すいへいせんじょうのすぴか
マリーの弓は夜を滑って、バイオリンにすぅっと溶けた。いつもより何倍も細かくくねった曲なのに、泡なんか一つも立てずに澄んだ音が流れてゆく。月を背負ったマリーの影は縁がぼんやり光をにじませ、少しだけ透き通って、そのうち消えてしまいそうだ。白く塗り固められた冷たい壁に手をついて、僕はマリーの指が躍るのをじっと見つめた。
苦しげな踊りが終わると、バイオリンのさえずりは勢いよく空へと飛び出した。マリーが弓を走らせるたび、辺りの星が一つ一つ瞬くように見えるのは、僕の気のせいなんだろうか。いつもよりぐっと近づいたきめ細かな星空の上で、短い夏の思い出が次々僕にささやきかけた。悪だくみを思いついたときの笑顔も、セミの声をかき消すバイオリンの響きも、僕を引っ張るざらついた手も、二人で並んで見た、時計も、花火も、映画も、夕日も……じっと目を開けているには、どれもみんな眩し過ぎる。
今、マリーは一体何を考えているんだろう。僕は目をこすって、星と月の明かりを頼りにマリーの顔をじっと見つめた。バイオリンがうっとりと昔の夢を見ている間も、浅い息を繰り返し、傷だらけの指をふるわせて、必死に曲を追っている。雲一つかかっていない、澄み切った顔をして。
浮かんでは消え、浮かんでは消えていく夢たちからは優しく甘い匂いがするけど、それもずっとは続かない。きっと、もうすぐ、この曲が終わったら、僕とマリーの約束はどこかに消えていってしまう。街はまた動き出し、時計は小さな音を重ねて、あんなに明るく光るスピカも、海に沈んでしまうだろう。何の理由もないけれど、今、僕にははっきり分かる。明日の夕日が沈んでも、きっとスピカは昇らない。明るい星がマリーの頬をそっと静かに撫でたとき、最後の夢は音を立て、夜空に小さく弾けて消えた。
夢から覚めたバイオリンはもう一度走り出す。静まりかえった海をこえ、星の間をすり抜けて、見えない空のてっぺんへ。最後の力を振り絞ってがむしゃらに弓を動かし、マリーはとびきり大きな音を夜空に向かって叩きつけた。水平線に届いた音が、跳ね返ってきたんだろうか。マリーが弓を下しても、しばらく夜は震え続けていた。
「終点だ……」
マリーに聞こえないように、僕は小さくつぶやいた。演奏の終わった今が、僕らの旅の終点なのだ。この曲を聴かせるために、マリーはここまで僕を連れてきたのだから。
僕が感じた何倍も、大変な曲だったんだろうか。感想を聞くわけでもなく、マリーはゆるく目をつむって、肩で荒く息をしている。しばらくして息が落ち着いてくると、マリーは窓のそばまで来て、僕の目をじっと見つめた。
「ケースケ……」
マリーは口を小さく動かしただけで、すぐに唇をむすび、僕から目をそらしてしまった。電車の中では言えなかった、続きをマリーは言おうとしている。ズボンの裾を握りながら台詞を探してみたけれど、見つかったのは、屋根に空いた4つの窓と、天井からぶら下がる、大きな釣鐘だけだった。
「スピカが見えなくなったら、スピカは……どこに行くのかしら」
窓のふちに手をかけて、マリーは夜空へ独り言を放した。引越し先。僕はまだ、マリーの引越し先を知らない。博多とか、長崎なら、時々くらいは会えるはずだ。
「どうかな……」
それに、多分、マリーももっと楽に言えるはずだ。
「海に沈むんだから、海の向うじゃないかな。中国とか」
名前しか知らない国がそこにあるのを確かめようと、僕は海を振り返った。
「パパがね、言ってた。海の向こうの……中国より、もっとずっと西に、イギリスっていう国があるんだって。そこにおじいさんとおばあさんがいるんだって」
中国よりも西があるなんて、僕はそんなの聞いてない。今ここで倒れたら、海よりもっと深いところにどこまでも落ちていくような気がして、僕は必死に踏ん張った。
「一年中じめじめして寒いところなんだって……」
「うん」
「野菜がなくて、ご飯がおいしくないって……」
「うん」
自分の生まれた国なのに、おじさんはイギリスのことがあまり好きじゃないのかもしれない。けど、おそるおそるマリーの顔をのぞいたとき、寄り道は終わってしまった。
「それでね……向うには音楽をしてる人がいっぱいいて、もっとちゃんとバイオリンの勉強ができるって……」
それまで明るく伸びていたマリーの声がしおれていく。
「それでね、それで……」
僕は大きく息を吸って、それからゆっくり吐き出した。本当につらいとき、本当に苦しいとき、もうマリーを一人でがんばらせたりはしない。マリーの手を軽く引いて、僕は明るい声で打ち明けた。
「マリー、泥棒がどこにいるのか、僕、やっと分かったんだ」
振り返ったマリーの目は大きく見開かれ、映った星が小さく震えている。僕はマリーに近づいて、手探りでポケットを見つけ、その中に手を差し込んだ。指先がふれたのは、とても硬くて冷たいものだ。
「どこに手突っ込んでるのよ……変態!」
マリーは弓を握った拳で、弱々しく僕を突き放した。僕は逆らわずに後ずさったけれど、それももう手遅れだ。僕の手はしっかりとねじをつかんでいる。
宇宙を巻く特別なねじは、小さいけれど、とてつもなく重い。僕は手を開いてマリーにねじを差し出した。思いつく一番の、明るくて楽しい笑顔で。
「時計のねじを盗んだのは、本当は僕だったんだ……だから、このねじはマリーに返すよ」
震える手から落ちた弓が、床に倒れる音がした。僕は今、昨日よりひどいことを言っているのかもしれない。さっきまでバイオリンを弾いていたのが嘘みたいに、マリーの手は冷えきっている。僕は右手でマリーの手を裏返し、宇宙のねじをそっと握らせた。
「違う、そんなの違うわ……」
弱々しくつぶやいて、マリーは小さく首を振ったけれど、けっして手を振りほどこうとはしない。マリーがここで演奏したのは、受け取るしかないことをどこかで分かっていたからだ。そしてマリーは、それを一番怖がっている。
「でも、だから、聞いて。僕――」
怖くない。本当は、それは何も怖いことじゃないんだ。震える手にねじを握らせて、それから僕はマリーの目を見つめた。星明かりにきらきら光る青い瞳に届くように。声にしっかり力を込めて、僕は約束した。
「僕、必ずマリーを見つけるよ。地球の裏側に隠れたって、必ずマリーを見つけて見せる。だから――」
泣いちゃだめだ。泣いたら、ただの強がりになってしまう。僕は必死にこらえたけれども、流れるものを止めることは誰にだってできやしない。目にたまった熱い涙がとうとう溢れてしまいそうになったとき、マリーが急に近づいた。
「ありがとう」
背中を静かに締め付けるマリーの長い腕からは、強い熱が伝わってくる。マリーの肩に顔が埋まってなんだかカッコ悪いけど、僕は構わず抱き返し、マリーの熱を確かめた。僕はこの熱を、絶対に忘れない。10年たっても、20年たっても、この熱を覚えていれば、必ずマリーの居場所を教えてくれる。
「……ありがとう、マリー」
友達になってくれて。いろんな曲を弾いてくれて。あの日、真昼の交差点にいてくれて、本当に、ありがとう。星たちが広い夜空に溶けていくのを眺めながら、大きな涙がいくつもいくつも首筋を流れていくのを、僕はずっと数えていた。
「ケースケ、でもね……やっぱりこのねじは、私のものじゃないわ」
小さくしゃくりあげながら、マリーはゆっくり話し出した。
「私のねじはきっと、初めからケースケが持ってたの……だから、私、このねじはいらない」
元の場所に、返しに行くわ。マリーはそっと僕から離れ、バイオリンをケースにしまった。本当に僕は何か、マリーの力になれたんだろうか。それがいつ、どこのことだったのか、さっぱり分からないけれど、それでマリーが進めるなら、僕はいつでもねじをまくよ。立ち上がったマリーの手をとり、暗くて長い階段を、僕はまた手探りで進みだした。