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日向の娘  作者: 野津
2/7

一 出逢い

 父・大山津見神が治める筑紫日向の国の東には笠沙の岬と呼ばれる海辺があり、その先には空の色を写し取ったように青く鮮やかに綺羅めく、雄大な大海原が広がっている。


 海岸沿いに隣接している姉の館から抜け出し、神阿多都比売はその浜辺でぼんやりと海原を眺めていた。

 打ち寄せる潮騒の音に身を委ね、緩やかに両の瞼を閉じる。


 海は好きだ。

 死後、この海底深くにあるという珊瑚の森に還りたいと思う程に。


 穏やかに寄せては返す緩慢な波の音は、ゆっくりと鼓動する穏やかで平和な母の胎中に似ている。


 時折、鯨の潮吹きや水面みなもを弾く飛魚たちの群集が、遥かな水平線上を揺らす。


 海風に、結わずに下ろした長い黒髪が靡き、背に流れる。ツンとした潮の香りがからだ全体を優しく包むのが判る。神阿多都比売は我知らず微笑んでいた。


 土地を愛する者はひとしくその土地から愛され、篤い庇護を受ける。


「――比売様!」


 ゆっくりとした時の流れに揺蕩たゆたっていると、不意に背後から声を掛けられた。


 振り返ると、そこにはよく日焼けした顔見知りの少年たちが、大方磯釣りの帰りなのであろう、夫々長い竿を手に立っていた。


「ああ、やっぱり比売様だ。久し振り」


 以前と変わらず屈託なく話し掛けてくれる少年たちに、思わず笑みが浮かぶ。


 彼らの殆どは日向に住む海士あまの子どもで、皆、神阿多都比売にとっては弟のようなものだ。


 天孫が天降りしたこの一年間何かと忙しく、彼らとまともに顔を合わせることはなかったのだが、腕白さは全く変わっていないようだ。


 ――だが、その中に、ふと以前は見なかった顔の少年がいることに気付いた。

 竿を持たぬ彼は、他の少年たちと違い、やけに大人びた端正な面立ちをしている。それが殊更に神阿多都比売の眼につく。


「…」


 何かを探っているかの如く、理知的な光を秘めた黒曜石のひとみが煌めくのが判る。

 神秘的、とでも言おうか。取りも直さず不思議な少年であった。


「――足立、矢斗、穂波、見掛けない子がいるが、誰だい?」


「ぇ? あ、そっか。比売様は知らないんだっけ。

 こいつは日子ひこっていって、ちょうど一年ひととせ前くらいに、とても遠いところから越して来たんだ」


 他の子よりひと回り程躰の大きい、少年たちの大将格である足立がそう言うと、最初に神阿多都比売に声を掛けた少年――穂波が、彼の後ろから口を挟む。


「日子には二親がいないんだ。でも、召使めしうどや采女が沢山いるんだよ」


「館もおっきくて立派なんだ。おれたちみんな、この前連れてって貰ったよ」


「へえ…」


 日子と呼ばれた少年に視線を遣ると、切れ長の黒目がじっとこちらを見据えていた。

 眼光の鋭さに思わず気圧され、無意識の内に小さく後退あとずさりする。


 僅かに少年が口元を攣り上げたように見えたのは気のせいだろうか?


「日子、この人は日向の国つ神様の二の比売様。おれたちの友だち」


 微塵の疑いもなく発せられた紹介の言葉に、神阿多都比売は軽く苦笑する。


 彼らは人間の子どもで、自分は一応国つ神の娘である。本来ならば話すことはおろか、顔を合わせることすら許されぬ間柄なのだが、彼らは幼い頃から神阿多都比売を慕い、互いに実の兄弟の如く育った。それを不快に思ったことは一度たりともない。

 父もこのことを知っているが、黙認してくれている。あの美しい姉は、何となく、良く思ってはいないようだが。


 不意に、矢斗が「あっ」と小さく声を上げた。


「どうした?」


「おれの魚籠びくがない」


 少年たちは互いに顔を見合わせた。矢斗と同様、彼らの手にも魚籠はない。


「磯に置き忘れたんだよ、きっと」


「潮に流されないうちに、取りにいこう」


「じゃあね、比売様」


 口々に言い、少年たちはバタバタと浜の先へと走って行った。

 後には神阿多都比売と、何故か魚籠を取りに行こうとしない日子という少年だけが残された。


「…君は、行かないのか?」


 その問いには答えず、今まで一言も発さなかった少年がおもむろに口を割った。


「日向の土地神が娘であるという比売よ。其方そなたは誰の娘だ?」


「…え?」


 予期せぬ言葉に、思わず眼を見張る。

 その様子が可笑しかったのか、少年がクスリと笑う。


 自分より明らかに年下の少年に笑われ、先刻の気後れを残したままながら、生来の素直とは言い難い性分から反発心が首をもたげた。


「訊いてどうする、そんなこと」


「このわたしに、同じことを二度も言わせるな」


 眩いばかりの閃光と共に、少年の背が急激に伸び始めた。

 瞠目したまま息を呑む神阿多都比売の背をあっという間に追い抜き、そして光の収まった時、少年は神阿多都比売と同じ年頃の、眼元も涼やかな美しい青年へとその姿を完全に変えていた。


 つい先程まで日子と名乗っていた青年は、厳かに告げる。


「わたしの名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命――そして、高天原を統べる天照大御神が皇太子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が第二子、天孫邇邇芸命なり。日向の比売よ、其方は誰の娘だ?」


 変容した見目麗しき青年を茫然と見上げながら、神阿多都比売はようやく気付いた。


 日輪――太陽――の子と書いて『日子』。

 日輪は天照大御神のことを指す。

 その貴い血を受け継ぐ子、つまり子孫は、この葦原中国においてただひとり。


 ――『天孫』以外に考えられない。


 今の今まで全く気付かなかった己の愚かさに激しく歯軋りする。

 少年――否、青年が名乗った時点で、二人の関係は既に決まっていた。


 こちらは一介の土地神の娘、相手は大御神の内孫。したがわぬ訳にはいかぬ。

 …いや、そうではない。随わねばならぬ義務がある。


 砂が裳裾に付着するのも構わず片膝を突き、不本意ながらも従容とこうべを垂れる。


「……わたしは、日向の地を治める大山津見神の娘で、その名を神阿多都比売といい、又の名を木花之佐久夜比売と申します」


 頭上で、喉を震わせるだけの低い笑い声が聞こえた。屈辱に、眼の前の砂が真っ赤に染まるようだ。


姉妹きょうだいはあるか?」


「異母姉に、石長比売なる者があります」


「石長比売? ……ああ、日向一の美姫と名高いあの比売か、成程」


 僅かに視線を上げると、日子――天孫邇邇芸命は顎に手を遣り、何やら考えているようだった。


 やがて彼は顎から手を離し、神阿多都比売に面を上げるよう鷹揚に促した。


 恐れず、真っ直ぐに見据える神阿多都比売の強い視線に、天孫は微かな笑みを浮かべた。





「結婚したいと思うが、どうだろう?」





「―――は?」


 天孫の真意が理解出来ず、紙阿多都比売は怪訝も顕わに眉をひそめる。


 姉と結婚したいならば、本人と父親に問うべきではないか。

 わたしに意見を求めてどうする、天孫よ。


 余り関係のないわたしに言われても、どうしようもないぞ――!


 だが、考えてみれば、天孫までもが姉の美貌を認知しているというのはなかなか凄いことなのかもしれない。


「わたしが返答するには多分に荷の勝ち過ぎるお申し出……。値うる言葉、到底持ち得ませぬ。我が父、大山津見神が近く直々にお答え申し上げましょう」


「――そうか」


 たちま表情かおを曇らせた天孫の様子に、余計なお世話かと思いながらも注進してみる。


「僭越ながら申し上げます。何なら、わたしがこのままじかにお聞き立て致しますが? その方が幾分か早いでしょう」


まことか?」


 表情一変、隠し切れぬ喜色を浮かべる天孫の顔は、立派に成人したものであるくせに妙に餓鬼っぽく、なまじ整っているだけに、思わず笑ってしまった。


 にやけた口元を慌てて覆い、無理やり表情を引き締めた後、ピッと左の人差し指を伸ばしてみせる。


一日いちじつ! 一日お待ち下さいませ。父は必ずや色よき返答を致しましょう」


 父は自分のこともとても可愛がってくれているが、やはり最も期待を寄せているのは姉だ。

 そんな父のことだ、姉と天孫との結婚話に一も二もなく飛び付くに違いない。


「では、頼むぞ」


「お任せ下さい。天つ国の御子の旨、しかと承りまして御座います」





 かくて神阿多都比売は、天孫の求婚を父と姉に伝える使者と相成ったのであった。

地理的間違いがあるかもしれません。

ご諒承ください。

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