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日向の娘  作者: 野津
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終 夫々の末路

『我らが眼中より永久とわに消えよ。ね』





 ――それが、契機。


 石長比売はこの世のものとは思えぬ程に歪み切った醜い表情のまま、逃げるように部屋を飛び出した。

 裳裾を踏み付け、無様に転げそうになるのを必死で堪え、只管走り続ける。


 ――あの、何の温か味もない眼!

 あの眼に生気を吸い取られてしまった。

 異母妹を侮辱したことで、己はあの恐ろしき天孫の怒りを買ってしまったのだ。


 今の石長比売は将に、くちなわに睨まれたかわずだった。


 回廊を擦れ違う者たちは皆、その容貌の激しさに眼を剥き、忌避するように道を開いた。

 そんな周囲を顧みることなく宮の門を走り抜けると、石長比売は長く高い階段を駆け降りる。


 前傾した上体に下肢が追い付かなくなり、石長比売は遂に脚を滑らせた。


 その躰は物凄い勢いで一気に下まで転がり続け、地面で大きく跳ね上がった後、ぱたりと静止した。





「比売!」





 ――前日、上の娘の黒き心を見た大山津見神は、やはりこの縁談は断ろうと僅かな供人ともびとと共に高千穂の宮に向かい、ちょうど長階段の前に来た時、転がり落ちてくる女の姿に気付いた。


 彼は女の纏う薄紅の衣と緑の腰紐を眼にし、それが己が娘であることを知った。


「比売! 比売! しっかりせよ、一体何があった!?」


 ぐったりとした躰を激しく揺さぶると、俯く石長比売の顔がゆっくりと動いた。その容貌を見た途端、大山津見神は思わず娘の肩に置いていた手を離し、眼を瞑って顔を背けた。


 あれ程美しかった娘の顔は、今では恐怖と戦慄に激しく引き攣り、原形も留めぬ程に醜く変わっていた。艶のあった黒髪は老婆のように白くなり、眼の焦点も定まらない。


「お…と…さま……」


 ひび割れ、乾き切った唇からごぼりと鮮血が溢れ、薄紅の衣を鮮やかな深紅に染め変える。


 何かを求めるように上げられた右手を掴もうとした瞬間、石長比売の細いおとがいが支えを失ったようにコトンと後ろに反れ、差し上げられた右手も力尽きたように落ちた。


 突然の上の娘の死に、大山津見神は何も発することが出来なかった。

 供人らも、主に何と声を掛ければ良いのか考えあぐね、ただ立ち尽くした。


 だが、次第に冷静さを取り戻した大山津見神は、改めて上の娘の身に起きたであろう出来事を思って、今度は沸々と憤りが湧いてくるのを感じた。


 恐らく、上の娘は何らかの理由で天孫の逆鱗に触れ、その能力ちからで以て殺されたのであろう。

 今ひとり、の方の許に残されているであろう下の娘も、どうなったのか判らない。


 事切れた娘のむくろの横で強く拳を握り締め、俯く大山津見神の耳に、木の軋む音が聞こえてきた。


 ゆっくりと顔を上げると、長階段の中程に、眩い光を纏い、下の娘を抱きかかえた美しい青年が立っていた。

 娘は青年の肩口に顔をうずめたまま、ぴくりとも動かない。


 初めてまみえる天孫の姿に強烈な威圧感を覚えながらも、大山津見神は不敬を承知で彼を強く睨み付ける。

 天孫も又、彼の不敬を特に咎めはしなかった。


「これは、一体如何いうことで御座いますか、天孫様!」


「黒き心の妻など、要らぬ。だが、何時いつまでも長居された故、去るよう命じたのみ」


「なれど、何も殺さずとも宜しいでは御座いませぬか!」


「わたしが直に手を下した訳ではない。その娘は、自らの意思で死んだのだ」


 抑揚なく言った後、天孫は己の腕にいだく娘の黒髪をひと房掬い上げ、そっと口付けた。


 その愛おしげな様子に、大山津見神は己と上の娘の間違いに漸く気付いた。


 天孫に望まれていたのは、実は姉比売ではなく妹比売の方だったのだ。

 恐らく、石長比売はその事実に打ちのめされ、神阿多都比売をなじり、このようなことになったのだろう。


 それでも、大山津見神にとって、石長比売は可愛い愛娘だった。


 歯軋りと共に、思い切り声を張り上げる。


「貴方様は、神阿多都比売――木花之佐久夜比売ひとりだけをお選びになり、姉の石長比売はお娶りにはならなかった! 畏れながら二人の娘を同時にお送り致しましたのは、天つ神の御子おこのお命が岩の如く永遠で丈夫に変わることなく永くあるように、そして天つ神の御子孫がの花の如く栄えてあれと思ったからです! それを、姉の方だけ要らぬと仰るならば、天つ神の御子のお命、木の花の如く脆く儚きものとなりましょう!」


「一向に構わぬ。我が愛する妻は未来永劫この娘だけだ。どのような理由があろうと、他の妻など必要ない故」


 天孫はニヤリと不敵に微笑み、娘を抱いたままきびすを返して高千穂の宮へと姿を消した。





 これが、大山津見神にとって、最初で最後の天孫との遣り取りだった。









 神阿多都比売は邇邇芸命との間に三柱の御子を儲けたのち、黄泉国へと旅立った。


 邇邇芸命は、彼女の積年の願いであった『死した後、故郷の日向灘の珊瑚礁に還りたい』という要望にこたえんが為、高千穂の宮を支える太柱の一本を斬り倒し、彼女の亡骸を納めるひつぎとし、己のつるぎや彼女の形見と共に海底うなぞこ深く沈めた。


 邇邇芸命は嘗ての大山津見神への誓約うけい通り、生涯他の妻を娶ることはなかったという。

本編はこれでひとまず終わりです。

おつき合いありがとうございました。

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