あの橋のむこうがわ
『あの橋を渡っちゃいけないよ』
母はいつも、幼い綾子にそう言い聞かせていた。
『橋のむこうはとてもあぶないからね』
何度も何度もくり返し言われていたから、綾子はあの橋には決して近づかないと心の中で決めていた。
『綾子はいつまでも、この家の子供でいてちょうだいね』
ふっくらと丸みをおびたやわらかい手のひらで、頭を撫でてくれる母のことが、綾子は大好きだった。
○
縁側に腰掛けてお手玉で遊んでいた綾子は、話し声が聞こえてきて手を止めた。
「――本当に、噂どおりの良い宿ですね」
「ありがとうございます」
昨日宿を訪れた初老の男性が、女将とともに門へと続く石畳の上を歩いている。仲居が荷物を持っているところを見ると、彼はいままさに宿を出るところのようだった。
「代々続いている宿なだけあって、気配りもきめこまやかで安心して泊まることができました。またよろしくお願いしますね」
男性からお褒めの言葉をいただいて、女将が嬉しそうに微笑む。季節にあわせた小豆色の着物に身を包んだ彼女はまだ若く、歩く姿には凛とした華やかさがあった。
綾子はその姿を見つめながら、縁側から降りて庭のすみに建てられた犬小屋へとかけよる。綾子の着物と同じ色の赤とんぼが、庭の中をすいすいと飛んでいた。
「次は噂の部屋にぜひ泊まってみたいものですね」
「『綾子の間』は大変人気でして……他のお部屋ならすぐにご用意できるのですが」
綾子の気配に気づいたのか、小屋から白い犬が出てくる。その鎖でできた首輪に腕を回し、綾子はふかふかの毛並みに顔をうずめた。
『……綾子、どうした?』
心配そうに、犬が綾子に声をかける。抱きついたきりなにも言わないおかっぱ頭のにおいをくんくんとかぎつつも、宿の門をくぐっていく男性と女将の姿を見ると、『なるほどな』とひとりで呟いた。
『あれが、昨日のお前の客か?』
「……うん」
男性が去っていく、お見送りの声が嫌でも聞こえてくる。宿の外では名残惜しげな声でお見送りをするけれど、宿の中ではもう次の客を迎えるべく掃除を始めていた。
先ほどまであれほどにこやかに微笑んでいた女将は、戻ってくるとすぐにその笑みを消した。きついまなじりで仲居たちを睨み、あれこれ指示を出し始める。
この宿の表と裏を、綾子は知っていた。
「……あやこ、母様のこと、きらい」
今日もまた、綾子は客をとらなければならない。
あの橋のむこうがわに、行くことはできない。
綾子の住む宿は、小さいながらも歴史の古い由緒ある旅館だった。
宿の四方を塀と堀に囲まれた、侵入者防止のための警備は昔から品格高い宿だったため。四方を囲まれていながらも窮屈さを感じさせないために、庭は常に手入れされ水車まで引かれている。
宿に入るときも出るときも、堀にかけられた唯一の橋を渡る。宿から出るための道はそこしかなかった。
「シロは、橋のむこうがわを知ってるの?」
『子供のころにここに連れてこられたから、あまりはっきりは覚えていないけどな』
シロという名の白い犬は、宿の番犬という名目で綾子のために飼われていた。次の客が宿に来るまでの間、縁側におりてシロと遊ぶのが綾子の日課だった。
「あの橋のむこうがわには、なにがあるの?」
『まぁ……なんでもあるけど』
鎖でつながれたシロのために、綾子はそばにいって鞠をついて遊ぶ。汚れてぼろぼろになってしまった鞠が綾子の手と地面との間を行ったり来たりする様子を、シロはふせをしながらぼんやりと見ていた。
『綾子は本当に一度も宿から出たことがないのか?』
「うん。母様はわたしをここで産んだから」
宿は綾子たち家族の住居も兼ねている。綾子は生まれてからずっと身体が弱く、床に臥せってばかりで七つになっても外の世界を知らなかった。
知っているのは、宿のことばかり。毎日どんな客が来て、どんな過ごし方をするのかを、綾子はこっそりとのぞいていた。客と女将が話す外の世界の話を聞いては、あの橋のむこうがわにある世界に夢を膨らませていた。
「シロはまた、外の世界に行ってみたいと思う?」
『そりゃあ、毎日こんな鎖につながれてたら脱走でもなんでもしたくなるな。この家のやつらは、おれに飯やること忘れることまであるし』
「……ごめんね、なにもできなくて」
『綾子が悪いわけじゃない』
てん、てん、と一定のリズムで弾む鞠にあわせて、シロのふさふさな尾が揺れる。組んだ前足に顔を乗せ、彼はふーっと長いため息をついた。
『女将が代替わりしたとたん、この宿も変わったよな』
「…………」
宿は世襲制だった。先代の女将が亡くなれば、その子供たちがあとを継ぐ。いままでは女将の実の娘が婿をとって受け継いでいたのだけど、先代の女将は娘に恵まれなかったため、息子が嫁を迎えたのだった。
その女将が、綾子の母でもある。彼女は経営に熱心で、支配人である夫よりも宿のことを仕切っていた。勝気な性格で仲居たちからの不満の声が聞こえることもあるけれど、たしかに彼女が宿をついでから宿に来る客の数はうんと増えたのだった。
『おれは、前の女将のほうが好きだったなー。毎日ちゃんと飯くれたし、こんな鎖でつなぐことだってしなかったし。小屋じゃなくて、宿の中にちゃんと住まわせてくれたのにさ』
「――あっ」
ぶくつさと文句を言うシロに気をとられて、綾子は鞠を受け損ねてしまった。古いながらもよく弾む鞠は、そのまま弾み続けて門のほうへと転がっていってしまう。
「まって!」
綾子の声が届いたのか、鞠が止まったのは、橋のすぐそばだった。
『……行かないのか?』
鎖が届かず、シロは遠巻きに綾子に声をかける。あとほんの数歩あるけば鞠に手が届くというのに、かたまってしまった綾子の様子に不思議そうに首をかしげた。
「……母様と、約束したから」
あの橋を渡っちゃいけないよ。
綾子は幼いころからずっと、母にそう言い聞かされてきた。
「あの橋のむこうがわは、危ないから。渡っちゃだめだって。近づいちゃだめだって」
『鞠をとるくらいいいだろ』
「だめ。橋の近くは危ないからって。堀に落ちたら大変だからって。冷たい風にあたって熱でも出したら大変だからって」
立ちすくんで動けなくなった綾子に、シロが心配そうにそっと鳴く。母からもらった大切な鞠を、取りに行きたいけど行けない。近づけば母との約束を破ってしまう。そんな葛藤を小さな胸の中で繰り広げていた。
「――あら、なによこれ」
そんな綾子の目の前に現れたのは、女将だった。
「綾子の鞠ね。なんでこんなところに」
「母様……」
宿から出る用事があったのか、女将は外出用の上着を羽織っていた。鞠を拾い上げると、かけよる綾子には目もくれずいらだたしげに息をついた。
「なんでこんなところに転がってるのよ。お客様が踏んで転んだら大変じゃない」
「……ごめんなさい」
しゅんとこうべをたれる綾子は、鞠を返してもらおうと手を伸ばす。けれど女将はその鞠を一瞥すると、綾子に返すことなく庭に向かって投げてしまった。
「かかさま!」
鞠は勢いよく飛び、シロにあたった。シロはキャンと悲鳴をあげたけど、女将はそれを見て悪びれる様子もなかった。
「犬なんてアレルギーのあるお客様からしたら迷惑でしかないのよ」
「かかさま……」
ふふふと含み笑いを浮かべながら橋を渡っていく女将の背中を、綾子はじっと、見つめていた。
夜になると、綾子の部屋にはたくさんの貢物が献上される。
甘い羊羹に、おはぎに、こんぺいとうにかりんとう。プリンやケーキ、ポテトチップス。それからくまのぬいぐるみに、着せ替え人形。絵本や積み木、最新型の携帯ゲーム機。
次から次へと部屋に運ばれてくる貢物を前にして、綾子は布団の上にちょこんと正座していた。
今日のお客様はずいぶんと贈り物をしてくれる。今頃大浴場でゆっくりお風呂に入って汗を流して、綾子との夜を心待ちにしているに違いない。
自分の部屋にやってきた客とは、必ず一晩をともに過ごさなければならない。それはいつしか母との暗黙のルールになっていた。たくさんの贈り物をしてくれるお客様のご機嫌を損ねてはならないのだ。
器に盛られたこんぺいとうをかじりながら、綾子はそっと嘆息した。
「母様の豆大福が食べたい……」
かつて母が作ってくれた、黒豆たっぷりの豆大福。綾子のこぶしよりも大きな大福を、口いっぱいにほおばって頬に片栗粉をつけるのが大好きだった。
綾子がどんなにねだっても、もう母は作ってくれない。外の店で適当に買ってきたものを与えるだけ。ランプの灯る薄暗い部屋に、綾子ひとりを置き去りにしてしまう。
「母様……」
あふれそうになる涙を、綾子はぐっとこらえる。お客様がいる間は、めそめそ泣いたりしてはいけない。
縁側の障子越しに、月明かりがほんのりと入ってくる。今夜は満月で、庭からシロの遠吠えが聞こえてくる。きっともうすぐその声に怒った女将がやってきて、シロを蹴り飛ばすに違いない。
「いまの母様は、きらいだ」
客が部屋に戻ってくる足音を聞きながら、綾子は呟いた。
綾子ちゃん、遊ぼう。そう声をかけられるのに、時間はかからなかった。
○○
夜が明け、綾子が仕事を終えても、女将はねぎらいの言葉一つかけてくれなかった。
――綾子、お客様をもてなしてくれてありがとうね。
かつてそう言って褒めてくれた、優しい声はどこにもない。支配人はもう何ヶ月も綾子に声をかけてくれない。新しい母になじめず困惑していた綾子に、はじめはちゃんと気遣ってくれていたというのに。
「さぁ、次のお客様がくるまでに片付けちゃうわよ!」
眠い目をこする綾子をよそに、女将がたくさんの仲居を引き連れて部屋にやってくる。
「この部屋も物が溢れてきちゃってるから、一度片付けてしまいたかったのよ」
まだほとんど口をつけていなかったお菓子を、女将はすべてゴミ袋に入れてしまった。綾子ひとりすっぽり入ってしまうのではないかというくらい、大きなゴミ袋を広げて、彼女は仲居たちにこう命じた。
「この部屋を綺麗にするわよ!」
この宿はもう、女将の命令がすべてになってしまっている。集められた仲居たちは、しぶしぶといった様子で、綾子の部屋専用の布団などをすべて片付けてしまった。
「……かかさま、捨てちゃやだ」
綾子がうったえても、女将は聞いてくれない。開け放った障子の向こうで、シロが吠えて抗議をしてくれるけど、それも「うるさい!」と一括する。
「お客様が喜んでくれればまた新しい客につながるからね。この部屋も変えるわよ!」
「でも……勝手に、いいんですか?」
「いいのよ。綺麗になるなら喜ばれるはずだわ」
仲居たちがしぶるのもかまわず、女将は部屋のランプまでゴミ袋に入れてしまう。ステンドグラス調のルームランプは、スイッチではなく金のフレームに触れると明るさを切り替えることができる。コンセントからつないだ現代的なものだけど、綾子はこのランプの明かりを変えて遊ぶのが好きだった。
それなのに彼女は、そんなことおかまいなしに乱暴にあつかっていた。
「――女将、頼まれていたものはこれでいいのか?」
大掃除が始まった綾子の部屋を訪れたのは、会うのもとても久しぶりな、女将の夫。先代の女将の息子であり、支配人にあたる。彼は綾子の部屋が荒らされている様を見て目を見張った。
「父様!」
かけよる綾子をかわし、彼は小脇に抱えていた小さな行灯を床に置く。綾子の腕でちょうど一抱えほどの大きさのそれは、四面を囲む木に巧妙な細工がしてあり、明かりを灯せばとても美しく光るであろうことが一目でわかった。女将はそれを見て、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「そう、これよ。この部屋にはこれがぴったりだと思ったの!」
「でも、この行灯はロウソクを使うんだろう? なにかあったら危なくないか?」
「ちゃんと気をつければ大丈夫よ。こっちのほうが雰囲気出ていいじゃない」
夫の言うことも聞かず、彼女は行灯の中にロウソクを入れ、一人満足そうに微笑む。行灯はロウソクに火を灯すだけではなく、溶けた蝋を取り除いたり煤の掃除をしたりするなど手入れが必要なものだけど、いったいそれは誰がやるのだろう。綾子はふとそう思ったけれど、女将は決してしないだろうとひとりうなずいた。
「……女将、本当におもちゃも捨ててしまうんですか?」
「そうよ。そんなにたくさん飾ってあるんじゃ逆に気味が悪いじゃない」
天井まで届きそうなほどにつみあげられたおもちゃは、すべて客が綾子のために買ってくれたものだ。昨日の客が綾子と遊んでくれたくまのぬいぐるみは、シロのようにふさふさな毛並みをしてつぶらな瞳が可愛かった。綾子はまたそれで遊びたいと思っていたのに、彼女はそれもまた簡単に捨ててしまった。
「こんなもの、ただの安物でしょう。……あと、前々からその鞠とお手玉、汚いと思ってたのよ。捨てちゃって」
「えっ……」
縁側の近くに置いていた、紅い色の鞠とお手玉。今まさにそれを隠そうと思っていた綾子は、女将の声に身体がかたまってしまった。
「やだ、母様。捨てないで」
「これは綾子ちゃんが昔から大事にしてるおもちゃです。捨てるなんて……」
かばうように、仲居たちも声をあげてくれる。反発されたことが悔しかったのか、女将はさっきまでのご機嫌な表情を消して再び眉間にしわを寄せた。
「それがこの部屋で一番ぼろくて汚いものでしょう。部屋を綺麗にするんだから、捨てるに決まってるでしょう!」
「母様!」
綾子が手を伸ばすより早く、女将は鞠を捨ててしまった。
「女将……」
「これは命令よ。ほら、他のも捨てちゃって」
綾子が気に入ったおもちゃは、たくさん遊ぶから汚れるのは当たり前だ。気に入ってぼろぼろになったおもちゃから、どんどん捨てられていってしまう。綾子はもうなにも言えなくなって、ゴミ袋の中に押し込められる自分の宝物を見つめるしかなかった。
「……ごめんな、綾子」
そんな綾子に、唯一声をかけてくれたのは、支配人だった。
「これも、宿のためなんだ。女将がお嫁に来てくれてから、宿の経営もだいぶ良くなってきたんだ」
「父様……」
「こうでもしないと、うちの宿はあぶないんだよ」
「ちょっと、なにひとりでぶつぶつ言ってるのよ」
支配人は、縁側のほうを見て話している。けれど綾子はいま、そこにはいない。彼のすぐそばに立ち、彼のことを見上げていた。
「いや、綾子にちゃんと話しかけてあげようと思って……」
「綾子なんているわけないじゃない」
女将はばっさりと、そう言い切った。
「こんなおんぼろ宿に、座敷童子なんているわけないわ。せいぜいいるとしたら貧乏神じゃない?」
「かかさま……」
今にも泣き出しそうな綾子の声を、聞いてくれるものはこの部屋には誰一人としていなかった。
だれも綾子のことが見えていなかった。
○○○
『綾子、そんなに泣くなよ』
犬小屋にかけよってくるなり、抱きついたまま離れない綾子に、シロはそう声をかけてくれた。
「だって、母様、ひどい……」
結局、あの部屋で綾子が好きだったものはほとんど捨てられてしまった。おもちゃや布団、ランプをはじめ、障子は穴が開かないようプラスチックのものに張り替えられた。畳も一新して、テーブルや冷蔵庫など備え付けのものもすべて新しいものに交換されていた。
もうあの部屋は、もとあった綾子の部屋ではない。
「父様まで、ひどいよ。昔は自分もあのお手玉で遊んでたのに……あやこ、ちゃんと貸してあげてたのに……」
『人間ってのは、年取ると変わっちゃうものなのかね』
あの鞠もお手玉も、母が綾子のために作ってくれた最初のおもちゃだった。庭に降りて鞠をつくのも、縁側に座ってお手玉で遊ぶのも、綾子はとても大好きだったのに。
『とにかく、もう泣くな綾子。毛が濡れて気持ち悪い』
「シロ……」
もとはシロも、シロウという名前で、毛並みの黒い犬だった。それが二代目、三代目とつれてこられてくるうちに、ただの白い犬をシロと呼ぶようになっていた。
昔は宿のみんなが綾子のことを気にかけてくれていたのに。中には少しだけ、綾子のことを見える人がいたのに。
とくに代々この宿を守ってきた女将たちには、綾子が見えていたのに。
自分の子供のように可愛がってくれたのに。
「もう、あの母様、いや」
『あの女将は、綾子の存在なんて信じてないもんな』
いつしか綾子は、座敷童子と呼ばれるようになっていた。
この宿で生まれ、病弱だった綾子は、宿の女将である母に作ってもらったお手玉で、ひとり部屋の中で遊んでいるような子供だった。調子のいいときは庭に降りて鞠で遊び、番犬のシロウとじゃれていた。
『あの橋を渡っちゃいけないよ』
それは病弱な身体を守るために、母が言い聞かせてくれた言葉だった。
けれど綾子は七歳の時に、風邪をこじらせてそのまま死んでしまった。
それからも母のもとを離れたくなくて、宿に残っていた綾子は、夜になるとこっそり客の泊まる部屋にいたずらをするようになった。綾子が見える人とは遊んだりもした。
綾子が遊んだ人はみな、不思議とその後、出世したり大金を手にしたりと、幸運に恵まれたようだった。
いつしかこの宿には座敷童子が出るといわれるようになり、客が増えていった。宿が繁盛して喜ぶ母の顔が嬉しくて、綾子は泊まりに来る客の相手を積極的にするようになった。
そして月日がたち、年老いた母は息を引き取る前に綾子にひとつのお願いをした。
『あの橋を渡らずに、ずっと、この宿を守ってほしい』と。
ふっくらとしたやわらかい手はいつしかしわしわの節くれだった手に変わってしまっていて、綾子はその手を握りながら何度もうなずいたのだった。
それからは、新しい女将が綾子の母だった。はじめは、綾子の妹にあたる女将が。次は、姪にあたる女将が。女将は代々、綾子のことを気にかけてくれ、そして宿を守ってくれていた。綾子も女将を母だと思い、慕っていた。
だから橋を渡らない約束も守り続けていた。
「ほんとうの、母様に会いたい……」
日が暮れるまで、綾子はずっと、シロのそばで泣き続けていた。
新しくなった部屋に最初に泊まった客は、女将の思い描いたとおりの古風な部屋にいたく感激したらしく、しきりに部屋の中を物色して回っていた。
みんな、綾子に会いたいがためにこの部屋に泊まる。座敷童子の恩恵にあやかりたくて、たくさんのおもちゃを買ってご機嫌をとってくる。自分も出世したい、お金持ちになりたい。そういう気持ちがにじみ出るおもちゃはどんなに新しくても薄汚れているように見えて、綾子はあまり好きになれなかった。
行灯をいじり、本物のロウソクが灯す明かりに大喜びしている客を、綾子は部屋の隅に座って見つめていた。この部屋に泊まる客はみな、半年も前から予約して今日という日を心待ちにしていた。
今日の客は、将来は総理大臣になりたいと願う若き政治家らしかった。綾子から見たらただの大口をたたく青年にしか見えない。あれほど仲居に気をつけるよう言われていたはずなのに、行灯の扉を開いたり場所を移動したりしてしまっている。
客の中には自分からおもちゃを持って綾子に呼びかけてくれる者もいたから、そういう人とは喜んで遊んだ。けれど今日の客は、綾子に一言も声をかけることなく、ひとしきり部屋をながめると布団に入ってしまった。
しんと静まり返った部屋で、かすかに聞こえてきた寝息につられるように、綾子も部屋の隅にまるくなって眠った。
そして、なにやらきな臭いにおいに気づいて目を覚ますと、行灯から火の手があがっていた。
○○○○
「――シロ、大丈夫!?」
火はあっという間に綾子の部屋を飲み込み、宿中へと燃え広がっていった。
行灯の中のロウソクをいじった張本人である客は、火事に気づくとすぐに逃げていってしまった。
あちこちで悲鳴があがり、あわただしい声が聞こえてくる。古きよき宿なだけあり、木造の建物は火がまわるのがとても早かった。
『おれは大丈夫だ。綾子は平気か?』
「うん、大丈夫」
庭に降りれば、一時的に火の手からは逃れることができる。ごうごうと燃え盛る炎で、夜空は煙と赤い光に染まっていた。
肌寒くなりつつあった夜は、熱帯夜が蘇ったかのように暑い。燃え盛る炎が、肌を焦げてしまいそうになるほどの熱気を帯びて揺らめいている。
「――みなさん、落ち着いてください!」
そう叫ぶ女将の声が、宿の中から聞こえてくる。遠くから聞こえてくるのは消防車のサイレンだろう、シロが遠吠えしたくなるのを懸命にこらえていた。
「……宿、大丈夫かな?」
『おれたちも早く逃げないと、ぐずぐずしてると橋が落ちるぞ!』
どうしたらいいかわからずふるえる綾子に、シロが活を入れる。犬小屋は塀のすぐそばにあるため、塀に火が燃え移ればほとんど身動きの取れないシロは簡単に火に巻かれてしまう。懸命に鎖を引いて逃げようとするけれど、地面に打ち付けられた杭は簡単に抜けず、首輪がいたずらに擦り傷をつくるだけだった。
『綾子、大丈夫か?』
燃え盛る炎を、綾子はまばたきもせず食い入るように見つめる。シロは吠えて注意を向けさせようとするのだけど、綾子はごうごうと燃え盛る宿から目を離すことができなかった。
たくさんの思い出がある自分の家だった。生前の思い出も、死んだあとの思い出もたくさん残る、自分の世界のすべてだった。
それが今、目の前で、崩れていく。
「どうして、こんなことに……」
呟き、綾子は唇を噛んだ。
綾子の好きなランプを捨ててしまったから。
勝手に火を使う行灯なんてものに変えてしまったから。
「……母様が、わるいんだ」
自分の欲のために、部屋を変えたから。
だからこんな火事になったんだ。
「母様が、あやこのこと、かわいがってくれなかったから悪いんだ」
大切な大切な鞠とお手玉を捨てられたとき、綾子は母のことが嫌いになった。
そして自分を守り続けてくれた血を引く子供ですら、自分のことを助けてくれなかった。
丸く見開いていた目をすっと細め、綾子は呟いた。
「――わたしをないがしろにするから、こんな目にあうんだ」
『……綾子?』
「あんなに守ってやったというのに」
宿に災厄が訪れることがないよう、綾子は毎日宿を守り続けていた。
お手玉を宙に放るたびに、空気を綺麗にして宿にただよう邪気を祓っていた。鞠をつくたびに、地面から悪しきものが出てこないよう鎮めていた。
シロに自分の力を分け与え、宿中を行き来させることで魔よけにもしていた。
それなのに、宿の者は、誰一人として綾子のしていたことに気づかなかった。
「恩を仇で返しおって」
血がにじむほどに唇を噛み、綾子はシロの鎖の首輪に手を伸ばす。大人の力でも切れないはずの鎖は、綾子が手で触れただけで簡単に壊れた。
「行こうぞ、シロ」
手を差し伸べると、シロは一瞬、驚いたように綾子を見上げた。
そこにいるのは、いつも泣いてばかりいた童子ではない。今にもこぼれ落ちそうなほどに大きかった瞳は凛と引き締められ、微笑みばかりを浮かべていた丸い頬は炎を浴びて燃えるように赤く染まっていた。
髪を逆立てんばかりに怒りを浮かべるその表情は、この宿を長年守り続けていた、守り神の神々しさをも兼ね備えていた。
「この宿にもう用はない」
『……お供いたします』
歩き出した綾子の隣に、シロは従った。
混乱の最中、犬が脱走しようが誰もかまわない。みながみな、自分のことしか考えていなかった。
橋へと続く門の前に立ち、綾子は目の前に続く未知の世界をじっと見据える。
あの橋を渡っちゃいけない。それは亡き母と交わした約束だ。
今の母と交わした約束ではない。
「――行こう」
決して歩んだことのない道を、綾子は歩き始めた。
あの橋のむこうがわへと。
END