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よるのきょうかい

 公園を歩きながら、僕は西の海をぼんやり眺めた。波の音や鳥の声を塗り忘れた風景は、いつもと同じ海だなんて、とてもじゃないけど思えない。ただ、粘っこい潮のにおいだけが、これが海だということを教えてくれた。

 少し目を凝らしてみると、水平線のすぐそばに、大きな星が見えた気がした。あれがおじいさんの言った、スピカという星だろうか。

「そうだ、教会に行かない?」

 しばらく黙っていたマリーが、やけに明るい声でさそった。

「ほら、礼拝堂の屋根の上に、鐘の塔があるじゃない? 前から一回登ってみたかったの。今なら誰にも邪魔されないし、こんなチャンス、もう二度とないわ」

 教会の屋根に生えた、青い屋根のとがった塔を、時計屋に行くとき、いつもマリーは見上げていた。あそこに登れば街が見渡せるし、きっと星もよく見える。特に文句もなかったから、僕はマリーに賛成した。

「うん、登ってみよう。泥棒を探すのは、それからでも別にいいと思う」


 僕たちは道に戻って、また通りを北に向かった。お店の明かりをくぐりながら、駅前を通り過ぎて、時計屋のある方へ。さっきと同じ通りなのに、陰がからっぽになったせいか、街灯はふわりと柔らかく、必要なものだけを照らしているような気がする。楽しげに夜を過ごす大人たちをよけながら、僕たちは確かめるよう、ゆっくりと歩いた。

 月明かりに照らされて、日が沈んだばかりの空に、教会はうっすらと浮かび上がっていた。通りもこのあたりまで来ると、ほとんど人の姿がない。鉄の門も固くしまり、ルド女の広い土地の中には、重たい静けさが敷き詰められていた。

「どうやって入る?」

 僕が足を止めて聞くと、マリーは目配せして答えた。門の脇につけられた守衛さんの部屋の窓から、人間の明かりが漏れて石畳を照らしている。

「窓が開けっぱなしになってるでしょ。あそこから中に入って、鍵をいただくのよ」

 なんだかもう、どっちが泥棒だか分からない。スカートがめくれるのもお構いなしでカウンターによじ登り、マリーは中に飛び降りた。他の女の子とマリーが違うのは、髪の色でも背が高いことでもなくて、あまりにものを気にしないところだ。一度見ているはずなのに、夜だとマリーの太ももは怖いくらい滑らかな光に覆われていて、僕は思わず目をそらしてしまった。

「何してんの? さっさと来なさいよ」

 振り返ったマリーの手には、鍵束が握られていた。止める気なんてなかったはずなのに、いざとなると悪いことをしている気がしてくる。

「ねえ、マリー……やっぱり、まずくない?」

 カウンターの上についた靴の跡を見つけてしまい、僕はマリーを引き止めた。

「いいの、いいの。バレなきゃどうってことないわ」

 少しも迷うそぶりを見せずに、マリーは扉を開けてしまったけれど、マリーの無茶に付き合えるのも、これが最後になるかもしれない。それに、今朝うちを出た時から、なんにでも付き合おうと決めていたはずだ。僕はカウンターによじ登って、マリーのあとを追いかけた。

 鍵のはねる楽しげな音に誘われて、僕は広場を横切った。ルド女の玄関に映ったのか、向うに並んだ三つの月が、じっと僕らを見つめている。広いポーチに飛び乗ると、マリーは鍵を順番に試した。

「あった」

 五つ目に選んだ鍵が、重たく湿った音を立てた。まだ見たことはないけれど、教会の内側には、いったい何があるのだろう。マリーはゆっくりノブを引っ張り、僕は隙間からそっと中をのぞいた。

 教会の中は、古びた木のにおいがした。どこか休みが明けたばかりの、学校のにおいに似ている。並んだ椅子にふわりとかかる青白い光をかき分け、僕たちはじゅうたんの上を歩いた。周りがどれだけ静かでも足音だけはついてきたのに、それも今では聞こえない。とても固く組み上げられた教会の静けさだけが、遠くから聞こえてくる。

 時計だ。僕はふいに、宇宙の時計のことを思い出した。時計屋のおじいさんは、あの時計を作ったのは神様だと言っていた。もしそれが本当なら、僕たちが何度も聞いた時計の音のもっと奥には、この静けさが隠れていたのかもしれない。

「ケースケ、こっちよ」

 塔につながる小さな扉は、奥の壁の右側にあった。高くて危ないからだろうか、この扉にも、鍵がついていたらしい。マリーは少し手間取ったけど合った鍵が見つかって、渦を巻く階段を僕たちは登り始めた。

「ねえ、マリー。何で僕が先に登るの?」

 真っ暗な塔の中を手探りで進みながら、僕はマリーに聞いてみた。勝手にさきさき行ってしまうのが普段のマリーだったから、これは少し不思議な気がする。

「別にいいでしょ? 私だって来たことないし、何かあったら危ないじゃない」

 そういえば、高いところも危ないところも、最近めっきり怖くなくなった。あちこちマリーに登らされていつの間にか慣れたんだろうか。堅い木を革靴が叩く、ぎっしり詰まった足音がついてくるのを確かめながら、僕はだんだん空に近づいていく。どれくらい登っただろう。小さな窓から外をのぞいてみると、人の明かりを散りばめた夜の街が広がっていた。

「すごいよ、マリー。街が見える!」

 思いっきり叫んだのに、マリーの返事どころか、足音さえ聞こえてこない。背中に冷たい汗が刺さる嫌な感じにあごが震えた。僕が速く登りすぎたんだろうか、マリーが途中で休んでいるんだろうか。それだけかもしれないけれど、僕は振り返るのが怖くなった。もしここで振り返ったら、そこにはもう暗闇しか残っていないような、そんな気がして仕方ない。

「ねえ? マリー……」

 それでも僕は、確かめずにいられなかった。せっかくここまで登ってきたのに、マリーがいなくなってしまうなんて、そんなのは絶対に嫌だ。僕たちは塔に登って、街や星空を一緒に眺めて、それに、僕にはまだ話さなきゃいけないことが残ってる。冷えきった暗闇に目を凝らして待っていると、白い手が伸びてきて僕のほっぺたをぎゅっとつねった。

「べそかいてないで、さっさと歩きなさいよ。この泣き虫!」

 乱暴な文句を聞きながら、僕は小さくため息をついた。この痛さが本物なら、これは都合のいい夢じゃないんだろう。熱を持ったほっぺたをさすりながら、僕はもう一度階段を上りだした。


 しばらくして、頭に何かぶつかった。重たい痛みがじんじんひびいて転びそうになったけれど、こんなところで転んだらそれこそもっと痛い目に合う。僕は壁に手をついてゆっくりとしゃがみこみ、大きく息を吸ったり吐いたりした。

「大丈夫、こぶにはなってないみたい」

 マリーは髪をかきわけて、僕の頭をじっくり調べた。

「行き止まりかな? せっかくここまで登ったのに」

 いきなり頭にぶつかった堅いものの正体を、手で触って確かめた。木だ。木の板が張り合わせてある。めいっぱい押してみると、板は少し浮き上がり、ふちから光が差し込んだ。

「扉だ! 上についたんだ!」

 階段を少し上って重たい木戸をはね上げると、金具が強く打ち付けられて夜空の開く音がした。真っ暗闇にいたせいか、嘘みたいに外が明るい。二つの窓から見える空には、見たことがないくらいたくさん星がまたたいている。

「早く登ってよ、私が出られないじゃない」

 マリーにせかされ、僕は夜空に近づいた。窓は床まで続いていて手すりもなにもついてないから、うっかり足を滑らせたらここから下までまっ逆さまだ。窓の間に少し残った柱みたいな壁に抱き付き、遠い地面を見下ろした。

「ケースケ、星は見える? ほら、おじいさんの言ってた星。おとめ座の……スピカっていう」

 マリーの足音が階段を上がってきた。西の空と教わったけど、どこにあるのかまではわからない。

「待ってよ、今探してるんだから……ええっと」

 見渡す限り広がる海と夜空が合わさるさかいの上に、その星は確かにあった。スピカだ。今にも沈みそうだけど、ありったけの光を放ってスピカは僕らに呼びかけている。僕はスピカを指さして、同じくらいありったけの声で叫んだ。

「あった! あそこだよ、マリー」

 振り返った僕に向かってマリーは優しく笑いかけた。僕を何度も夢中にさせたバイオリンを片手に下げて。

「約束してた曲、弾いたげる。まだ上手くできるか、ちょっとわかんないけど」


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