黒い子供
久々の実家の布団は、妙に懐かしい匂いがする。
俺は今、息子と妻の三人で川の字になって寝ている。
小学生になった息子の初めての夏休みに、一人でお泊りさせようと妻が提案し実家を訪れた。俺と妻は夕方には自宅に帰る予定だったが、いざとなると息子は怖気づき帰るなと懇願したのだ。で、結局三人で泊まる事になってしまった。
張り切っていた息子が、意気地を失ったのはジイさんのせいだ。
ジイさんは戦争体験の語り部だ。と言っても、子どもだったジイさんは戦時中の記憶が乏しく、語るのは戦後の混乱期や親から聞いたという空襲の話が主だ。
この空襲の話は俺も子供のころ散々聞かされた。それを息子にも語ったのだ。やめろって言ったのに。
*
焼夷弾に町は焼きつくされた。
ゴウゴウと燃え上がる炎が風を呼び、その風が更に炎を煽ると竜巻のように火炎が空に伸びていった。
累々と屍が転がる路傍を、無残にも焼けただれた人々が幽鬼のように彷徨う中、男は空襲の際の避難場所としていた親戚の家を目指し歩いていた。きっと家族はそこにいるはずだ。
その途中で一人の女に出会った。全身に真っ赤な火傷を負ったその女は、崩れた家々の間を歩き回っていた。何かを探して這いつくばり、炭化した梁の下を覗く。
「何探してんのか知らんけど、もう諦めて避難せな。あんた酷い怪我やで」
男が言うと、女は泣きそうな顔で訴えた。
「うちの子がおるんや。ここにおるんや。置いてなんか行かれへん」
女はふらつきながら残骸の中を進んでゆく。転がった遺骸を一つ一つ確認してゆく。
男は何も言えずに見守っていた。
真っ黒に焦げた死体に目鼻などなく、それが誰だったか判別のしようもない。人の形を留めていないものさえあった。しかし、地面に接していた部分は焼けずに残っていることもある。僅かな衣服の断片が、かつてはソレが人であったことを主張していた。
女は目の前に広がる地獄を凝視し、我が子を探す。髪を振り乱し血を流し目を真っ赤に充血させて、鬼のような姿で我が子を探し続けていた。
そしてついに、ああと歓喜の声を上げた。小さな黒い塊を抱きしめる。真っ黒な、子供らしきもの。
果たしてそれは本当に、彼女の子供なのか。しかし女はひしとその遺骸を抱きしめ、喜びの涙を流した。
男がいたたまれなくなって背を向け途端に、ドサリと重い音が聞こえた。
振り返ると女が倒れていた。胸に焼け焦げた子供をきつく抱き、瓦礫から守るように仰向けて倒れていた。
すでに息絶えた女の顔は、幸せな夢を見ているように安らかで、子供と共に逝けることを喜んでいるようだった。
*
ジイさんは黒焦げ死体のことをこと細かに話す。そのせいで息子はチビる寸前となり、俺たちに帰るなと涙目で懇願した。弱虫呼ばわりは出来まい。ジイさんの話が巧みすぎるのだ。
息子はぐすりながらも、妻にしがみついてようやく眠った。
しばらくして俺も眠りについたらしい。が、なんだか胸が苦しくなり目が覚めた。ズンと重いものが体の上に乗っかっているようなのだ。
寝返りを打とうとしたがまるで動けない。
ドキリと心臓が鳴った。これは金縛りか?
バクバクと耳の奥で鼓動が響きだす。
何かが乗ってる。確かに乗ってる。
――やばい。
目が開かない、というか開ける事に躊躇していた。
全身が固まったまま目を閉じ続けていると、もぞりと俺の上にいるものが動いた。
――や、やめろ!
心の中で叫ぶ。
しかしそれはもぞもぞと動き続け、俺の腕を掴んだ。
――やめてくれ!
思わず目を開けてしまった。
真っ黒なものがいる。
真っ黒な子供のような人影。
ジジイの話が、走馬灯の様に頭の中を駆け巡った。
この家は、空襲を受けたど真ん中に建っているのだ。
ソレが俺の腕を掴んだまま、むくりと起き上がった。
――よせ! まだ死にたくない!
恐ろしいのに目が離せない。黒い子供がゆらりと倒れこんできた。
「へへへ、これ、あみちゃんにあげる。オレ、いっぱい持ってんねん」
――なに?
ハーと大きく息を吐き出し、ソレを横にどかす。
なんのことはない、真っ黒に日焼けした我が息子ではないか。俺は起き上がってもう一度大きく溜息をついた。何たる失態か、息子に怯えてしまったとは。
幽霊でなくて良かった……良かったが、なんだか腹が立ってきた。
むむっと顔をしかめて息子を見下ろし、呑気に眠っているおでこをゲンコツでグリグリとこねた。起きる気配がないので更にグリグリといたぶってみる。
すると、いきなり腕を思いっきり叩かれた。
「何してんの!」
妻がものすごい顔で睨んでいた。そして鬼の形相で俺から息子をさらっていった。
さっきまでイビキかいてたくせに、脅かすな。寝てても息子の異変は見逃さないのか? 怖いな、こいつ。幽霊よりよっぽど怖いかも。
妻はしっかりと息子を抱いている。
俺を睨んだ鬼の顔は何処へやら、菩薩様みたいな顔してやがる。息子はその腕の中で安心しきった無防備な顔で眠っている。
それで、俺は思った。
あの女はちゃんと我が子を見つけたんだと。間違えるはずないのだと。
そして妻も絶対に息子を間違えたり、見捨てたりはしないだろうと思った。そう、どんなことがあっても。
例え俺には牙を剥こうとも、息子に見せる慈愛深き母の顔に偽りはない。
うん、なんかいい感じだ。いい女じゃないか。
それにしても息子よ、あみちゃんって誰?