三 天孫の本意(ほい)
翌日。
あの後、姉をこっ酷く叱り付けた父は、渋る神阿多都比売を無理やり輿に乗せ、姉・石長比売と同じ薄紅の衣を纏わせて、共に天孫の下へと送り届けた。
姉と同じ輿の中、会話は一切ない。
沈黙が、見えない針のように肌に突き刺さる。
天孫の住まう高千穂の宮に近付くにつれ、神阿多都比売は徐々に別のことが気に掛かり出した。
――何故わたしまで来たのか、絶対に問われる。
どう言い訳をしよう?
元々選ばれたのは姉であって、神阿多都比売は天孫が姉を娶る足がかりとなったに過ぎない。
無関係のくせに、姉に付いてここまでノコノコ来たのかと、嘲笑されるに決まっている。
望んで行く訳ではないのに莫迦にされるなど、幾ら何でも自尊心が許さない。
ああでもない、こうでもないと考えを巡らせている内に、とうとう峰高き高千穂の宮に到着してしまった。
あれよあれよと事は進み、取り取りの宝物を奉った後、遂に天孫が姿を現した。
内心冷や汗を流しながら、姉の二間程左隣、小さくなって頭を垂れる。
花茣蓙に坐し、脇息に片肘を凭れ掛けた天孫が、顔を伏せた二人の娘を見て眉を顰めた。
「何故、比売が二人いる? わたしが呼んだ比売はひとりだけの筈だが」
そら来た――と思い、何か抗弁をと口を開く前に、澄んだ姉の声が響いた。
「わたくしの父が余計な気を回し、このように不器量な異母妹をも寄越したので御座います、天孫様。
真に申し訳御座いませぬ」
多大な棘を含んだ辛辣な言葉に、神阿多都比売は何も言えず唇を噛む。
すると、不意に天孫の切れ長の眼が鋭さを増した。
凄まじい神威にその場の空気が震える。
「…何を言っている? わたしが呼んだのは二の比売の方だ。お前に用はない」
「はあ!?」
思いも寄らぬ言葉に非礼も忘れて思わず面を上げると、ばっちり眼が合ってしまった。
端正な口元がニヤリと攣り上がるのを見て、茫然と眼を見開く。
「…嘘ですッ!」
突如、ゆらりと立ち上がった石長比売が、狂える眼に溢れんばかりの媚を湛え、金切り声を上げる。
「面白くもない嘘偽りなど口になさらず、早く本当のことをお言いになって下さいませ。
わたくしを……この石長比売を妻になさると!」
「面白くないのはこちらの方だ」
気狂いの如きヒステリックな叫びを上げる石長比売を五月蝿げにひと睨みすると、天孫邇邇芸命はゆっくりと起立し、上座から静かに降りて来た。
「いくら大山津見神の厚意とはいえ、お前のような醜き者を娶る気は毛頭ない。早くこの場を引き取り、父の許へ帰るがよい」
「わ、わたくしが醜いですって……!」
天孫は、初めて浴びせられた侮辱の言葉に戦慄く姉比売から興味が失せたのか、その姿に一瞥も呉れることなく背を向けると、ぽかんと口を開け、茫然と座り込んだままの神阿多都比売の前に立ち、不機嫌も顕わにジロリと見下ろす。
「其方も其方だ。何を下らぬ勘違いをしておる」
「や、や、だ、だって、『誰と』結婚したいのか言わなかったじゃないか」
元より、自分に求婚しているなどという戯けた妄想を抱く程の自惚れは欠片もない。
神阿多都比売は何度も激しく頭を振る。
それが気に入らなかったのか、いきなり左頬を思い切り抓られた。
「だーーーッ、いだだだだッ!」
「其方は、男が女に名を訊ねるという行為が何を意味しているのかも知らんのかッ」
「ひ、ひるはへはいはほッ」
知る訳ないだろ――と言おうとしたのだが、如何せん言葉には成らない。
だが、事実として、本当に訳が判らないのだ。
何故知らないと言われようと、知らぬものは知らぬ。
それ程に、神阿多都比売は世間知らずであり、又無知でもあった。
右頬も引っ張られそうになった時、突然の甲高い耳障りな高笑いに意識を引き戻された。
「…お前?」
「天孫様、貴方様のその両の御眼は節穴であられますの? このわたくしが醜いですって?」
「…知った風な口を利く。無礼な女だ」
天孫は首だけを巡らせ、冷えた眼で石長比売を見る。
その黒曜石の双眸に宿るのは、紛れもない激昂。
「お前の容貌は美しい――恐らく、誰もがそう思うであろうよ。だが、その心は我が大叔父、月読命の支配なさる闇よりも尚、黒く濁っている。これを醜いと言わずに何と言う?」
余りの言葉にカタカタと歯を鳴らし、石長比売が朱唇を開こうとするのを視線だけで制し、高天原より降りたもうた御子は、己が愛しき者に向かって公然と侮蔑の言葉を浴びせた腹立たしくも愚かな女に向かって、一片の憐憫の情もなく冷然と命じた。
「今一度命ずる。我らが眼中より永久に消えよ。疾く去ね」




