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第1話

 ジェームズはハドソンに“君”をつけたりつけなかったりして呼びます。

 茶化しているときはまず間違いなく“ハドソン君”と言いますが、他にも機嫌がよかったりして気が向けば“君”をつけるのです。

「いやはや、またウィリアムズ・モリス教授のニュースか。ここ最近はこればかりだな。実につまらん。今度は何を発見したんだ? ここ最近は特に目立った事件もないし、世間には良いことかもしれないが退屈で仕方がない。正確に言えば何か警察が悩んでいるようだが、今だお呼びがかからないな。私はあの事件に非常に興味があるのに残念だ」

「ジェームズさん、駄目な人。事件ない、良いこと。今、興味ある、何? どうせ悪いこと。ジェームズさん、意地悪」

「アイリーン。私は君がそれをどう使うつもりかハッキリとわかっているから言うが、そのバケツの水は別のことに使うことをオススメする」


 金曜日の夜も深い時間。

 バケツに水を入れてジェームズを嗜めつつ風呂場から出てきたアイリに、ソファに寝転がりながら新聞を読んでいたジェームズは一瞬視線を向けてそう言った。視線は再び新聞へと戻っている。

 アイリは何をするとも言っていないのにわかるはずがないと思い、わずかに顔をしかめた。すると、ジェームズはアイリの方を向いていないにも関わらず、アイリの不満を察知して再び視線をアイリに向ける。


「……火、危ない」

「ああ。だが、君が思っている何倍も、火の付いた炭に大量の水をかけるほうが危ない。水蒸気爆発を起こすぞ。火を消したいのなら、その火消し壷に炭を入れるんだな」


 顎で示された先には陶器製の壷が置いてあり、その横には火バサミがあった。アイリはしばらく考えてバケツの水を風呂場へ戻すと、再びやってきてエプロンドレスに煤がつかないようたくし上げつつ、火バサミで慎重に炭を拾い始めた。


「しかし、まだ消さなくてもいいんじゃないか? 周りに燃えるようなものは何も無い。朝まで燃やしておけばいいだろうに」

「ジェームズさん、危ない。馬鹿人間、火で自分焼く、そして死ぬ」

「…………」


 単語をあまり知らないせいで、アイリがとてもハッキリとした物言いをするのはよく理解していた。しかし、いつになくあけすけな言い方に、ジェームズの顔はわずかにしかめられる。教育的指導をした方が良いようだと思い身を起こしたところで、階下の玄関ベルが激しい音を立てるのを聞いた。


「おい、アイリーン。急いで電気を消して気配を消すんだ。私の考えが正しければ、あれは招かれざる客人だぞ。それも我々のだ。事件が来るのは歓迎だが、今は暖かいベッドの方が良い」

「我々? 違う。ジェームズさんの。私、違う」


 私は関係ないとばかりにそう言い、アイリは火消し壷に入れた炭を元に戻し始めた。お客様が来るのなら、まだ火を取っておいた方が良いと思ったのだ。外は寒い。火があれば外からの来訪者も心休まるだろうと思った。

 しかしジェームズはそれを見ながら小さく舌打ちをすると、急いで立ち上がり、アイリがまだ火をいじっているのにも構わず部屋の電気を消して回った。


「ちょっと!」


 そしてジェームズがベッドへと滑り込むのとほぼ同時に、部屋のドアが4回ノックされる。


「ジェームズさん。ジェームズさん、まだ起きていらっしゃるのでしょう?」


 その声はこの下宿の女主人であるメイスン夫人のものであった。声を覚えていたアイリは、部屋の電気をつけるとすぐにドアを開ける。


「こんばんは、ジェームズさ――あら、あなたも起きていたの、アイリーン。ジェームズさんはいるかしら?」


 アイリがチラッとメイスン夫人の後ろに視線を向ければ、そこには今にも倒れそうなほどに真っ青な顔をして震えている1人の夫人が立っていた。


「はい」

「では呼んできてくださる? こちらのご夫人が火急の用事、とのことですからね」

「はい」


 スッと足を引いて礼を取り、「どうぞ」と客人を中へ通した。


「こんな遅くに来てしまって申し訳ありません。ご気分を害されないといいのですが。でもどうしても今でならないといけない、恐るべき事件が起きてしまったのです。これはきっと警察では解決できませんわ。だって警察は今でも解決で来ていないんですもの。まさかわたくしがそのような恐るべき事件に巻き込まれるだなんて、夢にも思っていませんでした」


 そこまで言うと、夫人は口元を覆って泣き始めた。

 突然のことに慌ててメイスン夫人に助けを求めようと振り返れば、いまだそこにいたメイスン夫人が肩をすくめて去っていくところであった。正直置いていかないで欲しい気持ちでいっぱいであったが、これはなんとしてでもジェームズを起こさねばならないと思い、アイリは小さくため息をつく。


「ジェームズさん」


 部屋の奥へ呼びかける。

 返事が無いのでドアノックしようと近づいたときのこと。勢いよく扉が開き、服装を整えたジェームズが薄っすら笑みを浮かべて立っていた。


「こんばんは。お待たせしました、ご夫人。私がジェームズです」


先ほどとは打って変わってキリッとした顔。

まさか女性だからか……とアイリが顔をしかめると、それをまるっと無視してジェームズがアイリの前を通り過ぎていく。


「ああ、ジェームズさん! お会いしたかった……! お願いします、どうか私の話を聞いて助けて下さい……! これは本当に恐ろしい話なのです!」

「ええ、あなたがここへ来たのは、3ヶ月前から続いている、子供さらい……“金曜日の悪魔”についてですね。そしてさらわれたのはあなたの子だ」


 ジェームズがそう言うと、訪れた夫人は目を見開いて口をポカンと開けた。

 しかしアイリにはその意味が分からない。不思議そうな顔をしていると、ジェームズが視線で新聞を示しているのに気づいた。そっと移動して新聞に視線を移せば、“Friday devil”の見出しがある。しかしアイリには英語が読めなかった。なんとか拾った情報は、子供が金曜日の夜に連れ去られる事件が起こっている、ということだけであった。


「なぜそれを……?」

「あなたは先ほど“警察は今でも解決できていない”と言った。警察が今現在解決できていない事件で、かつ女性が夜中に駆け込んでくるようなものと言えば、今はロンドンを賑わせている金曜日の悪魔以外にありえないのではないかと思ったのです」

「あ、ああ……確かに……そうですわね。確かに、そうですわ。聞いてしまえば当たり前のことですけど、動揺していて気づかなかったわ。確かにわたくしはその金曜日の悪魔のことでここに来たのです。今の言葉を聞いて、ジェームズさんにお話を持ってきてよかったと思いましたわ」

「お話を聞かせて頂けますか? 私はその事件に大変興味を持っている。ああ、その前にお名前を教えて頂けると嬉しいのですが」

「まあ……わたしくしったら……大変失礼致しました。デブラ・アンダーソンと申します」


 ジェームズがそう言ったのを聞き、これは長丁場になるぞと思ったアイリは紅茶を入れるために席を立った。するとジェームズはアイリを呼びとめ、「ついでにハドソンを起こしてきて欲しい」と言いつけるとアンダーソン夫人をソファへと座らせた。

 ところでなぜあれほど嫌がっていた訪問客を迎え入れたのかと言えば、ジェームズが言ったように金曜日の悪魔に対して非常に興味を持っていたからであった。だからアンダーソン夫人の大きく響く声が聞こえた瞬間、身なりを整えて飛び出していったのだ。

 アイリの思っているようなことは微塵も無いが、アイリの誤解は未だに解けていない。


「さて、アンダーソン夫人。先ほど私が小間使いに呼んでくるように言った“ハドソン”という男なのですがね、彼は今までに何度も私が事件を解決するための助言をくれている男です。先に聞くべきでしたがら彼が同席してもいいと言って頂けるのなら、この事件の謎を解く助けになるとお約束しましょう」

「ええ、それはもちろんです。それに、あの、もしご迷惑でなければ先ほどの女性の方も……」

「ああ、そうですな。こんな時間ですし。それにそう言って頂けると私としても助かります。あれは最近ここで働き始めたのですが、よく気の回る者で。もしかしたら何か事件への糸口を見つけてくれるかもしれない」


 それからしばらく、ドアを開けたまま2人がハドソンとアイリの帰りを待っていると、5分ほどしてようやく2人が戻ってきた。ハドソンの方はやや不機嫌な顔をしていたものの、アンダーソン夫人を見るとスッとその表情を取り繕う。


「それで。こんな夜中に起こすからには相当な大事件なのだろうな」

「初めましてハドソンさん。わたくしはデブラ・アンダーソンと申します。夜中に訪問してしまい申し訳ありません。金曜日の悪魔についてお話を聞いて頂きたくて……」

「金曜日の悪魔! あ、ああ……失礼。初めまして、アンダーソンさん……いったいなぜそんな事件を?」

「実は……」


 アンダーソン夫人は再び顔をくしゃくしゃにすると、口元に手をあてて時折嗚咽を漏らしながら話しだした。


「わたくしの息子が……たった今、金曜日の悪魔に連れ去られたのです……! もちろん、私の勘違いなんかじゃありません! あんな音も立てずにさらっていくなんて、金曜日の悪魔としか思えない……!」


 何とかそこまで言うと、アンダーソン夫人はワッと泣き声を上げて顔を覆った。部屋は一瞬静まり返り、あたりに緊張が走る。その中でただ1人、ジェームズだけが表情を動かさない。


「アンダーソン夫人、それは我々ではなく、警察に行くべきだった……」


 ハドソンの動揺した声に、一体何が起こるのかとドキドキしながら聞いていたアイリも内心で頷く。

 そもそもアイリには良くわかっていなかった。警察という国家の組織があるのに、こうして人々が探偵へ依頼を持ってくる理由が、だ。

 警察は調査にほぼ妨げなく動けるはずだが、探偵はそうはいかないのではないかと思った。そして実際にそうだ。警察ほど権力がない探偵に一体何ができるというのだろうか、と言うのがアイリの弁である。


「わかっています……! 分かってはいますし、もうすでに行ったんです……でも、警察は取り合ってくれなかった……!」

「ハ! 相変わらずだな。いい加減に調書を取られて追い返されたのでしょう」

「ええ、まったくその通りです、ジェームズさん。わ、わたくしは……一度も真剣に話を聞いてもらえませんでしたわ」


 シャーロックの嘲笑を聞きながら、アイリも思わず顔が歪む。


「なるほど。アンダーソン夫人。事件の詳細をお聞かせ頂けますか? なに、警察のように無駄にはしませんよ」


 フッと柔らかな笑みを浮かべるジェームズを見て、アンダーソン夫人はようやく少し落ち着いたように鞄から取り出したハンカチで涙を拭った。


「今日が金曜日だということは、わたくしにもよくわかっていますわ。そして今が外へ出るべき時期でも、時間でもないこともよくわかっています。でも、出ざるを得ない状況になってしまったのです」

「お子さんが病気になったのでしょう? こんな時間に子供を連れて家を出ることがあるとすれば、病気くらいなものです」

「ええ、その通りです。熱がどうしても下がらなかったのです。息子は――息子の名前はエイブと言いますが、エイブはまだ6歳です。主人が早くに亡くなりましたが、遺産がそこそこありますので、わたくし一人でなんとか育てられていますわ。エイブは主人に本当にそっくりで、彼がいなければわたくしは主人の後を追って死んでいたことでしょう」


 アンダーソン夫人の声はまた震え始め、ハンカチで顔を覆って大きくため息をついた。


「熱で苦しんでいる我が子を、どうして放って置けるでしょうか! わたくしはすぐにエイブに外套を着せて、抱えて医者のところまで行きましたわ。幸いにして医者はすぐに対応してくれて、解熱剤でなんとか熱も下がり始めました。少し落ち着いたのを見計らって、医者へお礼を告げてから家へ向かいました。わたくしたちは最新の注意をはらって帰路を歩いておりました。どこに忌々しい金曜日の悪魔が潜んでいるかわかりませんから、とにかくこの子だけは守らねばと必死になっていました」


 憔悴したようにソファーへ背を預け、アンダーソン夫人は再び目元をハンカチで拭う。


「その道のりはことさらに長く感じ、夜と言うだけでいつも通っている道がまるで地獄のように感じられました。ようやく家へたどり着いた時には、わたくしは非常に憔悴していたのです。だから……だから少し油断してしまって……」


 再び震え始めたアンダーソン夫人は、涙を浮かべながら必死に話を続けた。


「わたくしは抱えていた息子を階段のところへ座らせ、バッグの中から鍵を取り出して鍵を開けました。そして再び息子を抱えようと振り向いたとき、もう息子はいなかったのです」

「なんだって!」


 ハドソンの驚いた声が部屋に響く。

 アイリも目をわずかに見開き、いったいその息子に何が起こったのかと考えをめぐらせていた。しかしその答えは簡単に出そうもない。


「実に不思議だ。アンダーソン夫人、近くには何も見えなかったのですか? 例えば馬車とか、人影とか。もしくは物音がしたとか、挑戦的な手紙が置いてあったとか」

「いいえ、ハドソンさん。そこには誰もいませんでしたし、なんの物音もしなかったのです。本当に煙のようにスッと消えてしまいました。これがわたくしの知っている全てですわ」


 そう言って静かになるアンダーソン夫人。その目には後悔や怒りの念が浮かんでおり、子を持っていないアイリですらその情が移るほどであった。現にアンダーソン夫人は非常に神経をすり減らしており、ブツブツと「息子が助かるのなら、依頼料として残っている遺産を半分渡してもいい」と言い続けるのだ。


「アンダーソン夫人」


 妙な空気と沈黙を破ったのは、晴れやかなジェームズの声だった。


「私の考えが正しければ、お子さんは元気ですよ。この事件も2日あれば解決します。2日後にここへ来て頂ければ、元気な息子さんと会えることをお約束しましょう」

「まあ、本当ですか……!」


 アンダーソン夫人の顔は見る見る血色が戻り、先ほどとは違う涙がじわりと浮かんでくる。何度もお礼を言いながら、涙をボロボロと零し始めた。


「さあ今日は遅い。ハドソン。悪いがこのご夫人を送ってくれないか。ああ、アイリーンも連れて行ってくれて構わない」

「ああ、それは構わないが、君はどうするつもりだ?」

「私はこの事件に関するちょっとした疑問を解決しに行くつもりだ。君は今日戻ったらもう寝ても構わないよ。アイリーンもね」


 ジェームズはそれだけ言うと、アンダーソン婦人へ簡単に挨拶をして部屋を出て行った。しかしすぐに戻ってくると、アイリの耳元へスッと口を寄せる。思わず後ずさろうとアイリが身を引くと、その腰を引かれて止められた。


「安心しなさい、アイリーン。金曜日の悪魔は。今月はもう動かないはずだ」


 アイリにだけ聴こえるようにそれだけ言って体を起こし、わずかに口角を上げて部屋を出て行く。アイリはその後姿をボウッと眺めながら、残された3人は少しだけ放心していた。

 しかし、やがて誰ともなく動き出して、アンダーソン夫人を送るために外へと向かったのだった。

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