先ほどとは打って変わって、ニコニコ笑顔を浮かべる受付の女性。

 アイリも満面の笑みで笑顔を言えば、「どういたしまして」と返って来た。

 しかし――


「君がジェームズさんのところの居候か」


 現れたのはグリーンスレード警部ではなく、金髪の男であった。アイリは一瞬会ったことがあったかどうか迷ったものの、その男が「会ったことはない」と先回りして言ったので少しだけ目を見開いた。

 そしてその目に傷があるのに気づき、この人はジェームズの言っていた人かもしれないと思う。

 案の定、ニコリともしない金髪の男はすぐそばまで来ると名を名乗った。


「私はグレイソンだ」

「僕は……ジョンです……」

「グリーンスレードが“ジェームズさんのところから男の子が遣いに来ているようなので、かわりに手紙を受け取ってきて欲しい”と。彼は今手が離せないのだ」


 表情1つ変えずにそう言うため、アイリは疑念を抱かずにはいられなかった。

 果たしてあの真面目そうな男がかわりを頼むだろうかと。しかしその思いも一瞬で消え、かわりに“大人にはのっぴきならない事情もある”“ジェームズがどちらに渡してもいいと言っていた”と思いなおし、懐から封筒を取り出す。


「どうぞ」

「ああ」


 酷く淡白なやり取り。

 しかし、用事は果たしたと思い別れ際の挨拶をした。受付の女性にもお礼を言えば、ニッコリ笑顔が返ってくる。

 そして、さて帰るかときびすを返したときのことだった。


「待ちなさい」


 後ろからかけられた声にピタリとその歩みを止め、アイリは恐る恐る振り返った。

 なぜアイリが恐る恐る振り返るようなことになっていたかと言えば、淡白なやり取りから“この人は怖い人”というイメージがついてしまったからである。

 アイリがこんなことを考えているとはつゆほども思っていないグレイソン警部は、その表情をピクリとも動かさないままアイリに歩み寄ってきた。


「上手にお遣いできたな」


 そう言って一度だけ頭を撫で、アイリの手の中に何かを押し付ける。


「え」

「ご褒美だ」


 開いた手の中には飴玉が3つ置いてあった。


「あ、ありがとうございます……!」


 グレイソン警部は一度も振り返らなかったが、アイリの中でグレイソン警部が“怖い人”から“凄く良い人”に変わった瞬間であった。




* * * * * *




「ハ! それで君はグレイソン警部に手紙を渡したわけだ。飴玉3つで買収されたな、アイリーン」


 警察署から戻って来ると、すでに長考を終えたジェームズが機嫌よさげにパイプをふかしているところであった。そしてアイリが誰に手紙を伝えると、ジェームズはひとしきり笑った後にこのセリフを吐いた。


「……ジェームズさん、グレイソンさん、良い言った」

「ああ、グレイソン警部でもかまわんさ。むしろ私はその方が良かった。だがグリーンスレード警部は手柄を横取りされ、歯噛みするはめになるだろう」


 いまだジェームズが何を言いたいのかわからずにアイリがボウッとしていると、ジェームズはニヤリと笑って天井に向けて口から煙を吐いた。


「まあ、こういうことだ。私は君に警察の知り合いが増えることを好ましく思っている。なぜなら私の仕事は恨みを買うこともあるからだ。そして君はあらゆる意味で特殊な立場にいる。つまりここで居候をするということは、君にとって非常にリスクが高いということなのだよアイリーン。だから私は君に警察の知り合いが増えることを好ましく思っているんだ」

「はあ」

「君はグリーンスレード警部と一度会っているな? 彼は恐ろしく人の顔を覚えるのが得意だ。君の顔は特殊だから、彼ではなくとも覚えられると思うが。まあ、なんにせよ彼はもう君を忘れたりしない。アイリーンが困っているときに彼に会えば、彼は必ず君を助けるだろう。だから私は次の知り合いを増やしたかった。つまりそれがグレイソン警部だ」


 アイリはなるほど、と思った。また自分のことを思ったよりも考えていてくれることに驚き、嬉しくなる。


「彼も人の顔を覚えるのは得意だ。それに君は勝利の女神となるのだから、彼は一生君を忘れないだろうな」


 まだ笑いがおさまらないジェームズは、クックックと喉の奥で笑うと片手で目を覆う。


「いや、しかし飴玉3つか」


 ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべながらアイリを見ると、ジェームズは大きく深呼吸してソファから立ち上がる。


「さて、そろそろハドソンが戻ってくるだろう。そうしたら報告を聞いてから次の作戦だ。アイリーン。君も整えておくように。私は銃の手入れでもしてこよう」


 ご機嫌な様子でそう言って、ジェームズは寝室へと入っていった。

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