1 コロンビア
1.コロンビア
お母さんに手を握られ
僕はキャンデーを舐めながら歩いていたんだ
空は真っ赤に燃えていて
大きな大きな雲がどこか遠くの世界へ続く扉のように二つに割れていて
僕はその雲間から見える夕焼けの
一日の汚れをゆっくりと落としているような真っ赤な空を見上げながら歩いていた。
お母さんの手はとてもはかなくて
今にもほどけてしまいそうなくらい
僕はその真っ白な右手を
ほどけぬようにギュっと握り締めて
どこへ行くとも知らずにただ歩いていたんだ
それが夢だとわかってても
気がつかないふりして
扉よ開け
僕をどこかへ連れてって
ウトーランデルシ
扉よ開け
封印よ解けて
僕をどこか遠くへ
フウ・・・ハッハッハッハア・・・・
使い古されたマジックテープのスニーカーが草いきれをしっかりと踏み鳴らし、僕を前へ前へ押し出す。
肩掛けが伸びて、少しだけバランスのおかしい黒いランドセルを背中にしょって、いつも被っている薄手のニット帽を被り、いつもの決して大きくも小さくもない川沿の土手になっている通学路を全力疾走する。
ジリジリと夏の準備をすっかり終えた太陽の光が、今日も元気に仕事を開始している。その周りにはコック帽みたいな雲が4つ。そして真っ青な、本当に僕が貧血で倒れちゃったときなんかよりずっと真っ青な空の色を見上げる。
空は夜の間に塗り上げた自慢の青色を、吸い込まれそうなくらい高く積みあがった青色を、僕の真上で披露していた。少しだけ、そんな言葉があるのか知らないけれど、五瞬位―― 一瞬を5回くらい重ねたくらい、僕は立ち止まって首が取れちゃうくらい目いっぱい上を見上げた。
「今日もいい天気。」
僕はそう小さくつぶやいてまた走りだした。
「ケンヂ君。おはよう。」
家から10分くらい――右手に赤い団地の3と描かれた手前から三番目にある建物が見えると土手の下から決まって声がする。
「おはようモモちゃん。」
モモちゃん。本名坂下百桃は僕の幼馴染だ。
て言ったって僕は小学校二年生のときからここへ越して来たから、実のところ三年間しか僕はモモちゃんを知らない。
それでもモモちゃんは僕を幼馴染だと言う。モモちゃんは優しいんだ。
「絆創膏。」
モモちゃんはあんまりしゃべらない。僕はもう慣れっこだけど、彼女をよく知らない人は大概、彼女が何を言っているのかわからなくてとまどってしまうか足早にモモちゃんから離れていく。皆が思ってるよりモモちゃんはとってもあったかいし、いい子なのにな。
ちなみに今のは正確に言えば「絆創膏貼ってあるけど怪我したの?」って意味だ。
「ちょっと擦り剥いたんだ。でも大丈夫だよ。」
モモちゃんは少しだけ眉毛を真ん中に寄せて困ったような顔をして僕と一緒に歩き出した。
僕も走るのをやめ、汗ばんだTシャツの首元を引っ張ってパタパタと風を入れながら舗装されていない土手の上をモモちゃんの歩調に合わせて歩き出した。
「食べる?」
僕はモモちゃんにコーヒーキャンディを見せる。モモちゃんはコクリとうなずいてそれを受け取る。右頬に放り込まれた大きな真ん円のキャンデーが薄くてまだ真っ白なモモちゃんの頬を目いっぱい膨らませる。
「ありがとう。」
モモちゃんはとても素敵に、そりゃあもうコマーシャルでやってる綺麗な女優が持っていたダイヤモンドの指輪みたいに輝きながら笑ってそう言った。
「甘いね。」
「うん。」
口をすぼめて甘いコーヒーキャンディをほおばるモモちゃんは何だか小さなリスが一生懸命どんぐりを口に詰め込んでいるようで可愛かった。
――明日はうんと大きい飴を持ってこようかな。
五分くらい歩くとドラマに出てきたような川沿いに建つ学校が見えてくる。小さくも大きくもない薄茶色の校舎。
校舎の正門を入ってすぐのところに申し訳なさそうに建っている時計台。いつ寄贈されたのかはわからないがその時計台は随分と古めかしく、元々塗られていた塗料も全て剥げ落ち、今はエメラルドグリーンの素肌が夏の太陽に照らされて鈍く光っている。時計自体も止まっていて、塾の時間だとかテレビの時間だとか、何かと忙しい時間を気にする現代っ子のニーズには少しも応えず、ただの大きなオブジェとしてそこに突っ立ている。
――大丈夫。二十分前だ。
僕は左手にはめた、お母さんに昔――僕の人生にだってそれなりの昔はあるんだ――買ってもらったアナログ盤の腕時計を見て現在を確かめてから正門をくぐった。
いつもの一日。僕の大切な一日。応答していますかお母さん。今日もいい日ですよ。
「ケンヂ知ってる?」
おごそかな朝の会を終えて、一時間目の授業が半ばまで差し掛かったころ、隣に座るしょうチャンが包まれていた静けさを飛び出して話しかけてきた。
窓際に席に座る僕は一通り黒板に書かれた文字をノートに写し終わり、何となく校庭をじっと見つめていた。影一つない爽やかなグランドを低学年の生徒たちが楽しそうにドッジボールをしている。あーあ。なっちゃいないよそのフォーム。
「何のこと?」
僕は暇つぶしにもならない下手くそなラリーの応酬に見切りをつけて、教室側の方に体の向きを変え、退屈だった算数の授業に一石を投じようとしているしょうチャンを見た。
「えへへ。」
いつも話題の豊富な彼は浅黒い顔から覗く一箇所だけ穴の開いた真っ白な歯をにんまりとさせて既に僕のほうを見ていた。仕入れたばかりのとびっきりの新鮮なネタを早く披露したくてうずうずしているようだ。
しょうチャンは両親が沖縄の生まれで、この土地で沖縄料理屋を営んでいる商売人の息子だ。屈託なく笑うその顔はとても愛嬌があり、名前も川田照喜と彼の性格をぴったり表現するような字になっている。
生まれたのはこっちだから正式には彼は沖縄人ではないんだけれど、自分のことをウチナーンチュ――向こうの人は沖縄本土に住む自分たちのことを内地人と書いてそう読んだりするらしい――なんて言ったりして、かなり沖縄に憧れを抱いているようだ。
「ウチュウジンダヨン!」
ダヨン?ダヨーン。しょうチャンの言った言葉が余りにも力が入りすぎていて、僕は一瞬先生に気づかれたんじゃないかってドキドキしたけれど、しょうチャンはそんなことは全くお構いなしに、前歯の一本抜けた、すっとんきょうな口をニっと大きく横に開いて、僕の反応を楽しんでいるようだった。
「なにそれ。方言?」
力のこもったしょうチャンの言葉が勢いとは裏腹に聞き取りづらくて、また得意の沖縄弁を覚えてきたんだと僕は勘違いしてしまった。
「さっぶいよソレぇ!天然?んん。宇宙人だって。宇宙人が出たらしいの近所で!」
――しょ、しょうチャン声大きいよ。僕は何度も教卓の方に視線を向けながら、宇宙人が出たというキテレツな話に耳がピクンと臆病な小鹿みたいに反応した。
「どこに?誰が?どこで見たの?」
「テルの友達の塾友達が見たんだって。ホラ、学校の裏門の近くに空き地あるっしょ?たまに野球しに行くとこ。でっけえお化け柳のあるさあ・・・」
お化け柳の空き地。一年くらい前に、塾の帰りに白い服を着たおばあちゃんを見たという、友達が友達の友達から聞いた話をして話題になったスポットだ。普段は工事用の資材が置いてあるけれど誰も使っていないから、学校帰りとかに小学生が遊び場にするような空き地なんだけど、ひとたび日が暮れると空き地の隅っこのほうでザワザワと揺れる柳の枝がとても妖しくて、いかにもな雰囲気が出てあんまり一人じゃ通りたくない場所になる。
「そこでね空に真ん円の、あのさ運動会の玉ころがしで使うみたいな、あのくらいのおっきさの何かがボーっと光りながらフワフワ浮いてたんだって。十時ごろだったって言ってたなあ確か・・・」
しょうちゃんは黒目の大きいまぶたを目一杯広げてまくしたてる。水が勢いよく流れるホースをキュッと指でつまんだみたいに、まだしょうちゃんの幼い口では補いきれない数の情報が早く早く外へ出たいとせかしている。整頓されてない言葉のマシンガンを次々と当てられた僕は、とまどいながらも必死に頭にそれを叩き込む。しょうちゃんは二度同じことを繰り返すのが嫌いなんだ。
なんとか情報を受信した僕は、大きな光というのをマリオブラザーズのテレサみたいなものを想像した。あんなキュートでお茶目なお化けが夜な夜な公園でフワフワ浮かんでたら意外と楽しそう。
「その子は一人で見たの?」
素朴な疑問だった。不気味な空き地に一人でなんか行きたくないよ。よっぽどの用がない限り。
「塾の帰りに友達同士であそこで遊んでたんだとさ。皆で買い食いして花火やろうとしてたらしい。あそこ静かだし、人気もないから。」
しょうちゃんの顔は嬉々としていた。人に注目されるのが大好きなしょうちゃんには散歩に行こうと言われた座敷犬みたいな表情をした僕の顔がたまらなかったんだろう。
「それで、花火終わって解散したんだよ。でもそいつ一人戻ったんだ。忘れ物したかなんかでさ。
・・・そしたら出たんだとさ!」
「でもなんで宇宙人なの?お化けとかそういうもんじゃないの?」
「そうなんだよ!そこが大事なの!」
「はい静かにい。そこのバッドボーイズ達ィ。そろそろ上級生の自覚持とうねえ。」
興奮のあまり声がますます大きくなっていたしょうちゃんに先生が眠たげな声で注意する。朝から意地悪にがなり立てる、目覚まし時計のスイッチをめんどくさそうに押すみたいに。
先生に愛想笑いを浮かべながら目線を前に倒したしょうちゃんは反省してるつもりもしょんぼりと沈んでいる様子もなく、また話を始めるチャンスを伺っているようだ。
「今日のスパニューで隕石落下のニュースやってたじゃん?」
案の定、五分もたたないうちに先生の隙をつき話しかけてきた。
やりたいことは今すぐやるがモットーです。四年生のときしょうちゃんと初めて同じクラスになって、その初めてのクラス会のときに自己紹介で言った言葉を思い出す。
僕は先生の目線を気にしながらだったので、しょうちゃんの問いかけがよく聞こえなかった。
「スパニューだよ。ゆかりちゃん、今日も可愛かったあ。」
『スパニュー』っていうのはスーパータイムリーニュースチャンネルという朝の報道番組で、小森田ゆかりという有名な美人キャスターが番組の始まりに耳元で囁くような甘い声で「おはようございます。」と言ってくれる。
基本的におじさんが好んで見る様な少しお堅い番組であり、子供はびっくり人間だとかとれたてハプニング映像だとかを見せてくれる「快天モーニング」を見るんだけど、ませた小学生は朝の六時半にセットした目覚まし時計に飛び起き、テレビの真ん前に正座して彼女の濡れたようにしっとりとした口元を見つめながら、なんともいえない高揚感を味わうのだ。
「ごめん。見てないや。」
「ええ?お前モーニング派なの?まあいいけどさ。それでね、ゆかりちゃんが言ってたのよ。国内の隕石落下の事件が一週間ぐらい前から急に増えてるって。」
僕、朝はテレビ見ないんだよって言いたいんだけれど、しょうちゃんの話は猛スピードで目指すゴールへ向かって転がっていって、あっという間に僕の前を過ぎ去ってしまう。
「しかも隕石落下の場所にはある共通点があるんだってよ!」
「・・・何なの?」
どこからともなく聞こえた声。
意外にもこの話に声を出したのは僕の斜め前に座る、モモちゃんだった。水泳をやっているモモちゃんの髪の毛は少し茶色がかっていて、それが窓から差し込む太陽の光に透けてとても綺麗だった。
モモちゃんは別に驚いているわけでも、怖がっているわけでもなかった。たまたま落ちていたハンカチをそっと拾うように、心の奥の方でフッと沸いた小さな泡のような好奇心をしょうちゃんに向けた。少なくとも僕にはそう見えた。
「百桃も興味あんの?意外だねえ。」
「で?」
竹を割ったようななんて言葉、この頃はぜんぜん知らなかったけれど、彼女の性格はその割った竹で作った槍をプスプスと今にも割れそうな風船に突いていくような、そんな感じだった。
しょうちゃんは自分の撒いた餌にまた別の魚が飛びついてきたというようにニヤリと笑って、人差し指を立てた。
それはな・・・。
「おーい。そこのトライアングル。こ・く・ば・んに注目ぅ。二次方程式のちょっと難しい公式やってるんだから。口より先に手と頭を動かそう。三度目はレッド出しますよ。」
二度目の授業妨害に少し機嫌を損ねた先生の声はドスが効いていて、ティーンエイジャーをびびらせるには十分すぎるほどだった。
突然現実に戻された彼らは再びゼンマイを巻き直し、黒板に書かれた字を机に向かって写す作業に取り掛かった。
―――ちぇっ・・・。
二人とももうさっきの話は忘れてしまったかのように真剣に黒板を見つめていた。集中力のない僕は最近覚えたペン回しをしながら次第に薄くなっていく先生の頭頂部を眺めた。
先生のくしゃくしゃになった頭皮をボーっと眺めながら僕は考えた。
何を?
もちろん宇宙人のことを。
大きなお腹。金色の髪の毛。赤いピチっとしたユニフォームに黄色いベルト。しゃくれた顎と眉毛のない目。黒いマントに黒い大きなゴーグル。
どこからか勢いよく風が吹いている。僕は小高い丘の上に立って目の前にいる宇宙人を見つめている。どうしようもない僕の妄想が生み出した恰幅の良い宇宙人は目の前の僕の片に手をやり、小さく微笑む。
少し前にやっていたアメリカのアニメ映画の影響をもろに受けた、そのなんちゃって宇宙人は、こんなことを僕にささやくんだ。
「共に行こう。」
風でたなびいているマントをバサリとひるがえし、突き出たお腹をポヨンと揺らしながら声高々に叫ぶ。
僕は考える。小さな宇宙の中で、僕は必死に考える。二次方程式だって、国語辞典だって解けそうにない人生の選択という問題を、僕は一人自分の頭の中で答えを出さなきゃならない。
ハレー彗星よりも早く銀河系を駆け抜ける、目の前のスペースレンジャーは僕の答えをじっと待っている。
「何を悩む。か弱き少年よ?時間は無限ではない。決断は最大の勇気だ。少年よ。赤き魂の鼓動を聞くのだ。己が内に眠る正義を。」
吹いていた風は突然活動を止め、大きな大きな宇宙船が丘の上に現れる。百年分の太陽電池を一気に使ったような眩しい光が何本も宇宙船から伸びている。空は夜になっていて、鮮やかな光が大空の暗闇を照らしている。
「ああ、ドアが開く。」
――待って。僕も行きたい。
「光速を超えて、光の向かうその向こう側へ旅に出る。昨日いた場所がもう現実だったとは思えないような速度で、旅を続ける。それは辛く苦しい旅だ。しかしサイアクは待ってはくれない。私たちは悪を許さない。混沌を正すグングニルの槍となり悪を貫く・・・・」
――なんだよ、なに言ってるかわからないよ。お願いだから!行くよ、行くってば!
僕の声は声にならず、ただ口をパクパクさせるだけで、恰幅の良い宇宙人は気づいちゃくれない。
「時間を惜しんではいけない。しかし時間は貴重なものだ。残念だがもう行かなくてはならない。君と会えてよかった。」
宇宙人はそう言うと、僕に背を向けて、船のほうへ歩き出す。
僕も追いかけようとするんだけれど、足は根が生えたみたいにがんとしてそこを離れてはくれない。
宇宙人が遠ざかっていく。僕の方を振り返りもしないで。足取りは驚くほど速かった。
戦艦みたいな宇宙船から放たれていた光が閉じていくのが見える。
扉が閉まっちゃう。
ああ。
ちょっと・・・
「ちょっと待って!!!!」
どこからか蝉の鳴き声が聞こえた。苦しそうな雄蝉の雄叫び。ねえ聞いてあげて。雌も早く出てきてあげて。
――そういえば、去年、四年生の教室で使っていた机の引き出しに蝉の抜け殻が入れっぱなしになってたなあ。あれどうしたんだっけ・・・
僕はほんの二瞬位、時間にして一秒の100分の1位のスピードでそんなどうでもいい思い出を引っ張り出した。
突然ダムが決壊するように笑いの洪水が広がった。
いつもの教室。そこに座っている、馴染みのある生徒の大爆笑の顔。苦虫をうっかり踏み潰してしかも転んで口に入っちゃった、みたいな顔をした先生の顔。
大失態だ。
この前先生にママと言った渡辺君もここぞとばかりに笑ってら。
「天然かよぉぉ!!!」
誰かが発したその声は、皆の笑いを増幅させ、もう何で笑っていたのかわからないくらい、ただ授業が潰れていく喜びを感じながら、壊された日常のほんのひと時に皆が酔いしれていた。
しょうちゃんも、テル君も、水谷君も、皆が体をよじって笑っていた。
恥ずかしくて火が出るときは、きっと本人もそれを望んでるんじゃないかな。少なくとも僕はそう思った。
「はいケンヂ君退場。ピッチから出て廊下行ってくださーい。」
先生はもうあきれ果てていて、僕のほうを一度も見やしなかった。